058
紫苑の異変に気が付いたのは、夜半を少し過ぎたころ、消灯の時間は過ぎて病院がまた暗闇に包まれる頃。
いつの間にか夜のそれに変わっていた外の風景に息をのむ。すっかり、体内時計のリズムが狂っていた。
部屋が、冷え切ってしまっていた。
なんだか寒いとは思っていたんだけどな。鳥肌の立った、腕を見る。白衣の裾をまくりあげたその腕は、絵具にまみれている。
鈍感になったような気がする。すべてに、おいて。
感覚を鈍らせることは悪いことじゃない。今に至ってはなおさら―――――わかっていてはいても、嫌悪感を押さえつけることだけには苦労した。
顔をしかめながら、部屋の電気を明るくして、エアコンのスイッチを入れる。
あたたかい空気がエアコンの送風口から流れ出してきた。
身体の芯から冷えていたのが、少しずつほぐれてくる。そして、明るくなった部屋で、僕はそれを見た。
「紫苑―――――……!」
紫苑が見るからにぐったりした様子で、ベビーベットの上に横たわっていた。
なんで、どうして。
すぐに混乱で頭の中がいっぱいになる。
怖い怖い怖い―――――恐い―――………!!!
嫌だ
どうしてみんな僕だけを―――――………
§ § §
僕は、どうやってゆきこ先生のもとへたどり着いたのだろう。
いつの間にか、ゆきこ先生のいる当直室の中で、先生に背を撫でてもらっていた。
優しい手がゆっくりと背を這っている。
泣きたいくらい安心して、そっとささやいてくれるその声にも身体が波打つ。
泣いていた。
いくら頑張っても、泣けなかったのに、泣いていた。
「御影さん」
「大丈夫ですよ――――――……」
喉が張り裂けそうに痛かった。こんな痛みがあるくらいなら、あの心臓の痛みは何だったのかな、ってくらい痛かった。
久しぶりに舐めた自分の涙は、恐ろしくしょっぱかった。しょっぱくて、苦い。
腹の底におしこめていた、恐怖、後悔、懺悔。
吐き出したら、吐きだしたら。
周りの人も、自分も、殺してしまうような気がしてた。
実際にはそんなことはなかったけど、ああ、もう。
泣くって、こんな苦しい行為だったっけなぁ……―――――。
辛くて、痛くて。
あの日、あの時間。
彼女が泣いていた姿をただ僕は見ていた。見ていることしかできなかった。
他に何かできることがあったんじゃないか。
支離滅裂な事を、泣きながら先生にぶつけた。先生はただ「大丈夫」と囁きながら僕が泣きやむのを待っていてくれた。
§ § §
あれ、ここ、どこ?
白い世界。色も無い。
そんな世界に立っている。
どこからともなく吹いてきた風が、僕を呼んだから。
振り返る。
そして
そこに長い髪を嬲られ、立っているその人が遠くに見えた。
なんだ、そんなところにいたの?
僕は手を伸ばす。
行きたいよ。
ねえ、呼んでくれたら。
僕はいつだってそっちに行くのに。




