036
いつも、始まりと終わりは唐突だ。
時々、そんなことを不意に思う。
その電話も、同じく唐突で、僕たちの運命を大きく変えてしまった。僕たちがした選択を、間違いだとは思わない。もし神様が悪戯心で時間を戻してくれると言っても、僕は―――――僕たちは、きっと、同じ選択をするだろう。
僕は運命論者ではないけれど。
どうしても、そう言うモノを感じてしまう時がある。
僕と彼女が出逢えたのは、まぎれもない運命だ。なら、それならきっと――――――
僕と彼女が違う道を行くのも、運命だったのだろう。
§ § §
その電話は、昼過ぎにかかってきた。
紫苑がおうちにやってきて早くも半月がたっていて、だんだん、僕も彼女も紫苑がいる生活に慣れて来たころだった。
紫苑は、二ヶ月半になる。
病院にいた時間が多かったから実感は薄いが、小さくても紫苑はきちんと成長していて、少しずつ大きくなっている。
そんな紫苑とじゃれていた時だった。
電話が鳴った。
「あ、いいよ、……くん。私出る」
思わず身を起しかけた僕を彼女は手を上げて制して、笑う。
「あなたは紫苑と遊んであげてて―――はいもしもしー」
明るい声で通話を始めた彼女を横目に、僕は紫苑の手を取った。ごろん、と、横に転がり、紫苑を腕の上に乗せてくすぐる。
「何の話してるんだろうねー、ママ」
「…んー?」
「お、声だしたなお前」
「ーん、ん♪」
「何て言ってるか全然分からん……」
まあ、ともかくご機嫌そうだからいいか。そう思って、僕は紫苑をそっと抱きしめる。
お日さまの匂いがした。
抱きしめると、紫苑はますます嬉しそうな声を上げて、僕の胸を軽く蹴った。
そのかわいいしぐさが不意に、止まる。
「ん? ―――――紫苑?」
紫苑が、ぐ、っとうつ伏せになったまま、両手を床について首をもたげた―――――実は、これが初めて、紫苑が自分の力で起き上がった瞬間だったのだが、僕は気がつかなかった―――――何かに、耳を澄ませているようにじ、っとどこかを見ている。
その視線の先には、彼女がいた。
違和感を覚える。
少し――……本当に少しだが、彼女の声音が、硬くなっている。
何の話をしているのだろう?
通話を始めてから、ずいぶんと時間がたっているのも背を押して、僕は耳を澄ませて彼女の話している声を聞いた。
声は潜めているのか、細切れにしか聞こえない。
ただ、彼女がなぜか不機嫌な事は、その押し殺した声からよくわかった。
「………その件は…したはずです……」
「今の私の状態を………すか。………迷惑なんですよ、こっちは忙しいのに………!」
ぴん、と空気が張り詰める。
まずいぞ―――――本能的などこかで鋭い警告音が上がり、僕は紫苑の耳に手をのばした。
一瞬だけ、足りなかった。
次の瞬間、僕も身をすくめるような―――空気を震わせるほどの、彼女の怒号が響き渡った。
ふざけないでください―――――――!!!!
紫苑が、ぎゅう、と身をちぢこませる。その小さな身体をかばうように抱きしめた瞬間、受話器を持った彼女の肢体から、力が抜けるのを僕は見た。
紫苑が、火がついたように泣きだした。
起き上がって、紫苑の震える背中をさすりながら、僕は彼女の様子をうかがう。
彼女はへたり込んだまま、壁に身体を預けて息を整えていた。「大丈夫ですか!?」
受話器からは、彼女を心配して悲鳴を上げる声が垂れ流されている。
「………紫苑。いい子、いい子だから」
さすりつづけるその背中の波は、なかなかおさまってはくれなかった。
彼女が、心配だ。
何があったかは分からないが、あんな大声を自分で出して、大丈夫なはずがないだろう―――――あの声を、一番近くで聞いたのは紛れもない彼女なのだから。
「…………君」
うつろな瞳で、彼女が顔を上げた。ぽっかりと空いた紫色の瞳が、その瞳孔が、かすかに震えている。
「……くん」
すがりつくような、その声。
代ろうか?
……お願い、もう、私……。
うん、いいよ。任せて? ………相手は誰?
「劇長さん―――――私の、上司」
「ん、分かった」
何はともあれ、電話を代わる―――――
そして、僕は電話口で信じられない“お願い”を耳にした。
電話が代わったと僕が言うと、電話口の劇長さんは、恐ろしくほっとした声を出した。そしてそのまま、何でもないことのようにこう言った。
「奥様に、九月の“ハムレット”のオフィーリア役を、受けてほしいんです―――――お子さんが生まれたばかりで、手が回らないのはわかっています、しかし、そこをなんとか」
思わず、言葉を失った。
胸の奥に広がったのは、彼女のような怒りではなく、まぎれもない歓喜だった。
彼女のオフィーリアが観られる―――――それに僕は純粋な気持ちで、歓喜していた。




