054
椎野先生に紫苑を連れてきてもらって、力いっぱい抱きしめたら。
やっと、人心地がついた。
「ひとごこち」
もう人でもない癖によく言ったものだ、と紫苑の肩口のあたりに顔をうずめながら考える。冗談でもない。
頭の芯がしびれたようになっている。
なんだか、何も考えられないのはさっきからと同じだけど、胃の底にたまっている不快感は、これどうしたらいいのかな。
警察官だと言う人が来た。聞いてもいないのに、彼女が死んだ時の状況を話してくれた。
凄惨な、状況だったらしい。
腹が立ったのは、その状況下でも「彼女のおかげで」死者がたったのひとりだったことだ。
負傷者は多かったらしい。飛び散ったガラスや熱風、それらに襲われてわりとひどいけがをした人も―――――。
雫がすくった命もあったと。
まだ意識は戻らないが、高校生の女の子で―――――彼女の陰に隠れていたから一命を取り留めたのだと。
それを聴いて、雫が死んでから初めて感情を持った。
怒り。
雫が。雫のおかげで。雫がいたから。
“彼女”はもう、いないのに。
膝の上で静かな寝息を立てる紫苑を撫でながら、ただ、彼らの言葉を聞いていた。無表情だったように思う。あまり、記憶はない。
「お会いになりますか」
……誰に、ですか?
「その、女の子です。同じ病院内にまだいますよ」
どうして?
「いえ……どうしても何も」
彼は困惑した。僕はただ、紫苑を撫でつづけていた。
彼は息を吸いなおしてから、気を取り直したように「では」と言った。「旦那さんにお会いしたがっている方が、いらっしゃるのですが」
「…………?」
心当たりはないが。
何も言わずに首を振った。上げていた目をまた戻して、紫苑を見やる―――紫苑はやっぱり、気持ちよさそうな寝息を立てている。
ため息をつく。
別にどうでもいい。
雫のせいで誰が助かったとかそんなのどうでもいい。
彼女の代わりに何が世界に残ったかなんて、知りたくもないよ。
一時外出許可をやっとこさとって、僕は紫苑を前に抱えたまま外に出た。先生には相当文句を言われたけど、僕にはどうしても。
いけなきゃいけないところが、
ある。
聞かなきゃいけないことがある。
からり、と軽い音がして、僕は薄いガラスの引き戸を開けた。
奥の方で何やら書きつけをしていた、主人が目を上げる。
「すみません、今日はもう―――――」
目が、あった。
主人はゆっくりと目を見開いた。
「…………あんた」
「……ご無沙汰、してます」
一瞬ののち、主人は目元を厳しくして、そして緩めた。
「たいへんだったな」
あ、そうか、この人は。
知っているのか。
気がつけば、静かにうなずいていた。
「………そこは冷えるでしょう、入りなさい」
頷くのが、精一杯だった。




