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「さっきまでお話してたおじさん、誰?」
彼女が僕の顔を見上げながら言った。
「あぁ、あの人ね」
僕は彼女の足を拭きながら答える。砂浜を歩いていたのだから仕方がないのだろうが、彼女の足は砂だらけだ。このまま靴を履いたら家の中がどうなることか。
「いつもお世話になってる、画材屋さんの主人。家、この近くなんだってさ」
「へえ」
僕の膝の上に足を投げ出している彼女が、少しだけ嬉しそうな声を出した。
「よかった、……君にもちゃんとお外で話せる人、いたんだ」
つんのめる。なんと失礼な。
「ひどいなぁ、そこまで僕はコミュ障じゃないよ」
「だってあなた、友達いなさそうだし」
「…………ほんとに非道い」
はい、紫苑貸して。
彼女の足を拭き終わった僕が言うと、彼女は素直に紫苑を渡して、靴に足を突っ込んだ。靴を履くためにすくめた、細い肩を見つめる。彼女が「ん?」と顔を上げた。
「どうしたの?」
「あぁ……いや」
我に返って、首を振る。―――――「薄い、女だな」、かすかに引っかかった主人の言葉が脳裏によみがえった。
まあ、いいか。
気にしすぎていい事はきっとない。
§ § §
帰途についていた。
今度は紫苑を背負うのは僕の番で、当の本人は僕の胸に頬をぴったりつけ、ぐっすりと眠っている。……これなら少しくらい周囲がうるさくても大丈夫だろう。
実は、紫苑を連れた外出らしい外出は、今回が初めてだった。紫苑ももうすぐ三カ月―――――初めての外の世界の空気はどんな味がしているのだろう―――――「初めて」にはずいぶん遅いが、紫苑の状態を考えれば、妥当だと思う。
紫苑が鼻を鳴らした。
汗のにじむその額をそっとなぞる。
疲れたね、大丈夫?
楽しめたのなら、僕はそれで満足なんだ―――――世界は、こんなに優しいんだよ。
「………何してたの? 二人で」
顔を上げて僕が聞くと、彼女は嬉しそうに足取りを弾ませた。
僕の前に躍り出て、後ろ手を組むと、後ろ向きに歩きだす。
「歌ってた」
「歌ってた?」
「うん」
いやね、と彼女は言う。「紫苑、普段あんまり気持ちいい音、聞けてないでしょ? だからちょっと紫苑の休憩も兼ねてね、ハムレットの練習」
「紫苑、喜んだ?」
彼女が肩をすくめて照れ笑いをしながら、上目遣いで僕を見上げた。
「途中で寝ちゃった」
「それはよかった」
泣き疲れて眠ってしまう以外に、紫苑が眠りに落ちることはまずない。いつだって、紫苑は苦しんでいる。
そっか、寝られたか。
よかった、よかった。
「ものすごく気持ちよかった」
彼女が僕の少し先を歩きながら言う。少し腕を広げて、息を吸い込んで。
「なんかさ、いろいろすっきり出来たから―――――、あた明後日から、頑張れるような気がする」
よーし、
と呟くと、彼女が伸びをした。
柔らかい旋律が流れ出す。優しく、包み込むように、激しい歌だ。思わず立ち止まって聞き入った。
彼女が得意げに振り返った。
「オフィーリアだよ?」
うん、楽しみにしてる。
「海冷たかったなあ」
「え、入ったの」
「うん、足だけねー」
「やめなよ風邪ひくって、もう」
えへへ。
人がいないことをいいことに、肩をすくめて笑った彼女を後ろから抱きしめた。
なんかいろいろ、おさえられないや。
「…………君がいてくれて、よかった。多分今頃、僕つぶれてた」
僕の腕を捕まえて、彼女が息を漏らすようにして笑った。
「何よいまさら………私もでしょ」
今更のように、彼女が呟いた。
「ありがとう、大好き」




