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その劇長さん―――――佐々田さんと名乗った―――――は、僕の声音から察したんだろう。僕が案外乗り気なことが分かると、堰を切ったように話し始めた。
彼女の代役として立てていた女の人が、急病で倒れてしまったこと。
何でもない病気だが、九月の舞台には立てそうもないこと。
そして、急に声を潜めると、こうも言った。
実は彼女、音が取れないのか、微妙に“ずれて”いるんですよね――――奥さんと比べると、どうも、というところがあって。
それでも、その代役の女性を立てて、上演するつもりだったと彼は言う。
「奥さんを――――私たちは、大変買っているんです」
彼は僕に縋りつくように言って、電話口で頭を下げているんだろうなあ、という声音で「お願いいたしますッッ!!」
「どうか、どうか奥様を説得して頂けませんでしょうか!!!」
§ § §
彼女が、疲れ切ったように息を吐いた。
ぐ、と肩をすくめて、僕の腰に額をこすりつける。
「………大丈夫?」
ささやき声で問うと、彼女はかすかに首を振った。「………大丈夫」
紫苑を何とか泣きやませて、落ち着くと、僕は真っ先に彼女の身体を抱きしめた。
彼女はしばらく放心したように、うつろな目で僕の背中の向こう側を見つめていたが、不意に自分を抱きしめているものが何なのかを思い出し、僕の背中に手を回してくれた。
「……まだ、耳の中がんがんする」
「………ん」
…………相当、つらかったのだろう。
抱きしめても、その細い身体は自力では上手く動かせないようで、結局僕が抱き抱えてリビングの真ん中まで運んだ。あたたかい床に投げ出すようにして自分の身体を横たえると、彼女は億劫そうに目を閉じた。
その身体に、薄い毛布をかけた。
彼女は、僕のその優しさにも返せず、ただ薄く、目を見開きしただけだった。
ゆっくりとその、柔らかな髪をすく。少しだけ元気を取り戻した彼女は力なく笑って、「ありがとう」と、かすれ声で微笑った。
「僕の、思いを、言ってもいいかな」
彼女はゆっくりとうなずく。
こちらは見ないままだったが、気にせずに、僕は続ける。
「………君に、歌ってほしい。僕、は」
「君の歌が聞きたい」
触れたままの、彼女の頭が揺れた。それを見て、ああ―――――と、胸の底に「やっぱり」という思いが広がった。
彼女は、心の中では演たがってる。
歌いたがっているんだ。
「………私の歌なら、いつでも聞けるよ―――いつでも、歌ってあげるよ」
「そういうことじゃないって、分かってるでしょ?」
「…………分かんないよ」
ふてくされたように、彼女は言う。その、かたくなに目をあわせようとしない態度が、彼女の思いを物語っていた。
「き、み」
背を丸めて、彼女の顔を覗き込む。彼女はそれを避けようとするように肩をすくめた。
「分かってるんでしょ? ――――――自分が、本当は……―――って」
彼女が、息をのんだ。そして、ゆったりと、その身を起こした。
「……くん」
僕を見上げたのは、大きな、紫がかった瞳。どこか挑むようにじ、っと僕を見つめるその瞳を、僕は強く見つめ返す。
「どうして?」
息を吸った。………言えるかな?
自分の中にいる、気持ちを、全部。
吸った息を吐き出すように、僕は話しだす。
「………君が、どこまで自分の思いに気がついているかは、分からない。だけど、言わせてもらう―――――君は、本心では歌いたがっている。君が、そういう風に怯えたしぐさをするときは、大体そうだ」
「自分の本心を隠している時だ」
彼女が顔をゆがませた。苦しそうに食いしばった歯が、薄い唇の隙間から見えた。
「ごめん、僕は君より君が分かるから――――――君は僕より僕が分かるから。……きっと、僕がどうしてこんなことを言ったのかも分かるんだよね、だから……」
「苦しいんだよね」
ふいに、食いしばっていた歯の隙間からうめき声が漏れた。ぼろぼろと、透明な雫がその瞳から零れていく。
吐き出すように、彼女が控え目な声で叫んだ。
「……ムリだよ……っ!」
「紫苑ほっぽり出して、私だけ……なんて、無理だもん……っ、私にはっ、やらなきゃいけないこと、いっぱいあるのに……それ全部…くんに押しつけてなんて―――――」
「違う」
肩をつかむと、彼女は驚いた顔をして僕を見た。涙がたまったままの瞳を見つめながら、僕はもう一度、「それは違う」――――
そう、言った。
「違う――――紫苑の世話は、必ずしも君がしなくちゃいけないことじゃない。むしろ、自由のきく“僕が”やるべきなんだ。女親とか、男親とか、そんなの関係ない、君は、しょい込みすぎだ」
「もっと楽になっていいんだよ………押しつけて、いいんだよ。お願いだから、頼ってよ」
ぶんぶんと彼女が首を振った。泣きながら、胸を叩いてくる。
その身体をつかまえて、もう一度抱きしめた。
彼女は長い間、僕の腕の中で泣きじゃくっていた。




