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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
第十話 ナイフ
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046


 その日の前の日、彼女は早く帰ってきた。


 疲れ切った顔を引き下げて、夕飯の用意していた僕の背中にしがみついてきた。

「!」

 突然の襲撃に身体は驚いて、心臓が跳ねる。おーう、びっくりしたー……。


「どしたの」


 かすれた声で、彼女は呟いた。「………疲れた」

「…………そっか」

 ねぎ臭い手で、軽く前に回ってきた手を握る。手慰みのように揉みしばくと、彼女はやっと笑った。


 くすぐったいよ……くん。

 だって君、元気ないから。

 別にそういんじゃないもん、分かってるくせに。

 分かってても笑わせたくなるの。調子狂うんだって、ほんと。


「練習、ちゃんと出来た? ちゃんと、気持ちの整理、できた」

 僕が聞くと、背中についていた額がぶんぶんと縦に動いた。

 そっか、と僕は頷き、握ったままの彼女の手を包み込む。………いよいよだね。頑張ろうね。心の中で呟いて、僕は目を閉じた。

 自分の心臓の鼓動が聞こえる。

 どうしようもなく楽しみな自分がどこか子供っぽく見えて、僕はひそかに苦笑した。



 明日は、彼女の公演の、本番だ。


 あれからも、彼女はいろいろ思う所があったらしく、時々泣きながら帰ってくることがあった。

 思うように歌えない。何が正解か、分からない。

 ぐしゃぐしゃに泣きながら、僕の腕の中で彼女が言った言葉。僕はただ、苦しむ彼女の背を撫でることしかできなかったけど。


 心から応援していた。


 頑張れ。大丈夫。

 そんな無責任な言葉を重ねながら頑張ってきた。紫苑は大きくなって―――――まだ小さいけれど、最近は、いつのまにかとんでもない所にいたりして僕をドキドキさせてくれる。

 いや、最近は本当に足元を見ないと怖くて歩けない。

 ハイハイができるようになってから、放っておいても僕の後ろについて追いかけてくるので、踏みそうになるのだ。


 …………いや、なんだかんだ言いつつ嬉しんだけどさ。



 スランプ、というものがやはり歌手にもあるらしい。

 彼女は途中で、どっぷりとスランプにはまった。――――――これが、辛い。自分にもあるから、痛いほど分かる。出来るはずの事が出来ないというのは、焦るし、怖い。


 そのスランプから彼女がやっと脱したのは、つい最近の事だ。


 不安な事も多かったろう。

 それでも今日まで頑張ってきた。



 だから、頑張ろう?


 僕が今言えるのは、それだけだ。



 § § §



 つましく、いつも通りの夕御飯を食べて、紫苑には早く寝てもらって。

 僕は久しぶりに彼女を布団の中に呼び寄せた。


「珍しいね、あなたからおいでなんて」

 腕の中で彼女が肩をすくめて笑った。その耳にかかる髪の毛を、そっとすくって、口づける。彼女はきょとんとした顔をして、僕を見上げる。


「どうしたの、ほんとに」


 予感めいたものがあったわけじゃない。


 それでも僕は口を開いた。



「君に、伝えたいことがある」



 改まった僕の声に、彼女は澄んだ瞳で答えを返した。その瞳には僕が映り込んでいて。

 ああ、夢じゃないんだよななんてバカなことを思った。

 独りじゃなくて、彼女と出逢えて、宝物だって授かることができて。


 夢じゃないんだ。

 都合のいい夢なんかじゃない。



 彼女は、ただ僕を見ていた。僕以外の何も見てはいなかった。

 その、大きな紫がかった瞳を見つめ返す。人より少しだけ高い体温が、腕の中にある。


「君に出逢えて、よかった」


 ――――――あぁ、言ってしまった。


「君に出逢えたから、僕は多分今までやってこられた。描けなくなったら、こんな世界を、あの時見限ってしまっていたら―――――今の僕はいなかったんだ」


 そして一人ぼっちで、世界に失望したまま死んでいたのだろう。

 でも、君が僕に「こんにちは」といった。


 あたりまえのように。


「紫苑が産まれた夜、僕は必死に祈ってた。母さんは僕のせいで(・・・・・)死んだから――――君もそうなるんじゃないかって、思いこんで、ただ、震えてた」


「ひとりのときは、僕はそれなりに強かったと思う。


 誰ともかかわらずに、心のシャッターを閉じて。人間強度はあったよ? だけど、冷たい、悲しい人間だったんだろうな、と思う。いや、もう人間じゃなかったかもしれないな。」



 そんな僕を、「人間」にしてくれたのは、君だ。



「今まで、支えてくれてありがとう。今まで、隣にいてくれてありがとう。

 笑っていてくれてありがとう。抱きとめてくれてありがとう。頼ってくれてありがとう。信じてくれてありがとう。世界の色を教えてくれて、」



「本当にありがとう」


 


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