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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
第十二話 君が生きた証なんて言うふざけた定義
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059


 紫苑は、どうやらお腹がすいていたらしかった。


 すっかり忘れていた。

 紫苑が滅多な事じゃあ、泣けないこと。


 そう言えばおっぱいの時間は、全部彼女が分かっていたっけ。そうか、雫がいなければ僕は、紫苑にごはんをあげることさえできないのか。


 とんだ父親だなあ。



 失格、って、誰かに言われたって怒る権利はもうないね。


 腕の中で、必死にゴムの乳首に吸いつく紫苑をみる。言いようのない安堵が胸の中、じんわりと広がった。

 よかった。

 いよいよ、一人ぼっちになってしまうかと思った。



 食事を終えて、小さなげっぷをした紫苑が手を伸ばしてくる。

 その小さな身体を胸に抱えなおして、抱きしめる。柔らかい感触にもやっぱり、安心した。



 顔を上げると、ゆきこ先生と目が合った。

 途端に気まずさがこみあげてきて、ほとんど同時に、そろって目をそらす。


「「あの」」



「「あ」」


「「さ、先どうぞ……」」


 その声まできれいにそろってしまった。もう一度、視線を目ぐ合わせる。

 その瞳は、一番最初に出逢った時の、冷やかなそれにとても似ていた。


 だが、その奥にある感情は、それとまるで違うモノ、なのだろう。


 よく見ると、先生の頬は少し赤く、目元は腫れあがっている。さっきまで泣いてくれていたのかな。そんな妄想をしてから、椎野先生の言葉を思い出した。泣いていないわけがなかった。


「あの、ごめんなさい」


 そんな先生が不意に言った。



「紫苑くん、だっこさせてもらって、いいですか」


「あ、もちろん」

 先生が立ちあがって、僕の方に歩いてくる。紫苑を渡そうと、少し持ち上げる、その瞬間だった。


 ふわり、と周りの空気が動く。

 この何日間、嫌になるくらい見ていた、病院の白衣が視界いっぱいに広がる。



 先生に、抱きしめられていた。



「あ、の………――え?」


 どうしたらいいかわからず、空いた右手がふらふらする。

 しばらくすると、何も言わずに先生は僕の肩口から顔を上げた。


 至近距離から、その顔を見ることになる。そんなつもりはないのに、心臓ははねた。


 先生の顔がゆがむ。

「………ごめんなさい」


 やっとのことでそう言って、先生は弱々しく首を振った。


 僕は呆然としたまま、それを見ていた。



「あの、大丈夫ですか?」

「………大丈夫ですよ、私は。それより慧さ―――いえ、御影さんの方が」

「慧でいいですよ」

「……………え」


「だってもう同じ名字の人、いないじゃないですか」


 息を漏らすようにして、先生がやっと笑った。それは笑顔と言うにはあまりにも自嘲に満ちたものだけど、だけど――――――

 笑って、くれた。



 ひとしきり笑って、先生は咳き込むように涙をこぼした。


「慧さん、背中貸して下さい」

「……胸じゃなくていいんですか?」

「いいです。背中がいいんです」


 じゃあ………はい。


 丸椅子を回して、先生に背を向ける。先生がそっと額を預けてくる感覚とともに、あたたかい雫が僕の背を濡らした。紫苑を前に抱えているから、なんだかいろんな意味で身体があたたかい。



 完全に、これじゃあさっきと逆じゃないか。

 紫苑の背を叩きながら思う。そして、気がついた。



 気がついた。



 ここにいた。………ここに、―――いた。



 あ、何で気がつかなかったのかな。

 「雫さん」って、彼女の事だけ名前で呼ぶ先生。僕が怯えて震えているのに、励ましてくれた先生。僕の病室に乗り込んできて、怒鳴り散らしていた先生。

 どうして気がつかなかったんだろう。


 見開いた眼から、頬を雫が伝った。



 また白い世界が見えた。


 真っ白で塗りつぶされた世界で、振り返った彼女がにっこりと、口角を上げて。



 ―――――――慧くん。





 僕の名前を、呼ぶ。



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