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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
第九話 潮の匂いと碧の色
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 彼女の休暇は、たったの二日間で終わった。


 海に言った後の残りの一日はただ、一日中ベットの中で、リビングで、お風呂で、だらだらと過ごしていた。僕はその一日の間に、実に三枚もの絵を仕上げた。僕が本気を出したらこんなものだ。のびのびと絵が描けることが嬉しくて、僕は心の中で胸を張った。


 紫苑の補聴器は、彼女の公演が終わったのちに用意を始めよう、と決めた。


 彼女の公演は、九月だ。少しだけ紫苑には我慢してもらうことになる。

 これもやはり久しぶりに一緒に浸かった湯船の中で、彼女が言った言葉が脳裏によみがえる。



 ――――――あー、うん、まあ、そうだね。だけどね、紫苑ぐらい小さいと、むしろ補聴器とか変なものつけない方がいいかもしれない。


 どうして?

 だって私、小さいころ補聴器とヘッドフォン、すごく嫌いだから。


 蒸れるのよね、耳がさ。

 そういうものなのか、と聞いていたが、まあ、そういうものなのだろう。僕だって、真夏に耳当てをずっとしていろと言われたら、やっぱり顔はしかめずにいられない。


「普通に気持ちわるいし」


 結局一言でばっさりと切り捨てる彼女。

 湯船から少しはみ出たその指は、しきりに耳たぶを触っていた。



 § § §



 そして、あたりまえのように彼女が減った日常がまた始まる。



 久しぶりに、ゆきこ先生にもあった。

 なんてことはない。紫苑の、三ヶ月検診の時だ。


 病院ですれ違っただけなのに、軽く会釈した僕に一瞬気付けなかったゆきこ先生は、そのあと、猛烈な勢いで背後から僕を追いかけてきた。

 仕事大丈夫なんですか、ゆきこ先生。


「…………さんっ、冷たいじゃないですか! 声掛けて下さればいいのにっ!! こっち来て下さいっ、お茶代は出しませんっ!!!」


 手首をつかまれ、引っ張られるまま病院内に併設されたカフェテリアに連れ込まれた。

 …………仕事大丈夫なんですか、ゆきこ先生。


「私の事はどうでもいいんです。……さんは? 今日、ご一緒じゃないんですか?」


 ゆきこ先生は、なぜか彼女の事を名前で呼ぶ。……僕の事は名字呼びなのに、と言うのは哀しいから置いておこう。

 手早くコーヒーを二つ注文したゆきこ先生は、まず、彼女の様子を聞いた。


「ん? あぁ、今日は僕一人ですが……元気にやってますよ。紫苑も何とか、やってますし。三ヶ月検診は異常なしでした」

「ああ、そうですか、よかった……――――ずっと、気になっていたんです。退院からあなたたち、全然来てくれないし」


 そう言って先生は僕の事をじとり、と睨む。

 ちょうどやってきたコーヒーをブラックのまま口にすると、ゆきこ先生は艶っぽいため息をついた。


「心配だったんです」


「紫苑くんはこんなだし………そう言えば、ちゃんと泣きました?」

「………一応は。ただ、うるさい、苦しいっていう意思表示しかしませんが」

「………そうですか」

「あ、そうだ」


 どうしました?

 ゆきこ先生が目を上げた。「彼女、今度舞台に立つんですよ、ハムレットの」



 ゆきこ先生の悲鳴が、カフェテリアに響き渡った。

 もちろん、紫苑の耳はふさいだので………多分、大丈夫。


「何を考えてるんですか、正気ですか!?」

「えぇ、もちろん」

「ええええぇぇぇ、練習とか、その間紫苑くんは!?」

「僕が面倒を見ています」


 僕はコーヒーに砂糖とミルクを入れ、ティースプーンでかきまわしてから、口に運んだ。


「ゆきこ先生、落ち着いて下さい」

 先生は口許を覆って、しばらく固まっていた。

 信じられない。その感情を、痛いほど感じる。


 やめといたほうがいいとおもうけどなぁ。先生の小さな呟きが唇からもれた。

 僕は肩をすくめ、紫苑を見下ろす。さっきの声にびっくりしてないかな?


 紫苑は僕の腹にだっこ紐でくくりつけられ、今はちょうど眠っている。というか、外に出ると紫苑は大体眠っている―――起きていて苦しむよりかは全然いい。


 ふわふわの、まだ薄い髪の毛の上からそっと紫苑の頭を撫でた。


 ゆきこ先生が黙っている。

 顔を上げると、ゆきこ先生はじっと紫苑の様子を見ていた。


 整った眉が優しく下がっていた。



「…………だっこ、します?」


 先生がものすごい勢いで顔を上げた。そのまま、ぶんぶんと首を上下に振る。

 僕は笑った。そう言えば、この人だってまだ若いんだな―――――いつもの冷たい空気に大人っぽさを感じてしまうけれど、実は彼女と同い年なんだ。

 そう思ってしまうと、急に親近感がわいてきてくれちゃって困った。


 だっこ紐を外して、眠ったままの紫苑を先生の腕の中に託す。先生がくしゃり、と笑う。


 幼い笑顔だった。



「紫苑くん、大きくなりましたねぇ――――あんなにちっちゃかったのに、ちゃんと、息してる」


 紫苑をそっと抱き寄せた先生が、雑音が入り混じる一介のカフェテリアの中で、紫苑を気遣うように小さな声でささやいた。


「頑張ろうね、紫苑くん」



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