059
紫苑は、どうやらお腹がすいていたらしかった。
すっかり忘れていた。
紫苑が滅多な事じゃあ、泣けないこと。
そう言えばおっぱいの時間は、全部彼女が分かっていたっけ。そうか、雫がいなければ僕は、紫苑にごはんをあげることさえできないのか。
とんだ父親だなあ。
失格、って、誰かに言われたって怒る権利はもうないね。
腕の中で、必死にゴムの乳首に吸いつく紫苑をみる。言いようのない安堵が胸の中、じんわりと広がった。
よかった。
いよいよ、一人ぼっちになってしまうかと思った。
食事を終えて、小さなげっぷをした紫苑が手を伸ばしてくる。
その小さな身体を胸に抱えなおして、抱きしめる。柔らかい感触にもやっぱり、安心した。
顔を上げると、ゆきこ先生と目が合った。
途端に気まずさがこみあげてきて、ほとんど同時に、そろって目をそらす。
「「あの」」
「「あ」」
「「さ、先どうぞ……」」
その声まできれいにそろってしまった。もう一度、視線を目ぐ合わせる。
その瞳は、一番最初に出逢った時の、冷やかなそれにとても似ていた。
だが、その奥にある感情は、それとまるで違うモノ、なのだろう。
よく見ると、先生の頬は少し赤く、目元は腫れあがっている。さっきまで泣いてくれていたのかな。そんな妄想をしてから、椎野先生の言葉を思い出した。泣いていないわけがなかった。
「あの、ごめんなさい」
そんな先生が不意に言った。
「紫苑くん、だっこさせてもらって、いいですか」
「あ、もちろん」
先生が立ちあがって、僕の方に歩いてくる。紫苑を渡そうと、少し持ち上げる、その瞬間だった。
ふわり、と周りの空気が動く。
この何日間、嫌になるくらい見ていた、病院の白衣が視界いっぱいに広がる。
先生に、抱きしめられていた。
「あ、の………――え?」
どうしたらいいかわからず、空いた右手がふらふらする。
しばらくすると、何も言わずに先生は僕の肩口から顔を上げた。
至近距離から、その顔を見ることになる。そんなつもりはないのに、心臓ははねた。
先生の顔がゆがむ。
「………ごめんなさい」
やっとのことでそう言って、先生は弱々しく首を振った。
僕は呆然としたまま、それを見ていた。
「あの、大丈夫ですか?」
「………大丈夫ですよ、私は。それより慧さ―――いえ、御影さんの方が」
「慧でいいですよ」
「……………え」
「だってもう同じ名字の人、いないじゃないですか」
息を漏らすようにして、先生がやっと笑った。それは笑顔と言うにはあまりにも自嘲に満ちたものだけど、だけど――――――
笑って、くれた。
ひとしきり笑って、先生は咳き込むように涙をこぼした。
「慧さん、背中貸して下さい」
「……胸じゃなくていいんですか?」
「いいです。背中がいいんです」
じゃあ………はい。
丸椅子を回して、先生に背を向ける。先生がそっと額を預けてくる感覚とともに、あたたかい雫が僕の背を濡らした。紫苑を前に抱えているから、なんだかいろんな意味で身体があたたかい。
完全に、これじゃあさっきと逆じゃないか。
紫苑の背を叩きながら思う。そして、気がついた。
気がついた。
ここにいた。………ここに、―――いた。
あ、何で気がつかなかったのかな。
「雫さん」って、彼女の事だけ名前で呼ぶ先生。僕が怯えて震えているのに、励ましてくれた先生。僕の病室に乗り込んできて、怒鳴り散らしていた先生。
どうして気がつかなかったんだろう。
見開いた眼から、頬を雫が伝った。
また白い世界が見えた。
真っ白で塗りつぶされた世界で、振り返った彼女がにっこりと、口角を上げて。
―――――――慧くん。
僕の名前を、呼ぶ。




