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家に帰りつくころには、汗だくになっていた。
取りあえず紫苑をソファーに置き、僕はその場にへたり込む。
ずいぶん楽にはなったけれど、辛い。紫苑が「かまってかまって」と言うようにのばしてくる手を軽く握り返すだけの元気が戻ってきてくれたのは、ほぼ奇跡だ。
僕とは対照的に、いっぱい眠って元気もいっぱいの紫苑が僕の方にやってこようとソファーから落ちそうになる。
すんでのところで受け止めて、そのまま一緒に倒れ込んだ。
紫苑の方はというと、僕の上でご機嫌そうに笑っている。触れている部分から少しでも元気をもらえたりなんかしないかな。
そんな風に思って額をぶつけると、紫苑はますます嬉しそうに笑う。
「あぁもう、お前はほんとにすごいな」
思わずつぶやいた。
よし、頑張れるような気がするよ。
少し回復した僕は紫苑を抱いたまま「んしょ」と起き上がって、紫苑を再びソファーに置いた。立ち上がって、景気づけにエプロンをつける。彼女に見られたら笑われそうだ。
さあ、夕飯の支度でもしようとするかな。
§ § §
彼女から連絡があったのは、ちょうどご飯の支度がひと段落したところだった。
あまり動かなかったからか、体調も普通の状態に戻っていて、もうしっかりと動ける。
…………あれはなんだったんだろう?
考え出しても仕方がないから、リビングで僕を呼ぶ電話を取る。
「はい、もしもし」
『やっほーっ、元気してるー?』
受話器から聞こえてきたのは、いつもよりテンションの高い彼女の声。僕は苦笑して、「はいはい」と答える。
「元気してるよ、大丈夫。そちらは?」
『元気も元気、めっちゃ元気』
そうだろうね。そんな気がするよ、その声じゃあさ。
『今終わった。ちょうどね………遅くなってごめんね? 今、歩いてるところだから』
「んー、こっちはごはんの準備してる」
『え、ほんと!? えぇー、今日のごはんなにかなあ、楽しみだ』
「…………ん?」
紫苑が急に変な声を上げた。怯えているような、そんな声。
「…………どした」
抱きあげて、そっとゆする。『どうしたの?』
受話器からも、僕と同じ言葉が聞こえた。「んちょっとね」
「紫苑が――――……て、ほんとにお前、どうした」
紫苑が本格的にぐずりだす。そんな雑音だってないのに、珍しいことだ。抱きしめてそっと背を叩くけど、紫苑はますますぐずって、最終的にはのけぞって泣きだした。
『あらあら』
彼女が受話器の向こうで困ったような声を出した。
『紫苑ー、大丈夫だよー』
見えない紫苑に向かって安心させるように話しかけて、笑いながら僕に向けて言葉を発する。
『お腹、空いちゃったのかな?』
「んー、そうかも。いやでも一度飲ませたんだけどなあ」
『今日お出かけしたからね、余計お腹すいちゃったのかも。尚のこと、速く帰ります』
ふと、向こう側でトラックのクラクションが聞こえた。「え」
まさか。
「君、ヘッドフォン外してる? え、どうして」
彼女がご機嫌そうに笑った。
『だって』
『早く、あなたの声が聞きたかったから』
「………雫、それはやめときなって。うるさいでしょ、早く言ってくれれば切ったのにさー……んもう、切るよー?」
『え、ちょっと待って慧くん』
もう一度、クラクション。
彼女が言ったので、僕は待つ。一息を吸うと、彼女は僕の名前を呼んで。
『慧くん、世界で一番、愛してます』
電話を切った。
彼女はなかなか帰ってこなかった。なかなか帰ってきてくれなくて、そして紫苑は泣きやんでくれなかった。
紫苑の相手をしていたら時間を忘れて――――――そして、そとが暗くなってきていることに気がついて、やっと、彼女の帰りが遅いことに気がついた。
結果的にいえば。
彼女は二度と、朝「行ってきます」と言ってくぐったドアを、「ただいま」と、あの無邪気な笑顔でくぐることはなかった。
あれが最後だった。
そして、次にかかってきた電話。
さすがに心配になってきていた僕は急いで受話器を取る。紫苑は泣き疲れて、僕の腕の中で気を失うように、眠っていた。
受話器から聞こえてきたのは、期待していた彼女の声ではなくて、知らない男の人の声だった。
一気に身体全体が緊張する。
心臓が一度、どくん、と跳ねる。
「御影、慧さんでよろしいでしょうか」
受話器の向こう側の彼は言った。
「………………はい」
僕は、緊張した声で答える。受話器の向こう側の彼は「そうですか」と、なぜか悲しそうなため息をついて――――――――――――――――――
「御影慧さん、奥さんが」




