035
お風呂で十分温まった紫苑が、ご機嫌そうに手をばたつかせる。
「ちょっと、紫苑、動かないで。ねえちゃんと拭かないと風邪ひくから」
そんな紫苑と格闘している僕をしり目に、彼女は鼻歌を歌いながら洗い物をしている。
「あぁあもう、わしゃー!!」
やけになって両手で、紫苑の身体にタオルをこすりつけた。………結局、紫苑を喜ばせるだけになってしまった見たいだけど。
その日の夜は、中途半端に目が覚めてしまったのか、紫苑はなかなか寝ついてくれなかった。
二人がかりでやっと寝つかせて、布団に入れたのは夜も深まったころだった―――――いろいろと、密度の濃い一日に、まぶたはすぐ重くなってくる。
心地よい疲れの中で、僕は息を吐いた。
「……くん、起きてる?」
「………んー?」
オレンジ色に照らされた空気の中で、彼女が笑う音がした。「……ごめん、起こしちゃった?」
「うん、………起こされた」
「ごめん、ごめん。ねぇ、ところでさ、起きたついでにちょっとお話ししようよ」
「もういいよぉ……、話つくしたでしょー?」
「まさか、全然話足りないって」
寝返りをうつと、こちらを見ていた彼女と目が合った。
「…………ふふ」
「何その笑い」
「何でもないよー………ふふふ」
「ちょっと気もち悪い」
「なんと失礼な」
「………ねえ、」
「何?」
彼女がなぜか、いたずらっぽく笑った。どこかわくわくした調子を隠して、彼女が言う。
「そっち、行ってもいい?」
………困った人だ。
「やだよー、って言っても、来るんでしょ?」
大正解、そう彼女は言って、身を起こす。毛布から身体を出すと、彼女は一瞬肩をすくめて、「さむ」と呟いて、いそいそと僕の隣に滑り込んできた。
一瞬、外気に触れて冷たくなった身体を、抱え込むようにしてあたためる。
彼女は僕の胸に額を付けて、すう、と大きく息を吸い込んだ。
「………くんの匂い。こうやってだっこしてもらうの、久しぶりだね」
僕は何も言わずに、ただ彼女を抱きしめる。
彼女の腕が、僕の背に回った。
ぎゅう、と、締め付けられる感覚も久しぶりで。
少しだけ、胸も締め付けられた。
「………んー」
彼女が、僕の胸に顔をこすりつけながら、甘え切った声を出した。仕方なく、片方の手で、頭を撫でる。彼女は満足そうに笑うと、身体の位置を変えて、僕の耳の裏に鼻を突っ込んだ。
「………君」
「何ですかー」
そう言えばさ、それ紫苑もやってたよね?
一瞬、彼女がきょとん、としたように黙り込んだ。
「……そうだったっけ?」
「うん……確か」
あはは、と彼女は小さく笑った。
「何でさ、私がこうやってくっつくか、知ってる?」
少し、考える。
答えが出なくて、素直にそれを伝えたら、彼女は意味ありげに、変な声で僕の名前を呼んで見せた。
耳の裏がくすぐったいです。
「……そう、それだよ」
「え、何が?」
ふふ。また、彼女が意味ありげに笑う。
「くすぐったくてね、面白いの。……くんがしゃべるたんびに」
ああ………そうですか。
「君は僕にどんな答えを求めてるの」
「別にー、言ってみたかっただけー」
「ああ………そうですか」
彼女はしばらく、おかしいくらいご機嫌に、くすくすと僕の腕の中で笑っていた。
ふいに、彼女が笑いやむ。
あまりに唐突だったので、少し心配になって、彼女の顔を覗き込んだ。彼女は幸せそうな顔で―――――自分で言うのもなんだけど―――――ただ、僕の胸に額を付けて、唇をかみしめていた。
………大丈夫?
僕が言葉を発する前に、彼女が、小さな声で呟いた。
「………お風呂の中でね、考えちゃったんだぁー……」
「ん、何を?」
「このまま、死んでもいいかな、って」
「―――――え――……」
別に変な意味じゃないよ?
思わず揺れた僕の声に、彼女は首を振った。こちらは、見ないままだった。
彼女の表情は、僕にはわからない。
「………もう、何もなくていいから、この時間だけ、この音だけ閉じ込めて。このまま死ねればいいのになんて、一瞬思った。……私、こんなに幸せなの、もしかしたら初めてかもしれない」
「こんな右耳、要らなかった。紫苑だって、苦しんでる………私だって、さんざん苦しんだ。こんな思いをするくらいなら、死にたい」
「そう、思ってた」
でもね、と、柔らかい声のまま、彼女は息継ぎをしてかすかに身じろいだ。
「幸せだから、この時間が続いてほしいから―――――死にたい。そう思ったのは、初めてだったよ」
「……くん、」
「ありがとう」
語尾が頼りなく震えたのを感じて、思わずその細い身体を力いっぱい抱きしめた。彼女が驚いたように身体を強張らせて、次の瞬間に力を抜く。
「……くん、痛いよー。力入れすぎだって」
「………だって君、あと少しで泣きそうだったから」
「あははー、ありがとうね? でも大丈夫だよ、哀しくって泣く訳じゃないんだし」
「……君」
「ん?」
「こっち、見て?」
彼女が顔を上げた。その額に、そっと、唇で触れる。
ふわり、花が咲くように彼女は微笑んで、少しばかり伸びあがると、僕の頬に薄い唇を寄せた。柔らかいその感触に、たしかな愛情を感じた。
そのまま、彼女は僕の腕の中で静かな寝息を立て始めた。
初めのにほめ―――――その夜が、更けていく。




