002
「…………君」
無心に手を動かす僕の耳に、涼やかな声が響いた。顔を上げる。逆光の中で、彼女が笑っていた。
今日も、彼女はヘッドフォンをつけている。なぜか彼女はいつも、そうだ。
そのわけは今でも知らないけれど。
彼女の、少しだけ紫がかった瞳が、僕をとらえた。
「何、どうしたの、呆けた顔しちゃって」
「へ、」
あわてて僕は笑い返して、ベンチの隣を叩く。彼女はすとん、と腰をおろし、僕の手元を覗き込んだ。
「………ちょうど、今、君と出会った時のこと、思い出していたんだ」
「あら、奇遇だね。私もそうなの。どうして?」
「虹が、出ていたから」
言うと、彼女は唇に満面の笑みを浮かべて、僕の肩に頭突きをしてきた。相当うれしかったみたいだ。
虹。
それは僕らをつなげてくれた言葉。
出逢えてよかったと、本気で思う。
僕なんかよりずっと細くて、柔らかい手。そっと、包み込むように握る。ちょうど顔を上げた彼女と目が合った。彼女は少しだけ目を見開いて、驚いた顔をしていた。
そんな彼女に、僕は笑って見せる。
―――――好きだよ
「一緒にいよう、今日も」
「………うん」
「君が笑っていてくれるから、僕は僕でいられる」
「………………うんっ」
はにかんだ彼女を柔らかく抱きしめた。その匂いを吸い込み―――嘆息する。
幸せだった。
この上なく、確かに、今この瞬間は、
僕にとって最上級に甘い、幸せの時間だった。
§§§
僕が彼女に初めて出会ったとき、僕は、大学生だった。
いや、それはちょっと違うな。今も、大学生なことは大学生だ。もう通ってないからそう言えるのかどうかは、分からないけれど。
両親を早くに亡くし、親戚の家に預けられていた僕だったから、東京の大学に合格した途端、厄介払いのように独り暮らし用のアパートを与えられた。まあ言ってみれば体のいい追い出しだ。僕も、そのことに何も文句はなかったし、何より今まで育ててくれたことに感謝こそすれ、彼らには何の感情も抱いていなかったので、さっさとその家をどいた。
ただ、それだけ。
でも、生きるための指標を見失った僕は。
多分、もうちょっとで死んでいた。
人間として。生き物として。
そんな僕に出来たこと。それは唯一、描く事だった。
高校の時に入部した美術部で、僕は思ってもいなかった才能を発揮した。平たく言うと、僕の絵が、何かのコンクールで入選してしまったのだ。
しかも、大賞。
………意味が、分からない。
まあでも、描くことは好きだったし、僕にとってはいいことだった。本当に、そう思っていた。
僕に目をつけて申し出てきた会社とスポンサー契約を結んだ。小銭稼ぎにはなるかな、そう思っていたけどとんでもなかった。僕には描き上げるごとに大金が入り、その地位を順調に上げていった。
だけど。
あたりまえだけど、ノルマと言うものがあった。思っていた以上に、きつかった。
いつしか描くことが、嫌いになっていた。
―――――彼女と出逢ったのは、そんな時だった。
彼女は僕に、描け、なんて決して言わなかった。
馬鹿みたいに毎日公園に通う僕の隣でずっと、僕を見守ってくれていた。
僕は彼女の事を何も知らない。
その代わり、なんでも知っている。
君のほどけるような笑い方。君の少しだけ紫がかった大きな瞳。君の、どこか落ち着く匂い。平均体温より少し高いんだなって分かるほどの君の温度。
なんでも知っている。
君のことなら。
彼女とのんびり過ごしたその月日はめぐって。
そして、彼女はやっぱり隣にいてくれる。
「君が、好きなんだ」
あの時、隣にいた彼女が僕の気持ちを受け止めてくれて。
「だから、お願いだから」
「君を、描かせて」
初めて、彼女の絵を描いて。
彼女と時を重ねて、影を重ねて、未来を重ねて。
君を愛してる、―――――いつまでも。
彼女に指輪を渡した。彼女は瞳に涙を浮かべて頷いた。僕の胸に顔を埋めた。そして、
彼女の秘密を、教えてくれた。