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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
第七話 初めの“にほめ”
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035


 お風呂で十分温まった紫苑が、ご機嫌そうに手をばたつかせる。


「ちょっと、紫苑、動かないで。ねえちゃんと拭かないと風邪ひくから」

 そんな紫苑と格闘している僕をしり目に、彼女は鼻歌を歌いながら洗い物をしている。


「あぁあもう、わしゃー!!」


 やけになって両手で、紫苑の身体にタオルをこすりつけた。………結局、紫苑を喜ばせるだけになってしまった見たいだけど。



 その日の夜は、中途半端に目が覚めてしまったのか、紫苑はなかなか寝ついてくれなかった。


 二人がかりでやっと寝つかせて、布団に入れたのは夜も深まったころだった―――――いろいろと、密度の濃い一日に、まぶたはすぐ重くなってくる。

 心地よい疲れの中で、僕は息を吐いた。


「……くん、起きてる?」


「………んー?」


 オレンジ色に照らされた空気の中で、彼女が笑う音がした。「……ごめん、起こしちゃった?」

「うん、………起こされた」

「ごめん、ごめん。ねぇ、ところでさ、起きたついでにちょっとお話ししようよ」

「もういいよぉ……、話つくしたでしょー?」

「まさか、全然話足りないって」


 寝返りをうつと、こちらを見ていた彼女と目が合った。


「…………ふふ」


「何その笑い」

「何でもないよー………ふふふ」

「ちょっと気もち悪い」

「なんと失礼な」


「………ねえ、」

「何?」

 彼女がなぜか、いたずらっぽく笑った。どこかわくわくした調子を隠して、彼女が言う。

「そっち、行ってもいい?」


 ………困った人だ。


「やだよー、って言っても、来るんでしょ?」

 大正解、そう彼女は言って、身を起こす。毛布から身体を出すと、彼女は一瞬肩をすくめて、「さむ」と呟いて、いそいそと僕の隣に滑り込んできた。


 一瞬、外気に触れて冷たくなった身体を、抱え込むようにしてあたためる。


 彼女は僕の胸に額を付けて、すう、と大きく息を吸い込んだ。

「………くんの匂い。こうやってだっこしてもらうの、久しぶりだね」

 僕は何も言わずに、ただ彼女を抱きしめる。


 彼女の腕が、僕の背に回った。



 ぎゅう、と、締め付けられる感覚も久しぶりで。


 少しだけ、胸も締め付けられた。


「………んー」

 彼女が、僕の胸に顔をこすりつけながら、甘え切った声を出した。仕方なく、片方の手で、頭を撫でる。彼女は満足そうに笑うと、身体の位置を変えて、僕の耳の裏に鼻を突っ込んだ。


「………君」

「何ですかー」

 そう言えばさ、それ紫苑もやってたよね?


 一瞬、彼女がきょとん、としたように黙り込んだ。


「……そうだったっけ?」

「うん……確か」

 あはは、と彼女は小さく笑った。

「何でさ、私がこうやってくっつくか、知ってる?」


 少し、考える。


 答えが出なくて、素直にそれを伝えたら、彼女は意味ありげに、変な声で僕の名前を呼んで見せた。

 耳の裏がくすぐったいです。


「……そう、それだよ」

「え、何が?」


 ふふ。また、彼女が意味ありげに笑う。


「くすぐったくてね、面白いの。……くんがしゃべるたんびに」


 ああ………そうですか。

「君は僕にどんな答えを求めてるの」

「別にー、言ってみたかっただけー」

「ああ………そうですか」


 彼女はしばらく、おかしいくらいご機嫌に、くすくすと僕の腕の中で笑っていた。

 ふいに、彼女が笑いやむ。


 あまりに唐突だったので、少し心配になって、彼女の顔を覗き込んだ。彼女は幸せそうな顔で―――――自分で言うのもなんだけど―――――ただ、僕の胸に額を付けて、唇をかみしめていた。


 ………大丈夫?


 僕が言葉を発する前に、彼女が、小さな声で呟いた。



「………お風呂の中でね、考えちゃったんだぁー……」

「ん、何を?」



「このまま、死んでもいいかな、って」



「―――――え――……」

 別に変な意味じゃないよ?

 思わず揺れた僕の声に、彼女は首を振った。こちらは、見ないままだった。


 彼女の表情は、僕にはわからない。


「………もう、何もなくていいから、この時間だけ、この音だけ閉じ込めて。このまま死ねればいいのになんて、一瞬思った。……私、こんなに幸せなの、もしかしたら初めてかもしれない」


「こんな右耳、要らなかった。紫苑だって、苦しんでる………私だって、さんざん苦しんだ。こんな思いをするくらいなら、死にたい」


「そう、思ってた」



 でもね、と、柔らかい声のまま、彼女は息継ぎをしてかすかに身じろいだ。


「幸せだから、この時間が続いてほしいから―――――死にたい。そう思ったのは、初めてだったよ」



「……くん、」



「ありがとう」



 語尾が頼りなく震えたのを感じて、思わずその細い身体を力いっぱい抱きしめた。彼女が驚いたように身体を強張らせて、次の瞬間に力を抜く。

「……くん、痛いよー。力入れすぎだって」

「………だって君、あと少しで泣きそうだったから」

「あははー、ありがとうね? でも大丈夫だよ、哀しくって泣く訳じゃないんだし」


「……君」

「ん?」


「こっち、見て?」


 彼女が顔を上げた。その額に、そっと、唇で触れる。


 ふわり、花が咲くように彼女は微笑んで、少しばかり伸びあがると、僕の頬に薄い唇を寄せた。柔らかいその感触に、たしかな愛情を感じた。



 そのまま、彼女は僕の腕の中で静かな寝息を立て始めた。


 初めのにほめ―――――その夜が、更けていく。



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