031
「ただいまー!」
彼女の腕の中におさまった紫苑が、ひどく不思議そうな顔をした。
ここどこ?
そんな風にでも言いたげな表情だ。
紫苑をよいしょ、と抱きあげた彼女が、紫苑の額に自らの額をそっと寄せて、嬉しそうにつぶやいた。
「紫苑初めてだねー、お家。お父さんの匂いいっぱいするでしょー、嬉しいねー」
「……ちょっと、君」
その小さな頭を後ろからぽん、ぽんと撫でながら、僕は背負っていた入院時の荷物を玄関口に下ろす。結構重くて、肩が痛い。うなりながら首を回していると、彼女が振り返って、ありがとう、と笑った。
「ん? 何が?」
「いや、いろいろお世話になったから――――ほら、悪阻のときからさ」
「ああ……まあ、そうだね」
首を軽く振って、痛みをいなして、僕は改めて彼女の頭に手を乗せた。
「でもね、この九カ月、一番頑張ったのは、君だよ」
だから。
「お礼を言うのは僕の方………ありがとうね、お母さん」
その言葉に、彼女はは、っとしたように目を見開いて、その次に本当にうれしそうに笑った。「こちらこそ」
「こちらこそ、これからもよろしくお願いします、お父さん」
新調した、ベビーベットに取りあえず紫苑を寝かせてから、僕たちはぼちぼちと身の回りの整理をし始めた。
主には、彼女がいなかった間に僕が散らかした床の上の整理だ。
「あははー、あれ? 僕結構頑張ってたつもりなんだけどなー……」
「これが!? ウソでしょ、もうっ……くんはぁ」
「すいませーん……」
でも、
と、絵具チューブを拾うためにしゃがみこんだ彼女があたたかい声で呟いた。
「身体軽いのって、ほんとに楽だね」
目があった。僕はよほど不思議な顔をしていたのか、彼女は笑って、違うよ、といった。
「別に、紫苑が重くて、煩わしかった、って言うことじゃなくて………なんて言うかなあ、ほら、紫苑がお腹にいたときはこうやってしゃがみこむことだってできなかったわけじゃない?」
「まあ……そうだね」
彼女は、なんだか嬉しそうに言葉をつなげていく。
「それがさ、こうやって自分の思いのままに身体動かせるようになって……ああ、やっぱり五体満足なことって、本当に幸せなんだなぁ、と思ってさ」
なんだか、脳裏によみがえる光景があった。
ついさっきの事だ。受付で退院の手続きをした後、帰ろうと歩き出した時、不意に彼女が僕の裾を引きとめたのだ。
「ごめん、ちょっとだけ、浮気してきてもいい?」
もちろん僕はその言葉を真に受けて相当焦ったのだけれど、彼女は迷わずまっすぐに歩いて行って――――
車いすに座った、男の子の隣に膝をついた。
珍しく、彼女が真剣な表情をしていた。
「……それから、大丈夫? ちょっと今日顔色いいね、元気そうでよかった」
「あぁ、その節はお世話になりました。すみません、心配掛けて―――あの、そちらが…?」
「そう、私の旦那さん」
彼女が僕の手をつかまえた。
「そしてこの子が、紫苑」
彼は表情を緩ませて紫苑を見つめ、僕を見上げた。会釈されたので、僕も軽く頭を下げ返す。
柔らかい笑顔を持つ子だった。
「触る?」
「あ、いいんですか」
彼女と、彼が緊張させた空気を少しだけ和ませ、言葉を交わしている。
そんな光景を、思い出していた。
「………あなた? …くん?」
彼女に声をかけられ、は、と我に返る。
「そう言えばさ、」と僕が口を開くと、彼女は「ん?」と小首をかしげて見せた。
「あの子―――――ほら、彼女が紫苑を触らせてた彼。どんな関係なの?」
「ああ……やっぱり気になっちゃう?」
「あ、いや、そんなんじゃないけどさ」
彼女はからかうように肩をすくめて笑った後、ふ、と視線を落として、表情を消した。
「もう、一年保たないんだって」
「何が?」
「彼」
「………嵯峨野くん、もう、一年生きられないって、お医者さんに言われたんだって」
「……そう、だったんだ」
あのね、と彼女はぽつぽつと彼との出会いを語ってくれた。
廊下でうずくまる彼を、偶然見つけたこと。そして、彼の病室でそんな話を聞いたこと。
「こんな話してもさ」
彼女はそう言うけれど、吐きだすだけでずいぶん違う。『彼』はきっと吐き出せないままなんだろうね―――――彼女はうつむいたまま、拾い集めた絵具のチューブを少しだけ握りしめた。
「だからもあるんだなあ、五体満足って本当に幸せだななんて思うの―――――ねえ……くん」
「私がもしある日突然いなくなっちゃったら、どうする?」
「え?」
思わず顔を挙げた先で、彼女は悲しそうに笑いながらひらひらと手を振って見せた。
「嘘だよウソ、冗談だって。忘れて?」
「う、うん」
その言葉とは裏腹に、彼女の表情は少しの間強張ったままだった。
深くは突っ込まずに、僕は黙々と左手を動かしながら床の上を掃除し続けていた。




