021
「――――――君!」
僕が息を切らして寝室に飛び込むと、彼女はそんな僕に目を丸くした。
「ど、どうしたの、……くん。え、何。なんかテンション高いよ……?」
「子供の名前!」
「こ、子供ぉ?」
うん、と僕は頷く。
「子供の名前、紫苑にしよう」
突然の事だったのだろう、彼女はそんな僕にますます目を丸くして。
「は、はあ?」
そう、思わず、といった間抜けな表情で僕を凝視した。
§ § §
「まずさ、状況整理させて」
彼女は片手で僕を制しながら言った。
「ねえ、いままでどこ、行ってたの」
あ………ごめん。
少し気まずくなった僕は頭をかいた。
「画材屋さん。………君あまりにも気持ちよさそうに寝てるから起こすのも悪いかなって、さ」
「そっか………別にいいんだけど。目覚めて、いたはずの人がいないって、めちゃくちゃ不安なんだよ」
「うん、言葉も無いです」
ごめん。そう言うと、彼女はうん、とかすかに笑った。
「あとね、……くん」
僕の耳に唇を寄せる。
「……………あなたちょっと、うるさい」
「――――――……っ…!」
「ご、ごめん………っ!」
彼女は僕の耳元で、もう一度言った。「し――――………」
彼女と額をあわせるようにして、しばらく僕は口をつぐんだ。目を閉じた彼女の端正な顔が目の前にある。
「ごめんね。いつもだったら、このくらいでも大丈夫なんだけど………だけどごめん、今、ちょっと耳が、ね」
「………ごめん、気にかけてなかった。つらかった?」
「ううん……大丈夫。少しびっくりしたけど」
それで。
彼女はゆっくりと目を見開いて、僕から離れた。
「それで、どうしていきなり、子供の名前なんて」
大きな紫がかったその瞳がまっすぐ僕を見つめていた。僕は息を吐いて、口を開いた。
「見つけたんだ。また」
彼女は無言で首をかしげる。
「……君に出逢った時。ぶわって、何かを感じた。それと同じような感じを、この色を見た瞬間、感じた。いや――――――」
見えた、
という方が正しいか?
さまざまな光の中で、確かにそれは一段と強い輝きを持って僕を呼んでいた。だから、手を止めたんだ。
「シオン。薄紫色の、名前だ」
買ってきた、あの色のチューブをそっと彼女の掌にたくした。
は――――――と彼女が目を見開いた。
「こ、この色………私の、ヘッドフォンの、花の色」
彼女がどこかあわてたような様子で、枕元の机の上に手を伸ばした。「………っ、ほら」
息をのむ。……確かに、そうだった。
何で気がつかなかったんだろう。いつも、こんなに近くにあって、毎日目にしていたはずなのに。
急に可笑しくなって、僕はぷは、と笑った。
よばれた――――ね。呼ばれたんじゃなくて、君に教えられていた色をまた、僕が見つけたつもりになっていただけか。
彼女がため息をつくように言った。
「そうだよ………私、どうしてもヘッドフォン好きになれなくていつか、つけたくないって駄々こねたんだ。そしたらお母さんがカバーにこの刺繍………シオンだよ―――…の好きな色だよ、って」
「そっかあ………私、この色好きだったんだぁ………」
彼女の細い掌が、そっと絵の具のチューブを握りしめた。
「……くん」
彼女の、瞳。あの日みたいに優しげな光をたたえ、僕を見つめている。
「賛成です」
「――――――………!」
「名前、紫苑にしよう」
思いっきりうなずいた。彼女はぱ、と笑って、僕の手を握った。
「この紫苑はとっておこう――――この子は、使わないで」
目を細めて、ちょっとだけ赤らんだ顔で彼女はうれしそうに言う。
「そしたら、いつかこの子が大きくなったら、話してあげるんだ――――紫苑って、こんなにかわいい花なんだよ、って」
女の子でも男の子でも大丈夫だしね。
そう、彼女は付け足して、
また、笑う。
その笑顔に、僕は安心する。
また、起き上がれる日が来たら、紫苑見に行こうね。そう心の中で呟いて、僕も笑った。




