044
久しぶりだ。
彼女の腕の中で食事をとる紫苑を見つめて、少しだけ体温が上がった。―――――紫苑が、自分からミルクを飲んでいる。
彼女がうつむく僕を見上げて、こづいた。
「言ってくれれば、」
………言葉もありません。
「……君の負担増やしちゃうかも、って思って」
こちらを見る視線がますますきつくなる。
「そんなの紫苑には関係ないでしょ」
紫苑は、なかなか哺乳瓶に入ったミルクを飲んでくれなかった。
その小さな唇にゴムの乳首を近付けるのだが、いやいやをするように紫苑は首を振ってしまう。「お願い、飲んで」
泣きそうになって音を上げたのは僕が先だった。
初日はそんなこんなで、彼女が帰ってきても紫苑は何も口にすることはなかった。彼女が疲れ切っていたし、紫苑本人が泣き疲れて眠りこけていたからだ。
紫苑がミルクを飲んでくれない。
言いだすタイミングを見失ったまま、僕は放置していたのだった―――――
そうはいっても、お腹が空けば紫苑だって妥協はする。
なんだかんだで体調を崩さない程度には飲んでくれていたので、問題はなかった………まあ、本当に問題はなかったのかははなはだ疑問だけど。
久しぶりに彼女の乳首にしがみつく紫苑を見て、安堵から思わず、「よかった」と呟いてしまった。
そして彼女が怪訝そうに顔をしかめて、それで――――――
怒られています。
彼女が僕の頬を引っ張った。………案外伸びる。
「………くん」
「……はいっ」
「私、今、怒ってます、結構」
…………知ってます。痛いです、ほっぺ。
あと君、接続詞の存在忘れてますよー……?
彼女は紫苑に乳房を貸したまま、しばらく僕を睨んでいた。
相当怒っているらしい。少しだけ罪悪感が心臓を縮めた。………痛いな、目じりを下げて、僕は痛みに耐える。
彼女はとげのある口調で続ける。
「紫苑が作ったミルク飲むのが辛いなら、もっと早く帰ってくる。で、ちゃんとあげる」
「それが私の果たすべき最低限だから」
だから。
そう言って、彼女は少しだけ悲しそうな顔をした。いつになく泣きそうだった。
「話して。―――――会話が少ないとは思わない。だけど私もあなたも、必要なことばっかり隠しちゃうんだよね……その言葉がもしかしたらあなたや私を傷つけることを知ってるから」
その口ぶり。
多分ずっと、心の中であたためていたのだろう。
彼女が、つまんでいた僕の頬の肉を離した。
彼女がうつむいて、抱いている紫苑を見下ろす。僕もつられるようにして紫苑を見た。紫苑は彼女の乳首をくわえたまま、半分眠っていた。
彼女が寄り掛かってくる。
腿の間で、挟みこむようにしてその身体を迎え入れた。
「………外、五月蠅いね」
「…………いきなり、どうしたの?」
んー、別に? 彼女がうそぶく。
「最近外出ること多いからさ。感じること多いのよ、雑音―――――やっぱり、これだけは慣れないな」
「紫苑に、そろそろ補聴器用意しておいた方がいいかな?」
やっぱり、あると無いでは違うもん?
そう僕が聞くと「そりゃそうだよ」
彼女はぶんぶんと首を振って、肯定の意を示した。
「私の補聴器はさ、音を拾い集めるものじゃなくて、拾い集めた音を必要最低限まで絞りとるものだもん。これのおかげでどれだけ助かってるか」
彼女がそっと右耳を撫でた。その右手を上から包み込むと、彼女はうつむいて、僕の手のひらに甘えていた。
「………こんな右耳、なかったらよかったのに」
「きっと、紫苑もおんなじようなこと、いつか思うんだろうね」
「大丈夫」
「………え?」
彼女が顔を上げた。
「大丈夫。そんなこと、紫苑に言わせない―――――思わせない。そういう風に、大事に見守ろう?」
彼女が笑う。乾いた声で、でも嬉しそうに。
「…………くん、あんまし大きいこと言わない方がいいよ」
でも。
「ずっと、二人で、紫苑と一緒に―――――」
彼女が言ったことだって大きなことだった。
ただ、それだけを願っていたのはきっと事実だけど―――………




