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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
第七話 初めの“にほめ”
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032


 紫苑は本当に、滅多なことでは泣かなかった。


 赤ちゃんは泣くことが仕事なんて言うけれども、とんでもない。

「お腹がすいた」「暑い」「寒い」「お尻が気持ち悪い」「だっこしてほしい」「かまってほしい」

 その全てを、紫苑は当たり前のように我慢して、ただ、澄んだ色の瞳で僕たちを見上げる。


 授乳の時間は、彼女が全て知っているようだった。

「あ、まずい、胸張ってきた」

 時間になると、彼女は大体そう言って立ち上がる。今日だって例外じゃなくて、彼女はいったん掃除の手を止めると、ベビーベットに寝かせていた紫苑を抱きあげて、

「ごはんにしようか」

 そう、微笑んだ。


「……くん、おいでおいで」

 呼ばれて僕も手を止めた。招かれるまま、彼女の隣に腰を下ろす。



 彼女の腕の中では、乳房にしがみついた紫苑が今まさに、食事中だった。



「………なんか胸大きくなった?」

「んもう、真面目な顔してそういうこと、さらっと聞かないのー。………でもね、実際、ほんっとうに大きくなった。後で揉んで見る?」

「いえ、結構です」


 ずい、と詰め寄ってくる彼女を、手のひらで軽く押し戻した。今自分がどんな格好してるか分かってる、君。

 んもう、真面目な顔してとんでもないこと言ってるのは君の方じゃないか。


「……あのねえ」

 彼女がふいに呟いた。


「最初は本当に大変だったんだよー……。紫苑全然上手に吸えなくてさ、私も上手く上げること出来なくて。無駄におっぱい痛くなってくばっかりで、ちょっと参っちゃたなぁ」


「でもさ、」


「こうやって、紫苑がちょっとづつ、大きくなって、楽しみだなあ」


 彼女がすり寄ってくる。今度は、肩に手を回して抱きとめた。

「………涙出ちゃうくらいだ」

「………そうだね」



 唯一、紫苑が泣くのは、“うるさい”時だけだ。


 このときは正直、本当に困る。



「紫苑………大丈夫、大丈夫だから」

 彼女が泣きだしそうな声で紫苑を抱きしめ、その背を必死に撫でている。「……、君、大丈夫?」

 振り返って、頬についた絵具をタオルでぬぐいながら聞くと、情けない声で彼女は返した。

「ううん、全然大丈夫じゃないみたい。多分これ、自分の声で余計きつくなってるんだと思う」

「まじかー、初日から飛ばすなあ、紫苑」

「……くん、茶化さないで、ほんとにこれ、つらいんだから」


 彼女が紫苑をゆすり上げた。

 まだ、首の座ってない紫苑の首筋を支え、自身を襲う紫苑の声にも耐えながら、必死にその背を撫でている。


「君」


 一瞬遠い目をして、倒れそうになった彼女の背を抱きとめた。

「…………くん」

 その大きな薄紫色の瞳に、もう少しで溢れそうに、雫がたまっていた。


「……大丈夫、紫苑、貸して」


 そのむき出しの耳に、そっと、囁きかけるように僕は彼女を後ろから抱きしめる。

「無理しなくていいよ、僕がいるんだから」

「……ごめんなさい」

 腕を緩めると、彼女はゆっくりと僕に向き直って、紫苑を僕の腕の中に恐る恐る託した。



 全身を震わせて泣きじゃくる紫苑を、僕は優しく抱きしめる。

「………しおん」


 大丈夫。


「落ち着いて、怖いことなんて何もないよ」


 小さな身体は、張り裂けそうだった。

 僕には、紫苑が感じている苦しみはおろか、彼女が聞こえている世界すら感じられない。

 だから僕は、こうやって二人を支えながら、無責任な、それでいて優しい言葉をかけ続けるしかできない。


 それを、無力だとは思わない。


 大丈夫、

 僕の音にもきっと、誰かにとって薬になれる瞬間がある。


 泣き続けていた紫苑が、身体から力を抜いた。

 ふ、と、しゃくりあげてはいるが、その泣き声から力が失われていく。


「………そう、大丈夫だよ。息ゆっくり吸ってごらん? ほら、おいしいね、ね? 怖くないでしょう」



 いつの間にか、ヘッドフォンをつけて戻ってきた彼女が僕の腕の中を覗き込んで、少しびっくりした顔をした。

「あれ、」


「紫苑、ちょっと落ち着いた?」

 うん、と答えようとして、少し踏みとどまった。声をひそめて、改めて返す。

「………うん、ちょっとだけね。大丈夫かな?」

「うーん……なんか泣き疲れただけって感じもするけどね、もうちょっとで寝ちゃいそう」

「そうなの?」


 あらら。

 紫苑はいつの間にか僕の耳の裏に鼻を突っ込んで、その位置に収まっていた。………この姿勢、どうなんだろう。耳の裏がくすぐったい。

 われらの王子様はおねむのようだ。


 ベビーベットに寝かしに行こうとしたら、彼女に引きとめられた。

「ねえ、あともうちょっと、待っててあげてくれない? 寝るまで……ね?」


 僕は一瞬だけ目を見開いて、うん、とゆっくり頷く。



 少しだけ重くなった紫苑に、腕がつかれ始めてきていたことは、ちょっとした秘密にしておこう。



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