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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
第九話 潮の匂いと碧の色
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 防波ブロックの上に広げたキャンバスの上に、青色をぶちまける。


 ぶちまけてから、どうしようかと考えた。………原色すぎた。

 パレッドに少しずつ、色を出していく。絵筆の先で混ざり合った色を見て、僕は満足のため息をついた。



 彼女は、紫苑を抱えて、砂浜を歩いている。ちなみに、靴はここに置いたままだ。


 澄みきった、この絵筆の先についた青い、碧い海と空を背景にして歩いている。そのいますぐにでも、溶けてなくなってしまうような細いせなかは、まるで一枚の絵画のようだった。



 ――――――「どうして、海を見に行きたいなんて言ったの?」

 僕が問うた質問に、顔を上げて考え込んだ彼女の表情が、まぶたの裏に浮かんだ。


「うーん………よくわかんない。ただ、きれいなものみたかったの」

「君も、“疲れ”てたんだね」

「え?」

「だって、そういうことでしょ。きっと君、僕のことばっかり考えてて、自分の事後回しにしてたでしょ」


 彼女が顔をしかめた。

「あなたのこと、考えることの何が悪い? だって、しょうがないじゃない」


「……くんのこと、大好きなんだから」


 そう言って、彼女はしかめっつらを元に戻し、その代わりに悪戯っぽい表情を浮かべた。

 心臓が高鳴る。

 やっぱり僕は、彼女に恋をしている。



 もくもくと手を動かす。何も考えてはいないけど、なんとなくどうするかは考えている。このキャンバスには、めいいっぱいの海と、彼女の背を描くつもりだった。

 振り返って、背後にあるバックの中から新しい絵の具を出そうとごそごそしている時だった。聞きなれない、しわがれた声が頭上から降ってきた。


「おい、あんた」


 ………?

 顔を上げる。そして僕は、心臓が止まるかと思った――――――


 そこにいたのは何を隠そう、画材屋さんの主人だった。



「おかしなところで会ったもんだな」

「……まあ、そうですね………あの、どうしてこんなところに?」

 僕の隣に腰かけた画材屋さんの主人はいつものように、ふん、と鼻を鳴らして笑った。

「どうしてもなにもありゃせんわ。家がこの近くなんさ」


 むしろわしの方が聞きたいね、と主人は言う。ごもっともです。


「……妻と、散歩に来たんです。少し家からは遠いですが、ちょっと事情があって、ひとごみはさけたくて」

 主人が鼻を鳴らした。

 興味がなさげに、それでも僕に「奥さんはどこだ?」と聞いてくる。


「あの……あそこ、白いニットの、髪の長い人です」


「………ほう」

 今度聴こえてきたのは、鼻を鳴らす音ではなく、ため息のような吐息だった。驚いて横を見る。主人はそんな僕にはかまわず、彼女を見たまま言った。



「薄い、(ひと)だな」



「? 細いってことですか?」

 主人は答えない。ただ、彼女を見つめている。


 彼女がその視線に気がついたかのように、くるり、と振り返った。長い丈のスカートが風を孕んで翻る。

 彼女が僕を見て、首を傾げた。

 僕は肩をすくめて、視線を主人に戻した。


 主人は、いつの間にか先ほどまで僕が描いていたキャンバスを手にとって、じっと見つめていた。


「………あんたは、こんな絵を描くんだな」

 美しい色だ、と主人は呟いて、キャンバスをそっと指でなぞる。


「………ありがとう、ございます」


 怖い人だと思っていた。お世話になってはいたけれど、正直ものすごく無愛想だし、「あの時」だって結局主人は一言しか発しなかったし―――――

 でも、彼女を見据えていた主人の、濁った色の目は優しい光をともしていた。


 決して、悪い人ではないんだろう。


 ふと、主人が思いだしたように言った。

「そう言えばこれに似た作柄、どこかで見たことがあるな………あぁ、そうか、あれだ。今年のグランプリか」


「あんた、――――のファンか?」


「………あ、あの………」

 めちゃくちゃ言いづらい。びくつきながら手を上げると、主人は「ん、なんだ」と顔をしかめた。



「えと、あのー、……それ、僕です」


 主人が眉を持ち上げた。「……驚いたな」

 反応薄いけど、驚いてくれたらしい。


 ペンネームか? まぁ、はい、そうですね。名字の方は同じですけど。 それじゃあ本名は?なんて言うんだ?


「    です」



 主人は少しだけ黙り込んだ。

 息をもらす音。主人は――――――笑っていた。


「いい名前だ」



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