オンバルル(7)
眩暈がした。オージアスは躰の不調に気付いたとき、瞬間的に、敵の術中にはまったことを悟った。
邪悪で暴力的な呪力の奔流が、オージアスの意識を押し流そうと襲ってきた。もしオージアスが常に魔術による防御策を講じていなければ、そのまま絶命していたかもしれない。
まさに致命的な一撃だったが、何とか踏みとどまった。オージアスに対峙する道衣の男は驚愕したようだった。
「さすがは英雄……! 一撃では倒せないか。だが……」
オージアスはその場に立っているだけでせいいっぱいだった。人質になっていた若い女の小人が、オージアスの手から逃れる。俊敏な動きで着地すると、そのまま道衣の男のほうへと駆けていった。
両手で掲げるように持っているのは例の水晶玉だった。ワットが大声を張り上げる。
「おい! どこに行く気だ、まさか!」
若い女の小人は、道衣の男に水晶玉を投げ渡した。道衣の男はにやりと笑み、小人を自身の肩に載せた。
「そう、彼女は協力者だよ。古い慣習に倦み、ここの上質な金を売り捌くことで、外の世界での自由を勝ち得ようとした、紛れもなき賢者だ」
「愚かな……! ここの平穏な暮らしがいったいどのようにしてももたらされたのか! 若い者にも十分に知識として行き届いていたはずだが……」
「知ったうえで抜け出そうというのだ。老人が若者の輝かしい未来への道を阻んでどうする? おとなしく隠居したらどうだ」
道衣の男の言葉にワットは顔を真っ赤にして激怒したが、道衣の男が掲げる水晶玉の禍々しさに、近付けなかった。アミはというと、弓矢をつがえてしゃがみ込んでいる。しかし彼女も、射かけたとしても全く通用しないことを察しているようだった。
オージアスは頭を振った。水晶玉の呪力が、なおも彼の躰を蝕み、隙を見せた瞬間、魂を食い破ろうと渦を巻いているのが感じられたが、彼を支配しているのはむしろ、怒りの感情だった。
敵に対する怒りではない。敵を軽んじ、致命的な一撃をみすみす喰らってしまった自分の不用意さに、はらわたが煮えくり返る思いだった。
一瞬、アミもワットも巻き込んで、この一帯を火の海にしてやろうかと思ったが――実際敵を排除するのに最も手っ取り早い方法はこれだった――さすがにそれは思いとどまった。屈辱的な打撃を喰らったからと言って、怒りに任せて反撃するのは幼稚というもの。
理性を最大限駆使し、怒りを鎮めた。冷静になれ。オージアスは自分に言い聞かせる。
深呼吸を一つ、二つ。右手が震えていた。さっさと殺してしまえと本能が言っている。理性がそれをかろうじて押しとどめる。
「全く……、馬鹿な男だな、吾輩は」
オージアスは言う。
「油断があったとはいえ、敵の術中にはまるとは。救出したと思った人質が懐で水晶玉の呪力を解放する――しかし吾輩がもしその呪力を抑え込まなければ、近くにいたそこの若い女の小人も一緒に死んでいたのではないか?」
オージアスの指摘に、女の小人はぎょっとしたようだった。道衣の男は涼しげな顔だった。
「それで揺さぶっているつもりか、英雄殿。形勢は完全にこちらに分がある。命乞いをするなら助けてやっても――」
「寝言にしてもタチが悪いな。吾輩が命乞いだと? 神にだってしてたまるものか」
オージアスが目を見開いた。男が持っていた水晶玉に皹が入った。男は信じられないと言わんばかりにかぶりを振った。
「な、なんだ……!?」
「さっさと手放さないと腕を一本失うことになる」
「そんな脅し……」
「警告はしたぞ」
水晶玉が水風船が破裂したときのように音を立てて弾けた。黒い炎が男を覆い、肩に乗っていた女の小人は慌てて退散した。それをワットが難なく捕まえる。
男は悶え苦しんでいた。信じられないものを見るようにオージアスを睨みつける。
「なっ、何をしたぁ……!」
「水晶玉の呪力を暴発させた。きみの実力では、吾輩の干渉を阻むことができなかったようだな」
「こ、こんなこと……! この水晶玉は私の完全なる支配下にあった……! 他者の干渉を受けるなど……」
「きみのちっぽけな障壁くらいワケはない。……ところで、アミ」
「はい!?」
突然声をかけられたアミは酷く驚いた。まるでオージアスが敵か何かのように身構えた。オージアスは苦笑した。
「今から吾輩は荒業に出る。十中八九、敵は水晶玉の力を全て解放してくるだろう。相当な威力の呪術が襲ってくるはずだ。その全てを吾輩は受け止めるから……」
「う、受け止めるから……。何です?」
「もし吾輩が呪力に負けて正気を失ったら、その弓矢で吾輩を殺せ」
「こっ、こっ、殺!? そんな無理です!」
「安心したまえ。きみのちゃちな攻撃を弾き返さないように配慮はする。きみのしょうもない一撃でちゃんと死ねるようにするから。きみの頼りないその腕でも」
「そういう意味で無理だって言ってるんじゃないんですけど!」
アミがきゃーきゃー喚いているが、オージアスには一刻の猶予もなかった。男が持っているその水晶が危険な代物であり、使い方によってはこの一帯の森全てを破壊するだけの威力を秘めているのは確実だった。
安全に処理する方法はない。オージアスが身を挺して抑え込む以外には。
道衣の男が黒い炎に呑まれつつも、オージアスたちに向かって歩き出した。その眼は血走っており、どす黒い攻撃の意思がまざまざと感じられた。
「そうだ……。単純にきたまえ。力任せに襲いにきたまえ。それでいいぞ。きみのすべきことはそれだ。胸を借りるつもりでこい。ちっぽけなきみを全て受け止めてやろう。きみの矮小な能力など、吾輩の前ではどうということはない」
小人たちが普通の人間を巨人だと表現して懼れるように。道衣の男にとってオージアスはあまりに巨大な存在のはずだった。それが分からない男ではあるまい。
それでも向かってくるのは自棄になっているからだ。どれだけ立派な剣を振り翳そうとも、対峙する者にとってそれは小さな針にしか感じられないかもしれない。実力差とはそういうものだ。
「後は頼んだ」
アミにそう言い置き、オージアスは前に進み出た。黒い炎を帯びた男が大声を張り上げながら呪力を解放した。オージアスは依然内にくすぶる呪力ともども、その処理に全能力を費やした。アミの不安げな顔が徐々に決意に染まるのを見て、それでいいと小さく頷いた。




