032
紫苑は本当に、滅多なことでは泣かなかった。
赤ちゃんは泣くことが仕事なんて言うけれども、とんでもない。
「お腹がすいた」「暑い」「寒い」「お尻が気持ち悪い」「だっこしてほしい」「かまってほしい」
その全てを、紫苑は当たり前のように我慢して、ただ、澄んだ色の瞳で僕たちを見上げる。
授乳の時間は、彼女が全て知っているようだった。
「あ、まずい、胸張ってきた」
時間になると、彼女は大体そう言って立ち上がる。今日だって例外じゃなくて、彼女はいったん掃除の手を止めると、ベビーベットに寝かせていた紫苑を抱きあげて、
「ごはんにしようか」
そう、微笑んだ。
「……くん、おいでおいで」
呼ばれて僕も手を止めた。招かれるまま、彼女の隣に腰を下ろす。
彼女の腕の中では、乳房にしがみついた紫苑が今まさに、食事中だった。
「………なんか胸大きくなった?」
「んもう、真面目な顔してそういうこと、さらっと聞かないのー。………でもね、実際、ほんっとうに大きくなった。後で揉んで見る?」
「いえ、結構です」
ずい、と詰め寄ってくる彼女を、手のひらで軽く押し戻した。今自分がどんな格好してるか分かってる、君。
んもう、真面目な顔してとんでもないこと言ってるのは君の方じゃないか。
「……あのねえ」
彼女がふいに呟いた。
「最初は本当に大変だったんだよー……。紫苑全然上手に吸えなくてさ、私も上手く上げること出来なくて。無駄におっぱい痛くなってくばっかりで、ちょっと参っちゃたなぁ」
「でもさ、」
「こうやって、紫苑がちょっとづつ、大きくなって、楽しみだなあ」
彼女がすり寄ってくる。今度は、肩に手を回して抱きとめた。
「………涙出ちゃうくらいだ」
「………そうだね」
唯一、紫苑が泣くのは、“うるさい”時だけだ。
このときは正直、本当に困る。
「紫苑………大丈夫、大丈夫だから」
彼女が泣きだしそうな声で紫苑を抱きしめ、その背を必死に撫でている。「……、君、大丈夫?」
振り返って、頬についた絵具をタオルでぬぐいながら聞くと、情けない声で彼女は返した。
「ううん、全然大丈夫じゃないみたい。多分これ、自分の声で余計きつくなってるんだと思う」
「まじかー、初日から飛ばすなあ、紫苑」
「……くん、茶化さないで、ほんとにこれ、つらいんだから」
彼女が紫苑をゆすり上げた。
まだ、首の座ってない紫苑の首筋を支え、自身を襲う紫苑の声にも耐えながら、必死にその背を撫でている。
「君」
一瞬遠い目をして、倒れそうになった彼女の背を抱きとめた。
「…………くん」
その大きな薄紫色の瞳に、もう少しで溢れそうに、雫がたまっていた。
「……大丈夫、紫苑、貸して」
そのむき出しの耳に、そっと、囁きかけるように僕は彼女を後ろから抱きしめる。
「無理しなくていいよ、僕がいるんだから」
「……ごめんなさい」
腕を緩めると、彼女はゆっくりと僕に向き直って、紫苑を僕の腕の中に恐る恐る託した。
全身を震わせて泣きじゃくる紫苑を、僕は優しく抱きしめる。
「………しおん」
大丈夫。
「落ち着いて、怖いことなんて何もないよ」
小さな身体は、張り裂けそうだった。
僕には、紫苑が感じている苦しみはおろか、彼女が聞こえている世界すら感じられない。
だから僕は、こうやって二人を支えながら、無責任な、それでいて優しい言葉をかけ続けるしかできない。
それを、無力だとは思わない。
大丈夫、
僕の音にもきっと、誰かにとって薬になれる瞬間がある。
泣き続けていた紫苑が、身体から力を抜いた。
ふ、と、しゃくりあげてはいるが、その泣き声から力が失われていく。
「………そう、大丈夫だよ。息ゆっくり吸ってごらん? ほら、おいしいね、ね? 怖くないでしょう」
いつの間にか、ヘッドフォンをつけて戻ってきた彼女が僕の腕の中を覗き込んで、少しびっくりした顔をした。
「あれ、」
「紫苑、ちょっと落ち着いた?」
うん、と答えようとして、少し踏みとどまった。声をひそめて、改めて返す。
「………うん、ちょっとだけね。大丈夫かな?」
「うーん……なんか泣き疲れただけって感じもするけどね、もうちょっとで寝ちゃいそう」
「そうなの?」
あらら。
紫苑はいつの間にか僕の耳の裏に鼻を突っ込んで、その位置に収まっていた。………この姿勢、どうなんだろう。耳の裏がくすぐったい。
われらの王子様はおねむのようだ。
ベビーベットに寝かしに行こうとしたら、彼女に引きとめられた。
「ねえ、あともうちょっと、待っててあげてくれない? 寝るまで……ね?」
僕は一瞬だけ目を見開いて、うん、とゆっくり頷く。
少しだけ重くなった紫苑に、腕がつかれ始めてきていたことは、ちょっとした秘密にしておこう。




