028
新生児室の前。彼女の吐いた息で、ふわりとガラスが白く曇る。
「やっぱりちっちゃいねぇ……………」
赤らんだ顔のまま、彼女がじっと視線を向けながら発した言葉。その視線の先には、僕らの王子様がいる。
まぎれもない、宝物。
他の子とも比べてたってまだ小さい彼は、ゆっくりと、確かに生きている。
「 」
名前を呼ぶと、彼女は「ん?」と首をかしげながら振り返った。そのカーディガンの裾を直す。彼女は少しだけ恥ずかしそうにして、
「ありがとう」
と、
やっぱり、小さな声で呟いた。
「君」
「なに?」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
紫苑を見つめたまま交わすその会話が、とてもあたたくて心地よかった。不安でしょうがなかった昨日の夜が、独りに戻りたくないと祈ったあの夜が、もうあたたかい思い出に変わっていくのを感じた。
幸せだった。
「君」に出逢えた奇跡が、「君」を迎え入れた運命が、
間違っていなかったと証明できる。
君でよかった。
僕と時間を重ねるのが君でよかった―――――
§ § §
僕の提案で、気分転換に、と彼女とともに散歩に出かけた中庭には、うっすらと雪が積もっていた。
ちなみに今も降っている。
凍りそうに寒いけれど、彼女はなんだかその寒ささえ嬉しそうだ。
「ねえ…くん」
何?
「…………寒いねっ」
うん、そうだね。
全然君寒そうに見えないけどね。
そう言うと、彼女はますますご機嫌そうに笑った。
「私は寒くないよ。だって私今体温38度くらいだもん――――あ、大丈夫だよ?」
思わず顔をしかめた僕に言い訳をするように彼女は手を振った。
「大丈夫。だってただ身体の表面温度が上がってるだけだもん」
「それってさ」
「うん」
「熱でてるってことだよね?」
「………うん」
それでも、と彼女はどんづまりの空を見上げて目を閉じた。火照った頬に雪がひとひら舞い降りてふわりと溶けた。
「今はあなたの隣で息吸っていたい。冷たくて気持ちいいこの世界の」
ゆっくりと開かれた、紫がかった大きな瞳が僕をつかまえる。澄み切った美しい色だった。
溶けていく雪のように、彼女はふわりと相好を崩した。
「身体軽いなあ、やっぱり紫苑重かったや」
「…………くん?」
ふと、彼女の不思議そうな声に我に返った。「どうしたの?」
「まだ、哀しい?」
あ、いや。
「そんなんじゃないよ」
「ただ君って本当にきれいだななんて思ってさ」
彼女は今日一番の真っ赤な顔をした。「な、なにいきなりっ、……くん変だよっ、絶対変っ! だっていっつもこんなこと言ってくれないもんっ」
えー。
いや、いつも心の中では思ってるんだけどね?
「今日のあなたは変っ!!」
そんなに変かな。
まあ、いいや。君が楽しそうにしてくれるならそれでいい。
彼女の手に、僕の冷え切った手を重ねた。彼女は気持ちよさそうに目を細め、僕の手を握り返す。
「………つめたい」
「………君があったかすぎるんだよ」
「………ふふふ、いいよなんでも」
雪は降り続いている。
はらはらと落ちては消えるその雪のかけらに、彼女は何かを思い出したかのように言った。
ねえ……くん。
ん、何?
「…………―――好き」
彼女が僕をこわごわと見上げた。僕はそうとう変な顔をしていたのか、彼女は眉を下げて泣き笑いのような表情になった。
あまりの不意打ちにびっくりした。
それと同時にどうしようもなく不思議に思って―――――あぁ、と気がついた。
今日は何の日?
2月14日。
バレンタインデー………――か。
なんだ、そんなこと。それなら、
「愛してる」
彼女は目を見開いた。僕だって驚いた。こんな言葉が自分の口から出るなんて思っていなかった。また一人心の中で呟くものだと、
思っていた。
彼女の顔がゆがむ。でもその歪みはどこか美しくて。
一瞬ののち、彼女はまた笑顔を取り戻した。舞い散る雪の中で彼女は笑う。
「静かだね」
「いつもと変わりないけど」
「なんでだろう、聞こえないよ―――汚い音、全部」
それならいい。君がこの世界で精一杯息を吸えるなら、その世界を信じていればいい。
のびやかに流れ出した、久しぶりの彼女の歌声に目を閉じて、全身を預けた。
あとでチョコでも買ってきてあげようかな。
切り裂くような、冷たい外気も今は心地いい。もう少し、このまま―――――
この時間がいつまでも続けばいいと思った。
それさえあれば何もいらないと思った。
本気でそう思っていた。
手の中にある幸せが全てで、君の音色がすべてだと――――――
僕は、思っていた。




