026
ずっと、身体の震えが止まらなかった。
「………さん、大丈夫ですよ」
いくらゆきこ先生が背を撫でてくれても、震えは止まってくれなかった。ただ、両腕で抱いている自分の身体だけが頼りだった。
もう、消えてしまいそうだった。
分かってる。何も、早産全員が、母さんのようにはならないこと――――けれども、無理だ。考えてしまう、そして、戦慄してしまう。
紫苑が、彼女を連れていく――――――
「お願いだから、それだけは」
かすれた声。僕以外、世界のだれにも聞こえない声で、祈る。
「それだけは、やめてくれ…………――」
母さんは、僕の顔を見たことも無い。そして、僕をその両腕で抱いたことも無い。
へその緒が首に巻き付いていた僕が息を吹き返した時には、もう、母さんは意識不明の重体だった。僕が眠る横で、母さんはゆっくりと息を引き取ったらしい。
すべては伝聞で、僕は何も知らない。
だけど、繰り返し、生きていたころの父さんに言いきかされていた記憶。母さんはお前のために死んだ、だけどそれを罪に思うな、ただ―――――
母さんを、忘れるな。
忘れたことなんてなかった。だけどただ、悪いような、そんな気はしていた。
同じ思いを、紫苑にさせたくない? それもあるよ、だけど、そんなことより………
まだ、彼女と描きたい色がある。
まだ、彼女と紡ぎたい音がある。
行きたい場所がある。話したい事がある。抱きしめていたい体温がある。見せてあげたい、世界がある。
それを叶えたい。過ぎた願い事じゃない。無茶な祈りじゃない。
だから、お願いだから。
………思考を破ったのは、ゆきこ先生の声だった。
「医者としてではなく、女性として、話してもいいですか?」
初めて、彼女を看てくれたときの、冷たい声音だった。
「私だって怖いんです。恐くて、怖くて、たまらない」
「だけど、私は、私としての責任があるから、顔を上げる。あの人みたいには、絶対にしない」
顔を上げた。上目遣いで見上げた先生は、思いつめた表情でどこかを見つめていた。
「私は今でも分からない。自分がこの仕事を選んだわけも、何故私はこんなに怯えているのにここに立っているのかも」
僕の視線に気がついたように、ゆきこ先生はは、っと僕を見下ろした。
その頬に、一本の筋が伝っている。
泣いている………?
「………ごめんなさい」
急に、弱々しい声になって、ゆきこ先生は僕を凝視したまま呟いた。あわてて首を振った僕は、身体を起こして、自分の腕の拘束を解いた。
「彼女は、今……?」
「……陣痛の間隔がだいぶ縮まりました。子宮口もずいぶんと開いてきているので、おさんとしては順調です」
………おさんとしては…ね。
ただ、とゆきこ先生が続ける言葉は想像がついていた。
「ただ、紫苑くんがまだずいぶん小さいんです。生きていく分には大丈夫ですが、保育器に入らなければならないかもしれません」
「…………彼女は」
ゆきこ先生は首を振った。
「一概には言えません。出産は何が起こるか本当に分からないので―――ですが、言わせて下さい」
「お母さんと紫苑くんは、私が、『私が』絶対に無事にお父さんに会わせます、もう一度」
立ち上がった彼女は本当に強くて、それでいて美しくて。
その化粧っけのない唇をぎゅっと結んでゆきこ先生が言った言葉に、僕は懸けた。
「だから。信じて下さい」
ゆきこ先生が白衣を翻して彼女の病室に消えた後。
僕は唇を強くかみしめて、立ち上がる。
身体の震えは止まらないまま、怖くて仕方ないままだけど。だけど――――
「……描こう」
僕にはそれしかできない。
彼女が戦い終わってかわいい天使の顔を見ることができたら、紫苑を挟んで、笑いあえるように。




