056
そっと、暗い病室のドアを開ける。
もう、夜も遅くなって、廊下の電気はついていなかった―――――まあ、当たり前か。
彼女のベッドの近くに置いた丸椅子に、買ってきた画材一式を置いた。
ぼんやりとそれを眺めながら。
主人の言葉を、反芻する。
別に、なんとなく分かっていたような気がしていた。
シオンは、運命だった。
運命なんて言葉で片付けるのは、自分を痛めつけるだけだと分かっていても、分かる。
運命、だ。
おもむろに手を伸ばして、雫の顔にかかっている白い布をそっと剥ぎ取った。
半分のない顔。
目を閉じた、穏やかなシ二ガオだ。
どこまでも、美しい。
僕は、彼女から剥ぎ取った白い布を戻すことなく、丁寧に畳み、画材道具を広げ始めた。
絵筆。絵具。パレッド。キャンバス。水入れ。タオル。白衣。防水シート。エアブラシ。油性マーカー。
新調した、見慣れた道具。
目を閉じる。
思いだす。
筋の綺麗な鼻。薄い唇。小さな眉に、まっすぐな髪。
そして、挑むように僕を見つめていた、紫がかった大きな瞳。
思い出して、心の中で反芻して。その、生きた証を心の中に刻み付けて。
描け。
声が聞こえたその瞬間、僕はゆっくりと目を開き、無造作にパレッドに色を絞り出した。
§§§
一度だけ、検温に椎野先生が来た。先生は病室兄に立ち込めるきつい絵の具のにおいに一瞬戸惑った顔をして、そして僕の手元を見て納得したようにかすかにうなずいた。
「御影さん、寝てませんね」
僕の顔色からばれてしまったのか、それとも何かの数値に出てしまったのか。
彼はそう言って顔を曇らせた。
「無理をしないでください、一応あなただって患者なんですよ」
そんなこと、わかってる。
「…………体調はいいので、やらせてください」
「そうはいっても、御影さん、顔色―――――」
「大丈夫です」
大丈夫ですから。
なぜか、泣きそうな声が漏れた。
悲しくも、ないくせに。
…………しばらく先生は黙っていた。しばしの沈黙の後、彼はわざとらしい溜息をついて、「わかりました」といった。
「紫苑くんには細心の注意を払うこと。体も小さいですし、病院内は心配なことが多いですから………あと、一番に、」
「自分の体のことを考えてあげてください」
「紫苑くんをしっかり守るためにも、あなたは元気案ままでいなくてはいけません――――――わかりますね。|あなたのからだはもう、あなただけのものではないんです」
その目が、ゆきこ先生のそれと恐ろしく似ていた。
思い出したついでに、どうしても気になってきてしまって、椎野先生に聞いてみる。
「先生」
「………はい」
「ゆきこ、先生は」
ああ、と先生はうなずいて、また顔を曇らせた。「出勤は、きちんとしていましたよ」
出勤、は?
先生の言葉に引っかかり、眉をひそめてしまう。
ただね、と椎野先生は言葉をつなげた。
泣き出すんですよ。
「白衣を着て、いざ診察をしようとすると泣きだして、結局吐くんです――――そんな状態の医者を患者さんの前に出すわけにはいかないので書類整理をやらせていますけど。
どうしたもんかと僕も困っています」
本当に困った顔をしながら彼は言う。
一方、僕が感じたのは共感でも同情でもなく、
羨みだった。
僕にはもう、何も残っていない。あるのは、胸に開いたこの穴と、頼んでもいないのに動き続ける心臓と、彼女によく似た小さなぬくもりだけ。
苦しいよ。
だれか、
助けてよ―――――――………――




