029
ゆきこ先生の腕に抱かれた彼を僕たちは固唾をのんで見つめていた。
「さあ、どうぞ」
彼女が手をのばす。その腕に紫苑が託される。
彼女が何とも言えない甘い息をもらした。
まるでコワレモノのような、小さくて、もろい宝物。
今日は、彼が自分の力で息を吸い始めた、記念日です。
彼女が僕の肩に額を落とした。そのまま、泣き笑いのような声を立てて肩を震わせる。「…………くん」
「ん?」
「………やばいかも」
「何が」
笑いまじりの声で返した。でも、とつづけた声にも、苦笑が滲んでいた。
「分かるかも」
そっと手を伸ばして、触れただけで傷つけてしまいそうな、その小さな手に触れた。紫苑は一瞬だけ戸惑ったように手のひらをほどいて、次の瞬間に僕の指を握り込んだ。
痛い。
―――――僕も、「やばい」かも。
ゆきこ先生を見上げると、彼女はに、っと珍しく歯を見せて笑った。その笑顔にさえ、胸が締め付けられる―――――
どうしようもなく。
「かわいいですね」
ゆきこ先生がささやくような声で言った。僕はぼやける視界で首を上下に振った。
彼女が僕を見上げた。肩に頬をつけたまま僕に微笑みかける。
その紫色の瞳はかすかに濡れていた。
「えへへー」
「何なに、どしたの」
「ずっとそばにいるね?」
「ほんとにどしたの、いきなり」
「だってあなた、ここにいてくれるって」
ああ、そんなことも言ったね。彼女の肩に腕を回して小さな頭を撫でた。彼女は紫苑を抱きしめたままご機嫌そうな声を出した。
「ねえ……くん」
「何?」
「だっこして」
「君を?」
私な訳ないじゃない、と彼女は苦笑いをして僕をつついた。
「紫苑だよ、紫苑のことだっこしてあげて、って」
「え」
む、無理。僕は必死に首を振った。それを見て、彼女はくすりと肩をすくめて笑う。
「大丈夫だって、とって喰われるわけじゃないんだから」
「で、でも」
絶対落とすって。
「大丈夫ですよ」
そんなふうにゆきこ先生まで僕に発破を掛けてきた。どうしたらいいかわからずに、僕は彼女を見る。彼女は無責任にまた微笑んで、首をかしげた。
「ね、……くん」
こわごわと彼女が差し出した紫苑を受け取った。そして僕は
少しだけ、びっくりした。
あ、こんなに重いんだ―――――
紫苑はなんというか、人というより軟体生物に近かった。肌が嘘みたいに柔らかくて、頭に至ってはぐにゃぐにゃだ。体の至るところがふやけていて、あたたかい。
そして、重い。
思わず、その小さな体を抱き締めた。
その様子を見て、彼女はますますご機嫌そうに笑った。紫苑を抱いた僕の手のひらに自らの掌を重ねて、僕を見上げる。
「……くん」
何?
「生きてて良かったって、こんなときに思うんだろうね」
どきりとした。いつものはしゃいだ雰囲気はどこかに消え去って、彼女は大人びた紫の瞳を紫苑に落としていた。
その瞳の中にはただ、静かな愛だけが宿っていた。
ゆったりとした旋律が流れ出した。彼女の薄い唇から音が雫れていく。
目を閉じた。なんだかんだいって彼女の音を聞くのはけっこう久しぶりだっけ―――――……
腕の中で紫苑が小さく身じろいだ。僕は薄く目を開いて、腕の中を覗き込む。
「あ」
目が、あった。




