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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
第九話 潮の匂いと碧の色
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「さっきまでお話してたおじさん、誰?」


 彼女が僕の顔を見上げながら言った。

「あぁ、あの人ね」

 僕は彼女の足を拭きながら答える。砂浜を歩いていたのだから仕方がないのだろうが、彼女の足は砂だらけだ。このまま靴を履いたら家の中がどうなることか。

「いつもお世話になってる、画材屋さんの主人。家、この近くなんだってさ」

「へえ」


 僕の膝の上に足を投げ出している彼女が、少しだけ嬉しそうな声を出した。

「よかった、……君にもちゃんとお外で話せる人、いたんだ」

 つんのめる。なんと失礼な。


「ひどいなぁ、そこまで僕はコミュ障じゃないよ」

「だってあなた、友達いなさそうだし」

「…………ほんとに非道い」


 はい、紫苑貸して。

 彼女の足を拭き終わった僕が言うと、彼女は素直に紫苑を渡して、靴に足を突っ込んだ。靴を履くためにすくめた、細い肩を見つめる。彼女が「ん?」と顔を上げた。


「どうしたの?」


「あぁ……いや」

 我に返って、首を振る。―――――「薄い、(ひと)だな」、かすかに引っかかった主人の言葉が脳裏によみがえった。

 まあ、いいか。


 気にしすぎていい事はきっとない。



 § § §



 帰途についていた。

 今度は紫苑を背負うのは僕の番で、当の本人は僕の胸に頬をぴったりつけ、ぐっすりと眠っている。……これなら少しくらい周囲がうるさくても大丈夫だろう。



 実は、紫苑を連れた外出らしい外出は、今回が初めてだった。紫苑ももうすぐ三カ月―――――初めての外の世界の空気はどんな味がしているのだろう―――――「初めて」にはずいぶん遅いが、紫苑の状態を考えれば、妥当だと思う。


 紫苑が鼻を鳴らした。

 汗のにじむその額をそっとなぞる。


 疲れたね、大丈夫?


 楽しめたのなら、僕はそれで満足なんだ―――――世界は、こんなに優しいんだよ。



「………何してたの? 二人で」

 顔を上げて僕が聞くと、彼女は嬉しそうに足取りを弾ませた。

 僕の前に躍り出て、後ろ手を組むと、後ろ向きに歩きだす。


「歌ってた」


「歌ってた?」

「うん」

 いやね、と彼女は言う。「紫苑、普段あんまり気持ちいい音、聞けてないでしょ? だからちょっと紫苑の休憩も兼ねてね、ハムレットの練習」

「紫苑、喜んだ?」

 彼女が肩をすくめて照れ笑いをしながら、上目遣いで僕を見上げた。


「途中で寝ちゃった」

「それはよかった」


 泣き疲れて眠ってしまう以外に、紫苑が眠りに落ちることはまずない。いつだって、紫苑は苦しんでいる。

 そっか、寝られたか。

 よかった、よかった。


「ものすごく気持ちよかった」

 彼女が僕の少し先を歩きながら言う。少し腕を広げて、息を吸い込んで。

「なんかさ、いろいろすっきり出来たから―――――、あた明後日から、頑張れるような気がする」


 よーし、

 と呟くと、彼女が伸びをした。


 柔らかい旋律が流れ出す。優しく、包み込むように、激しい歌だ。思わず立ち止まって聞き入った。


 彼女が得意げに振り返った。

「オフィーリアだよ?」


 うん、楽しみにしてる。


「海冷たかったなあ」

「え、入ったの」

「うん、足だけねー」

「やめなよ風邪ひくって、もう」


 えへへ。

 人がいないことをいいことに、肩をすくめて笑った彼女を後ろから抱きしめた。

 なんかいろいろ、おさえられないや。


「…………君がいてくれて、よかった。多分今頃、僕つぶれてた」


 僕の腕を捕まえて、彼女が息を漏らすようにして笑った。

「何よいまさら………私もでしょ」



 今更のように、彼女が呟いた。


「ありがとう、大好き」


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