016
それからは、本当に大変になった。
彼女の悪阻は、普通の悪阻でおさまってくれなかった。
「―――……っ――……」
彼女のうめき声が薄暗い部屋の中でこだまする。大丈夫、そう言って背を撫でてあげることしかできない僕は、本当に無力だと思う。
「大丈夫、大丈夫だから」
僕の膝に顔を埋めた彼女が震えながら首を回した。僕をとらえたぼやけた瞳は薄紫色に染まっている。
「………、―――…、い、…くん―――」
「ん? どうした?」
「…………――し、て………」
「ん、いいよ」
彼女の耳を挟みこむ。「大丈夫」そう呟いて目を閉じ、彼女の額に額をあわせた。
「………大丈夫」
彼女が息を吐いた。胃液が混じったその匂いから彼女の苦しみを痛いほど感じる。
彼女は、耳が敏感になりすぎていた。
少しの雑音でも泣きだすくらいに苦しんで、何度も何度も吐いて、震えながら僕の手を求めて。
苦しみ続ける彼女に僕は―――――
そばにいてあげることしか、出来なくて。
何度も背を撫でた。何度も彼女の目をふさいだ。耳をふさいだ。少しだけ冷たい体温を貸した。
彼女の目がうすくぼやける。しゃくりあげながら必死に耐えている。
「寝て」
僕がそう言うと、彼女はかすかにうなずいた。
「そばにいるから、ちゃんとここにいるから」
「寝て」
目を閉じたその疲れきったような寝顔にそっと頬を寄せ、横たえた。「………――」
名前を呼んだその横顔は、応えない。
「あら」
部屋に戻ると、彼女はベットの上で薄眼を開けたまままどろんでいた。
「起きてたの」
スケッチブックを置き、彼女の横に腰を下ろす。額をすりよせてきた彼女の髪を軽く撫でる。
「大丈夫?」
かすれた声で彼女は何かを言った。うんともううんとも聞けるけど、呼吸も落ち着いているし震えも収まってるみたいだ。………よかった。
「つらいね」
絡まった髪をゆっくりと解くように梳いた。彼女は僕を見上げて、ゆっくりと、
微笑った。
「………うん」
「嫌だよね、君ばっかり。無理させてごめんね? 何か僕に出来ることあったら僕はなんでも―――――」
「いやじゃ、ない」
「え?」
「つわり、いやじゃないよ」
どういうこと?
首を傾げた僕に、彼女は少し呻いて起き上がろうとした。「あ、まって手伝う」
細い背を支えて彼女を起き上がらせた。彼女は僕の胸に背を預けて長く息を吐いた。
おもむろに、手首をつかまれる。
弱々しく導かれ、僕が触れたものは―――
彼女の、お腹だった。
思わず身をすくめた僕に、彼女は笑う。
「だいじょうぶ」
別に何も、取って食おうってわけじゃないんだから。かすれ声で言った彼女は楽しそうに見えた。
「ここにね、自分のじゃない命があるの」
その言葉はどこか、ため息にも似ていた。
「そしたらもうそれだけで、それだけでそれこそ」
「死ぬほどうれしいよ」
「………そ、っか」
そうだよね、そう呟くと、彼女は満足そうに笑った。
「あなたのこども、だよ」
「名前、どうしようか」
「まだ早いよ、これから七か月以上もあるんだから」
無声音の会話。硬くにぎりあった手。
音と音を重ねてまた、僕らは一つずつ思い出を育てていく。