030
「ね、ねえ君っ」
不思議そうな顔をして彼女が顔を上げた。
ほら見て。そんな風に促すと彼女は僕の腕の中を覗き込み、もう一度僕を見上げた。こてん、と首をかしげる。
「紫苑がどうかした?」
どうかしたもなにも。
見て。
もう一度促すと彼女は不思議そうな顔をしたまま僕の腕の中を覗き込んだ。ぐぐぐ、と体重を乗せてきたので細い身体をつかまえてもう片方の腕の中に収める。
彼女はしばらく黙っていた。
あ、
なんて乾いた声を漏らして。
彼女はゆっくりと微笑んだ。
「瞳の、色か」
「…………うん」
「シオン?」
「そう、紫苑」
腕の中で彼女が身じろぐ。僕の鎖骨に顎をつけた彼女は「おお、ベストポイント」と茶化した。
紫苑を見る。顔を上げる。
ゆきこ先生とも目があった。
「え?」
ゆきこ先生がぎこちなく笑った。「何どうしたんですか、二人そろって」
どうやら僕と彼女の動きがそろっていたらしい。横を見たらちょうど僕の方を見た彼女とまた目があった。
二人で肩をすくめて笑う。
痛いくらい幸せだ―――――――
描きたい世界は幸福に満ちていた。
§ § §
紫苑の目の色はやはり身体の色素が薄いことが原因らしい。後でよく見たが、彼女よりも薄い色で、まあ少し強引だけど――――シオン色、と言ってもおかしくない色だった。
シオン。
彼の名前だ。
ああ、それと、もうひとつ。僕らにとって大切な問題があった。
耳は――――――
紫苑の耳は、
“聴こえて”いた。
§ § §
「紫苑くんは一般の子と比べて聴覚が恐ろしく発達しています」
ゆきこ先生がまっすぐに彼女を見つめて言った言葉は、僕たちにとって何の意味があったのだろうか。
「そうですね、並みの三倍―――聴こえよりもむしろ、その精度に私たち医者は驚いているわけですが……、……さん? 聞いてますか?」
「………ああ、すみません」
考え事に足をとられていた。ゆきこ先生は少し目を伏せた後、彼女に向き直って彼女の名前を呼んだ。
彼女がおそるおそる、と言った体で顔を上げた。
ゆきこ先生は少しだけ顔をしかめて、苦しそうに言った。
「こんな質問をするのはとても気が引けてならないのですが―――聞いても、よろしいですか?」
「………はい」
「あなたには、世界がどのように聴こえていますか?」
彼女が目を伏せる。なんとなく、僕らが何故呼ばれたのか。その理由を、察してはいたのだろう。
医者たちは――――紫苑をきっと、何も理解できない。
僕が彼女を全て理解できないのと同じように、彼らもきっと、そうだ。分からないから……問うしかない。
同じ世界を聞いているであろう、彼女に。
彼女は少しだけ震えて、息を吐き出した。
僕にすがりつくように握られた手はやっぱりほんの少しの熱を帯びていた。
「………世界は、」
震えるような声。
「汚くて、あまりにもいろんな音が混じりすぎていて。私は世界が―――嫌いです」
でも、とつないだ先が、彼女が言いたかったことだ。
「でも、今では、きれいな音があって、美しい色があって―――――そんな世界を知りました。五月蠅いけど、それでも、私はこの世界を愛していたいと思う」
ゆきこ先生はただ、まっすぐに彼女を見つめていた。
彼女は話しおわると先生から気まずそうに目をそらし、息をついた。
「ごめんなさい、上手く説明できないです」
「………それは仕方のないことです。息の仕方を説明するのと同じことですから」
「紫苑は、どうして聞こえている、と」
ああ、とゆきこ先生は哀しそうに笑った。
「検査をしたんです。赤ちゃんは大人と比べて聴覚が発達しているのは事実ですが、あまりにも紫苑くんの様子がおかしいので、お母さんの状態から少し推測して―――ごめんなさいね、先に言わなくて」
彼女が目に見えるほど動揺する。「え、様子がおかしいって」
先生はゆっくりとかぶりをふった。
「大丈夫ですよ、ただ………まったく、泣かないんです」
「泣かない?」
「はい、まったく」
私たちの中で、それは自分の泣き声が負担になるからかもしれない、と結論付けました、とゆきこ先生は簡潔に説明した。
彼女はそれから、黙っていた。口は挟まず、ただ僕の手だけを握っていた。
ゆきこ先生が部屋をでていってから 、彼女は悲しそうにつぶやいた。
「自分の声すら怖いなんて…………ね。なんかいろいろ考えちゃうね」
そうだね。
彼女の手を握りながら、病室に備え付けられた小さいベットの上で寝息を立てる紫苑を見た。
新しい生活が、始まろうとしている。




