041
胸に大きく、息を吸い込んだ。
肺に冷たい、だけどすがすがしい空気が染みわたる。久しぶりの外出に、体中がなんだかんだいいつつ、喜んでいた。
横目で彼女をみると、彼女も同じように目を細めて空気を吸い込んでいた。彼女の胸の上にくくりつけられた紫苑も目をぱちぱちさせながら、起きだしている。
「………この場所選んでよかったね。人いないや」
「そうだね、紫苑が耐えられないでしょう、ひとごみは」
「うん。私でもちょっとキツい」
「…………だろうね」
埠頭に立っている。
僕たちが住んでいるところからまあまあ、近い海岸だ。東京には観光名所が多いけれど、ここは人が集まる場所じゃない。―――――地元の強みはここだね。
四月の海は、驚くほど穏やかで、澄んでいる。
見下ろした海は、優しい青で染まりかえっていた。
「………ちょっと、歩く?」
振り返ると、彼女が優しく微笑んでいた。「……うん、そうだね」
手を差し出すと、彼女はうやうやしく僕の手を取って、握りしめてきた。握り返す。紫苑はきょとんとして、僕たちの間で小さく笑い声を洩らした。
「…………お稽古、どんな感じ?」
彼女が僕を見上げた。
「うーん……、どんな感じ、というか。やっぱり、ブランクは大きいしねー…、大変だよ? それなりにさ」
「声、出るもん? そんなブランクあって」
「まあ、そりゃあね」
毎日歌ってはいるから。
そう呟いて、彼女は前を向いた。
「………どう、思う?」
………何が?
その問いには答えないまま、彼女は歩き続ける。
繋がった手が、すがるように力をました。
「いやね、」
自信がないのよ。
「………え……―――?」
「ほら私、ずっとあなたに依存して、ちゃんとした舞台にだって立っていなかったわけじゃない? でさ、紫苑出来て、紫苑を迎えることにして、ここにいる。
こんな私の「身勝手」で能力落として………それで堂々と舞台に立って、歌っていいのかな、って」
答えられなかった。
僕が背を押したのも、「僕の」、彼女のオフィーリアが見たい、という「身勝手」だ。
それが正しいことなのか―――――それは、答えられないと思った。
だけど。
これだけは、言えると思う。
「君」
紫苑を僕に託し、とん、と防波ブロックに降り立った彼女が僕を見上げた。
その波間に消えてしまいそうな、細い身体を見失わないように、僕は歩き出す。
防波ブロックに足裏を預ける。
「僕はさ、あの狭い部屋で世界を描いてた。何も知らない癖に、知らないことさえ知らないまま、世界を汚れてるなんて勘違って、たった一人で」
誰かに届けようなんて、考えていなかった。ただただ、自己満足のためだけに描いていた。
彼女が少しだけ目を見開いた。
「それでも、その色に君が答えたんだ。描きなぐった、僕の世界に―――――初めて会った君はよくわからなかったけど、それでも純粋にうれしかったんだ。僕の世界が、」
初めて、見つけてもらえたから。
「…………少し、脱線したね」
彼女の前にたどり着いた。紫苑を抱えなおして、彼女と目の高さをあわせる。彼女は僕と紫苑を交互に見て、目じりを下げた。
つまりだよ、僕が言いたいのはさ。
「君は何も考えないで、自信もって歌っていればいいんだ。ただ、堂々と、空に向かって吠えていればいい。いつ、誰に届くかなんか、分かんない。
けど、その声はいつか、誰かに届くよ」
その世界はいつか、誰かの心を揺さぶって、変えていく。
僕の世界は、君に届いた。
「………難しいこと、言うね」
彼女がうつむいたまま、苦笑いのような、泣き笑いのような表情を見せた。紫苑がおもむろに手を伸ばす。
ぺたり、と小さな手のひらがその頬に触れ、彼女が顔を上げる。
その紫がかった大きな瞳が、見開かれていた。
「…………紫苑…」
ため息のように、彼女が呟いた。
「………びっくりした?」
「……………うん」
最近、紫苑はやけに僕の顔を触りたがる。触らせておくと素直にしばらくするとやめるので、ほっといてはいるが、このタイミングが重なると、なにか考えているようにしか思えなくなる。
まあ、きっと、何も考えていないんだろうけどね。
そんなもんだろうけど。
彼女が笑って、僕をつついた。
紫苑を彼女に渡す。
彼女はくしゃくしゃに笑いながら、紫苑を抱きしめ、僕に寄り掛かった。
防波ブロックの上に座って、僕たちは海を見る。
疲れた心がほぐれていくのを感じた。
息を、吸い込む。




