053
言うだけ言ったゆきこ先生は、遠慮がちに病室に入ってきた他の先生に連れて行かれた。彼はしきりに頭を下げて「ごめんなさいごめんなさい」と、抵抗するゆきこ先生を脇に抱えてそそくさと病室を後にして行った。
僕は急に広くなった病室で呆けたように固まる。
ゆきこ先生が放った罵詈雑言がぐるぐると頭の中を駆け巡る。違う、罵詈雑言なんかじゃない、先生は必死に何かを伝えようとしていた――――――
僕の思考は、控え目に開いたドアの音にかき消された。
目だけを動かして、入ってきた人をみる。―――――先ほどの、彼だった。
「さっきはすみませんねえ、ゆきこが」
………はあ。
温厚な笑顔、柔らかな物腰。ふわふわの猫っ毛をもった彼は三十路の青年だった。むしろもっと若く見える。白衣を着ていなければ、先生だとは分からないかもしれない。
彼はニコニコと人当たりのよさそうな笑顔を浮かべながら、ベットに縛り付けられたままの僕に見えるようにして、名札を掲げて見せた。
“椎野奏”
「御影さんの、主治医になりますね。まあ、ちゃんと治療すれば日常生活を送れるようにはなりますから、大丈夫ですよ」
慣れたしぐさで僕の酸素マスクを外しながら彼は言った。
新鮮な空気。思わず目を閉じてすう、と深呼吸をすると、椎野先生は面白そうに笑った。よくある反応だと言う。
「そんなに酸素マスク嫌ですか? 僕はむしろ好きなんだけど」
はあ。
先程から目まぐるしく回る世界についていけない。なんとも言えない返事を返した僕を彼は小さく笑って、「さて」
途端に、医者の顔に切り替えた。
「状況を僕から説明させていただきます」
§ § §
分かりやすくまとめると、僕はわりとまずい感じの病気になっているらしい。
狭心症。
その中でも不安定型狭心症と言うものらしく、心筋梗塞に発展しやすい事などを手短に説明された。さっきの発作の時も結構やばかったらしく、これと同等、あるいはこれ以上の発作が続くようなら手術を余儀なくされると言う。
お叱りもうけた。
「自分の身体が悲鳴をあげていることくらい、感じていたはずです。動けなくなったこともあったこともあるはずです。
あなたの身体の健康はもう、あなただけの問題ではないんですから。父親としての責任ですよ、これもひとつの」
ここまで悪化することはなかったかもしれない、と嘆かれた。もう少し、早く来てくれたらできたこともあったのに、と。
「ゆきこは多分、そこも含めてあんなに怒っていたんだと思いますよ。あそこまで理不尽に怒るゆきこは初めて見ました」
「あ、あの………ずっと気になってたんですけど」
「はい?」
「ゆきこ先生とは、あの………その?」
ああ、と彼はかすかに微笑んだ。
「何て事はない、ただの兄ですよ」
あ、あに……?
兄、って、あの?
「名字、違いますよね」
「ああ、まあ。僕は婿に入りましたから」
「あ、じゃあ、僕も同じです」
あはは、仲間だ。
そう言って小さく笑うと、先生は目を見開いて、少しだけ悲しそうな表情を作って目を伏せた。
「御影さん、あなた、今の状況分かってます?」
妻が死んで、自分はもしかしたら死のキキ。
そんなの、
わかってるよ。
「ゆきこが怒った理由、分かったような気がします」
先生が悲しそうな表情のまま、額を押さえる。その様子を、僕はただぼんやりとした頭で眺める。
ああ、そうだ、
分かってるよ。
でも、なんだか分からないんだ。
どうして涙が出ないんだろう。どうして、怒ったりしないんだろう。
ただ、胸に、穴があいてしまったように。
ただ、やけに寒い。
今日は暑かったはずなのになあ、
ああやっぱり僕は、死んでいるのかもしれない。
もう何も、わかんないや。




