ドラン(9)
ラシェルは大砲を撃ち放った。衝撃で大地が震動する。強力な砲撃ではあったが、邪竜はあまりに巨大だった。
右翼の中央部分に見事命中したが、まるでダメージがなかった。比較的脆そうな翼部分にも傷一つつかないとは。ラシェルは砲手としての自信が粉々に砕け散るのを自覚した。
「何が『一矢報いる』だ!」
ダンがラシェルの首根っこを摑まえて走る。しかし邪竜は既に一行に狙いを定めて暴風を巻き起こしながら滑空を始めていた。ラシェルは息を呑む。数秒後にはあれに喰われるか――喰われずに済んだとしてもあの巨体に押し潰されて死ぬ。もはや一巻の終わりだと眼を瞑った。
その瞬間、瞼の裏に閃光が走った。頭の奥にまで刺激が及ぶ強い光。もし目を閉じていなかったら瞳を潰されていたかもしれない、それほど強力な白い光だった。
ダンがよろけて、ラシェルを地面に放り出した。ラシェルは受け身を取り素早く立ち上がったが、機敏に動いたのは今何が起こったのか一刻も早く確認したいからだった。
邪竜が中空で静止している。翼も停まっているのに空中に留まっている。
一瞬、邪竜の魔力がそうさせているのかと思ったが、そうではない。
邪竜の前に敢然と立つ一人の少女の姿があった。
天上から降り注ぐ眩い光を一身に浴び、高々と長剣を掲げるその姿には見覚えがあった。
「デボラさん……?」
ラシェルは信じられなかった。夢ではないかと思った。しかしこれは現実だった。ダンも背後でマジかよ、とぼやいている。
「お、お嬢様!?」
オルウェルが悲鳴にも似た声を上げる。いつの間にかあの女呼ばわりからお嬢様呼びに戻っていたが、当人に自覚はないのだろう。なにせ今のデボラは姫という呼称に見合った神々しさを纏っていた。ついそう呼んでしまうのも無理はない。
デボラは振り返り、にやりと笑んでみせた。傲慢で大胆なままの彼女がそこにいた。
「言ったでしょ、天啓が下りたって……。きっと前代の勇者様のお導きね」
デボラがかつてボロボロだったその聖剣を振るう。聖なる力によってか、空中で動きを止めていた邪竜が悶えながら地面に落下した。そしてデボラが放つ白い光を受けて悶え苦しむ。
「邪竜……。数か月前、天啓によってあんたの復活を予知できたのは幸いだったわ。もし最強無敵の勇者であるワタシがこの場に居合わせなかったら、この国は滅びていてもおかしくなかった」
邪竜が咆哮を上げる。それだけで気弱な人間を卒倒させるだけの迫力があったが、デボラは全く動じていなかった。
「吠えても無駄よ! 今からあんたはこのワタシによって滅ぼされるの! 前代の勇者様が果たせなかった使命を、今、ワタシが達成する!」
デボラが聖剣を振り下ろす。その刃は邪竜に届くことはなかったが、光の奔流が噴き出し、邪竜の躰を二つに分けた。光は邪竜の肉体を溶かし、消し炭としながらも、周囲にいた魔物たちまでも巻き込んでその威力を見せ付けた。
デボラのその一振りによって、邪竜の躰は両断され、やがて光に呑まれて小さくなり、消滅した。魔物どもはこぞって退散し、カルド草原の奥底に逃げ込もうとしたが、ほとんどが執拗に追跡する光条の攻撃によって討ち滅ぼされた。
「お、お嬢様……」
オルウェルが震えている。満足げに大地と砦跡を見渡すデボラによろよろと近づく。
「ほ、本当にお嬢様なのですか? まさか勇者が再来するとは……」
デボラが振り返る。そしてふふっと軽やかに笑った。
「オルウェル、どうしたのよ。この前はワタシのことをアマ呼ばわりしてくせにさ」
「もっ、申し訳ございません!」
オルウェルは地に手をついた。そして深々と頭を下げる。
「私の不明をお許しください! よもやお嬢様の言葉が真実だとは思っておりませんでした! 真なる天啓を受けながら孤独な旅に出立なされたお嬢様の唯一の伴だったというのに! 使命を成就する寸前であのような裏切りを!」
「はあ? ちょ、ちょっと、そんなに謝らなくってもいいって」
デボラが気恥ずかしそうに頬をかいた。
「そりゃあ、天啓を受けたっていうのは本当よ? ある日突然、枕元に先代の勇者様が立ってさ、邪竜が復活するだの、聖剣があなたの家に安置されてるだの、色々と言ってたけど。ワタシも半信半疑だったしさ」
「えっ?」
デボラは自らが持つ聖剣を見下ろす。
「ワタシも半信半疑だったって言ってるの! 二度も言わせないで。つまりさ、ワタシは家出するきっかけが欲しかっただけなんだよね。お父様ったらろくでもない縁談を持ち込んできてはワタシから剣を取り上げようと必死で、鬱陶しかったし……。もうこんな家いいやってね」
「し、しかし、お嬢様」
「さっさと立ちなさい、オルウェル。それより、あんたはワタシのことを許してくれるの?」
「えっ?」
「幾ら何でも横暴が過ぎたわ。これからもワタシに色々教えてくれる?」
オルウェルはデボラの優しい言葉に信じられないようだった。大きく頷く。
「も、もちろんでございます! このような私で良ければ……」
ラシェルとダンは顔を見合わせた。何が何やら分からないが、ドランの地に伝わる伝説の勇者の再来がデボラお嬢さんだったということらしい。ラシェルは懐から契約書の写しを取り出した。
「あの、ダンさん、これって確か、恩人案件でしたよね?」
「そうだったのか?」
「確か、そうですよ。ということは担当者はあのエルさんです」
「それがどうした?」
ラシェルは肩を竦めた。
「あのエルさんが、邪竜なんて危険な魔物がいる地にD級英雄二人を向かわせますか?」
「何が言いたいんだよ」
「エルさんは、デボラさんが勇者の再来であることを知っていたのではないかな、と」
社長秘書のエルの仕事ぶりは迅速かつ正確。彼女が携わった依頼は、これまで成功率10割を誇るという。つまり彼女は失敗したことがないのだ。そんな彼女が、邪竜の存在を知らないということがあるだろうか。
「エルを買い被り過ぎじゃないか。どうして現地の人間も知らなかった勇者の再来を、あの女が知っているんだ?」
「手段は知りませんけど、その可能性が高いと思います」
「そう思う根拠はあるのか?」
「契約期間ですよ」
「あん?」
「契約期間が、実質無期限でしたでしょう。こんなこと、有り得ますか。デボラさんの気が済むまでお付き合いするように、なんて、まともな契約内容とは言えません」
「そりゃあ……」
ダンは黙り込んだ。ラシェルは今度こそこの依頼が完了したことに安堵した。心残りなくこの地を去ることができる。
デボラはちらりとラシェルたちを見た。そして歩み寄ってくる。
「英雄さんたちも、迷惑をかけたわね」
確かな強さを手に入れて、デボラは器が大きくなったのか、ラシェルたちにまで優しげな笑みを向けてくる。
「ええ。仕事ですから」
ラシェルの返答にデボラは口を尖らせた。
「そっけないわね。ま、いいわ。一応、礼を言っとく。あんたたちがいなかったら覚醒前に死んでただろうからね」
「自覚があったんですか?」
ラシェルの質問にデボラは肩を竦める。
「当たり前じゃない。もし本気で魔物に殺されないと思ってたなら、ただのバカじゃないの。早いところ天啓が本当なのかどうか確かめたかったから、ちょっと無茶してただけよ」
ちょっとどころではないような気もするが。ラシェルが横目でダンの表情を確認すると、がっくりと肩を落として呆れていた。
それとは対照的に、デボラの笑顔は晴れやかだった。
「さあ、オルウェル、行くわよ」
オルウェルはきょとんとしていた。
「え? どこにですか」
「カルド草原の魔物を根絶やしにするのよ! 今のワタシなら簡単なことだわ!」
「それはそうでしょうが……」
「カルド草原の肥沃な大地を切り開けば、我がドラン国はもっともっと豊かになる! そうでしょ!!」
デボラはカルド草原へと走り出した。それに慌ててオルウェルが付いて行く。ラシェルはそれを見送った。
「行かせていいのか。あのお嬢さん、その肥沃な大地とやらを荒野に変えるかもしれんぞ。それだけの力だったぜ」
ダンの言葉にラシェルは頷いた。
「まあ、それはドラン国の問題ですからね。私たちは帰りましょう」
この国があの奔放なお嬢様に振り回される未来が見えるが、もう関係ない。オルウェルに大いに同情しつつも、ラシェルたちは越境門へと向かい、帰還の途に就いた。