001
彼女と初めて会話らしい会話をしたのは、梅雨もそろそろあけるかという蒸し暑い日だった。久しぶりの晴れで、葉についた雫がキラキラ光っていて、とてもキレイだった。
「こんにちは」
僕に声をかけることがあたりまえのように彼女は僕にあいさつをした。
最初、そのやわらかい声が自分に向けられているとは思わず、僕は手を動かし続けていた。肩をたたかれる。必要以上にびっくりして見上げた彼女はきれいな髪をゆらしながらもう一度、
「こんにちは」
と言った。
「え、あ、…………こんにちは?」
「なんで疑問形(笑)」
「こ、こんにちは」
「はい、こんにちは」
彼女は笑って、僕の隣に腰かけ、膝を抱えた。
「何、描いてるの?」
僕の手元を覗き込み、彼女が問う。僕は絵筆を握りなおし、コツコツとパレッドを叩きながら考えた。
「んー………」
「虹、かな」
「虹?」
「うん。通りかかった時に見えた虹が本当にキレイだったから。講義、すっぽかしちゃった」
「………?」
彼女は顔をしかめた。
「これの……どこが虹なの?」
彼女の、あまりにも直接的な言い方に、思わず僕は手を止めて笑ってしまった。大きな瞳をぱちくりさせて首をかしげる彼女に、僕は教えてあげた。
「形かもしれないし色かもしれないし、順番かもしれない。もっと、違うものかもしれない。そこら辺は僕にもわからないけど。
なんとなく、これは、虹」
「………そ、そうなの」
「うん」
頷くと、僕は鞄からパレッドと絵筆を取り出した。自分が描いた絵を改めてみて、確かにこれは分かりにくいかもしれないと思ってやっぱり笑いが漏れた。
「ねぇねぇ、ちょっとさ、あの噴水から水汲んできてくれない」
彼女にお使いを頼み、パレッドに水彩絵の具を広げる。僕は、この瞬間が一番好きだ。ドキドキする。そして、わくわくする。
彼女が戻ってきた。お使いは成功したようだ。
「色、つけるんだ」
彼女がうれしそうに言った。
しばらく、彼女の存在を忘れて絵を描いていた。彼女も僕の様子を見て、話しかけるような野暮はしなかったし、僕もそれに甘えて描き続けた。
「すごいね」
出来上がった絵を見て、彼女は僕のことを褒めた。
「そうかな」
「そうだよ」
褒められるのは、好きじゃない。
そんなことすら忘れて、ひたすらうれしかった。
久しぶりだった。うわべじゃなく、媚じゃなく、純粋に僕の絵を見て褒めてくれた人は、本当にひさしぶりで。
「ありがとう」
言うと、彼女はふわり、と笑った。笑顔がかわいい人だった。
「ねぇ、また、あなたの絵、見せてよ」
彼女は言った。
「いいよ」
その代わり、と僕が言うと、一瞬彼女はきょとんとして、「わかった」
彼女が笑って僕に手を振って行ってしまった後、ようやく気がついた。
…………名前、きくの忘れた。
やっぱり空は蒸し暑くてやる気を奪っていくけど、その日は全てがキラキラしていた。なんでだろう。その日見た景色はいつも見た景色とまったく違って見えた。
僕は筆を握りなおす。
風が吹いていた。
少しだけ、気持ちがよかった。