033
僕の匂いがいいのだと、彼女はどこか得意そうに言う。
「……くんはねぇ、一緒にいるとほんとに気持ちが落ち着いていくの。それが匂いだ―――――って気がついたのは、ついこの間の事」
「ん?」
「入院中ね、不安で仕方がなくて。この原因なんだろうって考えたの、そしたら、あ、そうかなんて思いついてさ。………途中で頼んだでしょ? 入院中だけあなたの枕貸してくれない? って」
「ははは、なんだ、それで」
紫苑を挟んで、僕の腕の中には彼女がいる。
床の上での作業が多い僕のために引いた、床暖房がこんなところで、役に立っている。
「………紫苑、寝ちゃったね」
「………んー、そうだね、気持ちよさそう」
「………かわいい」
「………君だってかわいいんだよ」
「………えー、冗談やめてよ」
僕と彼女と、紫苑の上にかけた、薄い毛布が、いい感じで気持ちよかった。
もう気がつけば、三時過ぎだ。
お昼寝なんてどうだろう?
そんな甘いことを考えながら、僕は静かなまどろみの中で、二人のぬくもりを分けてもらう。
「ねえ……くん、気付いてる?」
まどろみを打ち破ったのは、彼女の笑いを含んだ声だった。
「――――ん…、何が?」
「実はね、私たち」
「うん」
「お昼食べるの忘れてるんだよ」
あ、
………………確かに。
§ § §
気がついたとたん、いいようも無いひどい空腹が襲ってきて、僕は眠気でしびれる身体を無理矢理起こした。
お、と目を上げた彼女と目が合い、僕は照れ笑いを返す。
「……お腹、空かない?」
「やっぱり男の子だねー、そゆとこ」
「……いや、空腹には勝てないよ」
いや、ほんとに。
いたって真面目に返す僕に、床に身体を横たえたままの彼女はゆっくりと笑って、紫苑を抱きしめて起き上がった。
「じゃあさ、……くん」
「ん、何?」
「………久しぶりに、二人でご飯作ろうか」
彼女らしい答えに、僕は微笑む。
「――――そうだね」
それがいい。
さくさくと、野菜を切っていく。隣では彼女が鍋の底をかきまわしながら、僕の切った野菜を煮込んでいる。
「……ほい」
切った野菜を手のひらに握り込んで差し出すと、彼女は場所を開けてくれた。ぽん、とそれも、鍋の中に入れて、僕は肉を切り始める。
「………それにしてもさ、」
「ん?」
「いきなり肉じゃがが食べたいなんてどうしたの」
「んー」
火加減を見ていた彼女が立ち上がって、あごに手を当てた。
「いやね、病院のごはんでいろんなもの食べたけどさ、なんかね、おいしくないのよねー」
肉じゃがに意味はないの、
そう言って、彼女はあごから手を離す。
「ちょっと冷えてるのもあるのかな、なんか食べ物じゃないみたいな」
「………へぇ」
ちょっと恥ずかしそうに彼女は肩をすくめて、おたまを握りしめる。
「だからだろうなあ、あなたのあったかい味の料理、恋しくなっちゃって」
はい、そう言われて見下ろすと、彼女が小皿にとった煮汁を僕に差し出していた。
腰をかがめて飲ませてもらう。………うん。
「……大丈夫?」
「うん、ばっちり」
「よかった」
切り終わったお肉を鍋の中に入れて、一気に加熱してもらう。お湯で手を洗っていると、彼女が僕の背中に寄り掛かってきた。
「何ですかー」
「……ちょっと休憩」
はいはい。
彼女が、僕の背中に額を付けた。
僕は抵抗せずに、されるがまま、彼女が満足するまでじっとしていた。
しばらくして、彼女が離れる。
いつの間にか、外はうす暗くなっていて、時計を見ればもう四時半を回っていた。
出来上がったごはんをテーブルの上に並べていると、紫苑が起きだして、彼女の事を呼んだ。………呼んだと言っても、小さなうめき声を出しただけなのだが。
「………紫苑、どうしたって?」
紫苑を抱きあげた彼女は首をかしげる。「………よくわかんない」
ま、いいか。
そんな風に言って、彼女はゆっくりと微笑んで、紫苑の背をとんとん、と叩いた。
「パパとママが仲良くしてて、やきもちやいちゃったかな? かわいい奴めー」
「………君」
ごはん。
声をかけると、彼女は「はーい」、と、ご機嫌そうな声を出して返事をした。
紫苑をもう一度、ベットに横たえて、こちらにやってくる。
では、
いただきます。
お箸を指の間にはさんで、丁寧にお辞儀をする彼女を、僕は見ていた。
「……くん、食べないの?」
僕の視線に気づいて、顔を上げた彼女が問う。
「いや、食べるって」
その言葉に添えられた、僕の含み笑いの意味に首をかしげて、彼女は両手で包み込んだお椀に視線を戻して、また食べ始める。
久しぶりだな、と、思っていた。
やっぱり僕には、彼女がかけた生活は考えられない。
かけがえのない宝物とともに、彼女が帰ってきた幸運に感謝しつつ、僕も手をあわせて、お箸を握った。
………うん、おいしい。




