063
「おう、御影さん、体調よくなって来てますね」
「あ、本当ですか」
「はい。ずっとよくなってますよ。………何かいいことでもあったんですか?」
目の前に座る椎野先生がけらけらと笑った。その横顔を見てふと思う。兄姉ってやっぱり似てるなあ。
「……先生」
呼ぶと、端正な横顔が振り返った。
「はい?」
先生、“はい?”じゃないです。
「あの、服」
「ああ、はい、どうぞ?」
「ありがとうございます」
先生から受け取ったセーターに腕を通す。鳥肌が立った腕に、ごわごわした服がくすぐったい―――――。
素肌だった身体にまとわりつく衣服の感触を感じながら、僕はそっと目を伏せる。
何かいいことでもあったんですか、か。
あったよ、先生。
「先生ー」
「なんですか」
「紫苑がね、離乳したんですよ。すごくないですか?」
先生は微妙な顔をする。
「ゆきこから聞きましたよ。あなた、紫苑がミルクを飲んでくれないーってゆきこになきついたんですって? ……何やってるんですか」
「あ、いや。……それは」
くっ、知っていたのか。
下から見上げるように椎野先生の顔をうかがうと、先生とばっちり目が合った。どちらからともなく噴出す。
涙目になって笑いあったあとで、先生が思い出したように言った。
「笑うようになりましたね、“ちゃんと”」
「……………はい」
彼女がいなくなってから、二ヶ月がたっていた。
紫苑は9ヵ月。もともと体が小さくて、成長もほかの子と比べればだいぶ遅いけれど、順調に、大きくなっている。
さきほど先生と話していたように、紫苑は離乳も果たした。めでたいことだ。ついこの前までミルク大好きだったくせに、今では何でも口の中に入れようとするから、正直困っている。
「ほんとのところは、忙しすぎてもう何にも考えられてないんです」
「ほう」
そういって、先生が身を乗り出す。僕は脇のベッドの上においておいた紫苑を捕まえて抱き上げ、その頭を軽くなでながら話し続けた。
「紫苑はたぶん今一番大きくなっていく時期だし、もうすぐコンクールもありますし―――――あと、雫の葬式も済ませなくちゃいけなかったですし」
あと、事故の事後処理もだ。
裁判を起こし、賠償金とやらをもらうらしいのだが、怒りを抑えるので精一杯でほとんどはなしを聞いていなかった、というのが本音だ。
どうでもよかった。
どの賠償金とやらも、はした金だったし―――――――僕が描く、一枚ほどの値段だったし。
ありがたいことに、やることはたくさんあった。
腕の中で辺りをきょろきょろと見回す紫苑をあやしながら、考える。
いまさらかもしれないけど、しつこいなあ、って、思うかもしれないけど、紫苑。
今ここに、僕のところにいてくれて――――――――………
ありがとうな。
「紫苑くんは、幸せですよ」
椎野先生の言葉に、顔を上げた。
先生は優しく、微笑んでいた。
「大丈夫です。あなたが笑っているだけで、幸せでいられる家族が、ずっとあなたのそばにいます」
僕も笑う。
よく言われていたことを思い出した。
――――安心するの。『大丈夫だよ』って、あなたが言ってくれるからだよ………
「……はい…っ!」




