034
彼女にしては珍しい食べっぷりで、しばらくするとテーブルの上があらかた片付いた。
「……結構作ったつもりだったんだけど」
「そうかな? でも、二人で食べると案外こんなもんだと思うよ。……くん、少食だしね」
「君こそでしょ」
ぱ、と目が合って、どちらともなく、吹き出した。肩をすくめて、笑いあう。
「……なんか、何でもないのに楽しいね」
彼女が笑いすぎて、瞳に涙をためたまま呟いた。
手を伸ばして、その目じりにたまった涙を、指先でぬぐう。
また、目が合った。
そうだ、と、彼女が思い出したように言った。
「あなたに、お願いしたいことがあるの」
「何?」
「紫苑と一緒にお風呂入ってきてくれない?」
……………へ?
§ § §
「……くん、入るよー?」
彼女の声で、目を覚ました。
胸の下から浸かっている、ぬるい湯の感触と、心地よい水蒸気の感覚。上を向いた姿勢のまま、見上げていた天井は、かすかに濡れている。
がら、と重い音を立てて、開いたドアから彼女が姿を現した。
ジーンズもニットも袖をまくって、腕組みをして立っている。
「……くん、のぼせちゃうよ、紫苑」
「ん――――……」
「あら、寝てたの?」
「………ちょっとねー…、今何時? 気がついたら寝てた」
彼女が苦笑いを表情に張り付けて、浴室の中に入ってきた。
持っていたタオルの一つを、僕の頭にふわりと載せると、くしゃり、と僕の髪を軽くふいてくれる。
「……まだ三十分しか経ってないよ、時間忘れちゃうくらい熟睡してたの?」
………わりと、ね。
紫苑は?
そう問われてようやく、胸の上にのせていた、紫苑の存在を思い出した。
………なんか、一体化してた…。
「ん、なんか、起きてるみたい」
そう言うと、彼女は紫苑を覗き込んで、嬉しそうな声を出した。
「ほんとだー、目、ぱちぱちしてるー」
僕の胸を布団代わりにして、まどろんでいてらしい紫苑は、突然の彼女の登場に驚いたらしい。もぞもぞと動くと、僕の胸に柔らかい頬をこすりつける。
「……暑くなっちゃったかな?」
彼女がもう一つのタオルで紫苑を包み込んで、その身体に浮かぶ汗をぬぐった。突然触れた、何か柔らかいものにもびっくりして、紫苑はくびをふる。
ほっぺたリンゴみたい。
彼女が口の中で呟いて、その小さな手のひらでも収まりきってしまうほど小さくて、柔らかい紫苑の頬をつついた。目を細めている。
僕も、ずり下がってきた紫苑の身体を引っ張り上げて、その表情を覗き込んだ。
…………ほんとにかわいいなあ。
紫苑は、軟体生物は抜けても、肌は本当にすべすべで、同じ人間に思えなかった。
それに、柔らかい。
肌を直接触れ合わせていると、それがよくわかる。
ぷにぷにというか、ふわふわというか………。抱きしめているとだけで幸せになれるような、そんな抱き心地だ。
満足げに紫苑を抱きしめる僕を、彼女は湯船のへりに両腕を乗せて見ていた。
「………なんかいいなあ」
「ん? 何が?」
だってさ、と、彼女はうそぶく。
口をとがらせて、どこか嬉しそうに。
「あなたが私との赤ちゃんだっこして、いっぱい愛してくれて。そんなの、どこかで夢見てたんだろうなあ……」
「あの日、“嫌いにならないで”なんて、私は言ったけど」
「多分心の中では、喜んでたんだろうな、って思うよ。不安で仕方なかったけれど……だけど、それがちゃんとこうやって、今の日々につながってる。それも嬉しかったりするんだ」
「…………そっか」
ちゃぷん、と、お湯が波紋を立てて、僕の腕を解放した。
そのまま、彼女の頬に、触れる。
「……くん、濡れちゃうって」
「いいじゃん、このくらい」
「まあ、いいんだけどさ」
目を軽くつむった彼女が、ふふふ、と本当にうれしそうに笑った。
「ありがとうね、……くん。大好き」
僕は、その不意打ちに少しだけ目を丸くして―――――
こちらこそ、と目じりを下げた。




