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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
第九話 潮の匂いと碧の色
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 胸に大きく、息を吸い込んだ。


 肺に冷たい、だけどすがすがしい空気が染みわたる。久しぶりの外出に、体中がなんだかんだいいつつ、喜んでいた。

 横目で彼女をみると、彼女も同じように目を細めて空気を吸い込んでいた。彼女の胸の上にくくりつけられた紫苑も目をぱちぱちさせながら、起きだしている。


「………この場所選んでよかったね。人いないや」

「そうだね、紫苑が耐えられないでしょう、ひとごみは」

「うん。私でもちょっとキツい」

「…………だろうね」



 埠頭に立っている。


 僕たちが住んでいるところからまあまあ、近い海岸だ。東京には観光名所が多いけれど、ここは人が集まる場所じゃない。―――――地元の強みはここだね。


 四月の海は、驚くほど穏やかで、澄んでいる。


 見下ろした海は、優しい青で染まりかえっていた。


「………ちょっと、歩く?」

 振り返ると、彼女が優しく微笑んでいた。「……うん、そうだね」

 手を差し出すと、彼女はうやうやしく僕の手を取って、握りしめてきた。握り返す。紫苑はきょとんとして、僕たちの間で小さく笑い声を洩らした。



「…………お稽古、どんな感じ?」

 彼女が僕を見上げた。

「うーん……、どんな感じ、というか。やっぱり、ブランクは大きいしねー…、大変だよ? それなりにさ」

「声、出るもん? そんなブランクあって」

「まあ、そりゃあね」


 毎日歌ってはいるから。


 そう呟いて、彼女は前を向いた。

「………どう、思う?」

 ………何が?


 その問いには答えないまま、彼女は歩き続ける。

 繋がった手が、すがるように力をました。


「いやね、」

 自信がないのよ。


「………え……―――?」


「ほら私、ずっとあなたに依存して、ちゃんとした舞台にだって立っていなかったわけじゃない? でさ、紫苑出来て、紫苑を迎えることにして、ここにいる。

 こんな私の「身勝手」で能力落として………それで堂々と舞台に立って、歌っていいのかな、って」



 答えられなかった。

 僕が背を押したのも、「僕の」、彼女のオフィーリアが見たい、という「身勝手」だ。

 それが正しいことなのか―――――それは、答えられないと思った。


 だけど。


 これだけは、言えると思う。


「君」


 紫苑を僕に託し、とん、と防波ブロックに降り立った彼女が僕を見上げた。

 その波間に消えてしまいそうな、細い身体を見失わないように、僕は歩き出す。


 防波ブロックに足裏を預ける。


「僕はさ、あの狭い部屋で世界を描いてた。何も知らない癖に、知らないことさえ知らないまま、世界を汚れてるなんて勘違って、たった一人で」


 誰かに届けようなんて、考えていなかった。ただただ、自己満足のためだけに描いていた。


 彼女が少しだけ目を見開いた。


「それでも、その色に君が答えたんだ。描きなぐった、僕の世界に―――――初めて会った君はよくわからなかったけど、それでも純粋にうれしかったんだ。僕の世界が、」



 初めて、見つけてもらえたから。



「…………少し、脱線したね」


 彼女の前にたどり着いた。紫苑を抱えなおして、彼女と目の高さをあわせる。彼女は僕と紫苑を交互に見て、目じりを下げた。

 つまりだよ、僕が言いたいのはさ。


「君は何も考えないで、自信もって歌っていればいいんだ。ただ、堂々と、空に向かって吠えていればいい。いつ、誰に届くかなんか、分かんない。

 けど、その声はいつか、誰かに届くよ」


 その世界はいつか、誰かの心を揺さぶって、変えていく。


 僕の世界は、君に届いた。



「………難しいこと、言うね」

 彼女がうつむいたまま、苦笑いのような、泣き笑いのような表情を見せた。紫苑がおもむろに手を伸ばす。

 ぺたり、と小さな手のひらがその頬に触れ、彼女が顔を上げる。


 その紫がかった大きな瞳が、見開かれていた。


「…………紫苑…」

 ため息のように、彼女が呟いた。

「………びっくりした?」

「……………うん」


 最近、紫苑はやけに僕の顔を触りたがる。触らせておくと素直にしばらくするとやめるので、ほっといてはいるが、このタイミングが重なると、なにか考えているようにしか思えなくなる。

 まあ、きっと、何も考えていないんだろうけどね。

 そんなもんだろうけど。


 彼女が笑って、僕をつついた。

 紫苑を彼女に渡す。


 彼女はくしゃくしゃに笑いながら、紫苑を抱きしめ、僕に寄り掛かった。

 防波ブロックの上に座って、僕たちは海を見る。


 疲れた心がほぐれていくのを感じた。



 息を、吸い込む。



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