003
「………うわぁ」
僕の部屋に足を踏み入れた彼女が息をのんだ。
「何、この惨状」
「あはは………いやぁ、掃除してなくて」
「いや、それでもここまで来るのはすごいよ。え……ちょっと……ここでどうやって生活してるの」
ちょっと待っててね。
僕は言い、足元に散らばった画材を整え、一か所に集めていく。途中から、彼女も手伝ってくれた。彼女のおかげか、割とすぐに僕たちが座れるくらいのスペースは確保できた。
「………さて」
彼女はご機嫌そうに笑う。
「ん」
座って、何をするのかと思えば。
彼女はいきなり、ばっと両手を広げた。
その背中に両手を回す。いつになくぎゅう、と強く締め付けられたその腕が、本当に心地いい。
「ねぇ、君」
彼女の声。
「ごめんね、ずっと黙ってて」
「いや」
僕は彼女の肩に顔を埋めるようにして、その匂いを嗅いでいた。彼女の言葉に、首をふる。君は、悪くない。そう、ささやくと、彼女は安心しきったようにその肩の力を抜いた。
「ね、ね」
はずしたい、これ。
彼女が言い、僕はそっと彼女のヘッドフォンに、手をかける。彼女が、ぴく、と体をこわばらせる。
「…………はず、すよ」
「……う、うん」
そして、僕はそのまま、彼女のヘッドフォンを、
外した。
分かっていたけど、僕は思わず顔をしかめた。彼女の、右の耳。そこには、大きな補聴器がついていた。
そっと、僕はその耳を撫でた。
形のいい、その耳は。
「逆、だよ」
彼女は言った。「聞こえないんじゃない。………聞こえすぎるの」
公園のベンチの上で、彼女が言ってくれたことを思い出した。
『私もあなたと同じ、いわゆる、天才。
私の右耳には、世界のすべてが、音に聞こえる』
『分かるかな? 君が、感じている、世界は、きっと、私と似ている世界。
あなたが見える世界の色は、私が聞こえる世界の音。
私は、あなたが視ている世界を、聞きたかった。だから、あの時、君に聞いた。どうして? って。君は覚えているかな?』
―――――これの……どこが虹なの?
―――――形かもしれないし色かもしれないし、順番かもしれない。もっと、違うものかもしれない。そこら辺は僕にもわからないけど。
なんとなく、これは、虹。
「七つの音が混ざり合って、溶けあって。そうやって君の絵は、綺麗な音色を奏でてる。その音は、雑音だらけのこの世界で、私は君の音に安らぎを覚えた」
僕の胸に顔を埋めて、彼女はくぐもった声で呟いた。その背中を撫でながら、僕は笑った。
「君は何か楽器をやってるの? やってるなら、さ、僕に」
~♪
鼻歌が、聞こえた。一瞬、どこから聞こえているのか、分からなかった。
それに。
音は、ひとつじゃない。もっと、たくさんの、音が混ざり合って………
「綺麗だ………」
鼻歌は、まだ続いていた。目を、閉じる。さまざまな色が瞼の裏側で交錯する。燃えるような赤から、いまにも消えそうなオレンジへ。燃え盛る炎。見える。視える。
音が、終わった。
「ソナタ“熱情”………どう?」
ピアノとか、弾けないんだけど。
顔を上げた彼女はいたずらっ子のように肩をすくめ、舌を出した。
「音は、分かるから。えへへ」
僕はそっと目を開け、彼女の頬を両手で挟んだ。「………君は、」
彼女が頷く。
「うん」
「きみは………っ」
また僕にしがみつくように、胸に顔を埋めた。彼女は、今まで出逢った誰よりも愛しくて。
「………一緒に、いよう」
「ねぇねぇ、それ今日二回目ー」
「君が笑っていてくれるから、僕はっ………」
「それもだよー」
楽しそうに彼女は笑う。僕の腕の中で、胸の中で、僕にしがみついて。
甘えてくれる。
だから僕は、僕でいられる。