ドラン(8)
カルド草原を突っ切り、砦に帰還した。砦の兵士たちはラシェルたちが無事であることに驚いていた。
「最近、魔物どもの動きが活発になってたんだ。てっきりお前たちもやられたかと」
砦は陰惨としていた。魔物との交戦で戦死者が出たらしく、砦の一部も大きく欠け、即席で補修した跡が見えていた。
「草原の魔物が活発になっているのは、私たちが分け入ったからですかね?」
ラシェルが疑問を口にする。ダンは肩を竦めて分からないと答えたが、オルウェルがすぐさま否定した。
「いいえ。カルド草原には定期的に討伐部隊が送り込まれているはずです。そのたびに魔物が増えるという話は聞いたことがありませんね」
「では、魔物が増えているのは別に原因があるってことですね」
ラシェルは言いつつも、もうこの国に用はなかった。あとは立ち去るだけ。それなのに質問をしたのは、不必要にこの世界の秩序を乱してしまったかどうか気になったからだ。もしこちらに責任があるなら、魔物をある程度鎮圧しておく必要があるだろう。
砦の中は肌寒く、野宿するのと大差なかった。負傷した兵士たちは寡黙でひたすら憂鬱そうにしていたが、怪我をしていない健常な兵士たちはやたら苛立っていた。
「昨晩から、三度襲撃がある。そのたびに兵士が十数人殺され、負傷者はその10倍だ。兵士の増員を要請しているが、まだ到着していない」
兵士長と名乗る男性がラシェルたちに説明する。
「相当な手練れとお見受けする。援軍が到着するまでの間、その力を貸してもらえないだろうか?」
思わぬ言葉だった。ラシェルとダンは顔を見合わせ、はたしてそれが許されることなのかどうか考えた。
「ちょっと待っててください。私は協力してもいいと思っていますが……。ダンさんは?」
「俺も、別に構わんぜ」
「兵士長さん。本社に確認を取ってきますが、恐らく許可が出るでしょう。しばらくの間、この砦に加勢します」
それを聞いた兵士長は満面の笑みで喜んだ。
「それはありがたい! 魔物の襲撃があったら頼んだぞ!」
援軍は三日後を目安に現れるらしい。それまでは魔物と戯れることになる。
ラシェルはそもそも、攻城戦を得意とする人間だった。その大砲の圧倒的な破壊力と制圧力で敵軍の城の設備を薙ぎ倒し、前線の兵士を強力にアシストする。敵軍の将は、相手方の陣営にラシェルがいることを確認すると、自ら城を放棄して逃げるか攻めるかの選択を迫られることになった。
攻城戦とは違うものの、防衛戦も得意としており、強固な砦や大砲の盾となってくれる兵士がいることでその能力を遺憾なく発揮できる。砦の一角を貸してもらって適当に大砲を撃っていれば、魔物くらい撃退できる。ラシェルは軽くそう考えていた。
砦に寝泊まりするようになって2日目。オルウェルはなぜかまだ砦にとどまっていた。内地に帰還するよう言っても、彼はドラン国の民としてこの砦の防衛に助力すると言ってきかなかった。確かにこの砦を突破されると、少々厄介なことになる。だがオルウェルが躰を張る必要はないはずだ。
「デボラさんが心配なんですか」
ラシェルが訊ねると、オルウェルはすぐさま否定した。
「いえ。あの女がどうなろうと知ったことではありません。私が砦にとどまるのは、純粋に、愛国精神からです」
深く問い詰めるようなことでもない。ラシェルは一応、その答えで納得しておいた。
大規模な魔物の襲撃があったのは、夜明け前のことだった。
見張り台から飛び降り、中庭で雑魚寝をしていたラシェルに大声を張り上げたのはダンだった。ラシェルは寝ぼけ眼をこすりながらダンを見たが、彼の表情が強張っているのを確認すると、すっと眠気が消えていった。
「魔物が来たんですね?」
「とんでもねえ数だぞ……。数えきれない」
「どうやら私の出番のようですね」
事前に大砲は設置していた。巡視路を駆け上がり、更にその上の射手台に到着した。砲口をぐるりと回転させながら、砦に近付く魔物の大群を目の当たりにした。
思わずラシェルは腰を浮かせた。カルド草原はもはや荒野と化していた。魔物どもの進軍によって草花は剥げ、削り取られていた。その夥しい数には絶句するしかない。見渡す限りの魔物の影。いったいどこにこれだけの数の魔物がいたのか。
10万。20万。もっといるかもしれない。とにかく地平線の向こうまでびっしりと魔物が空間を埋めていた。
「ダンさん! 本社に増援を」
ラシェルは思わず口走っていた。そして気付く。増援なんてありえない。これは英雄派遣会社への正式な依頼などではなく、ラシェルが気紛れで戦っているに過ぎない。もし勝てないなら逃げ出すしかない。兵士たちを見捨てて。
ラシェルは駄目元で一撃、大砲を撃った。砲弾はとある地点で爆発し、数百体の魔物を一瞬で葬り去ったが、全く無意味だったと言ってもいい。死した魔物の上を、また別の魔物が通行する。何百発撃っても効果がないだろう。
「砦を放棄して逃げるしかありません」
ラシェルは固定していた大砲を取り外す準備をしながら言った。近くに立っていたダンがかぶりを振る。
「逃げるって、どこへ? 俺たちは本社に帰還すればそれで済むが、この魔物どもは人里まで繰り出すぞ」
「この国の人たちに任せるほかありません」
「この国、滅ぶぞ」
「改めて、英雄派遣会社に依頼を出してもらうしかないでしょうね。少なくともD級英雄の私とあなたじゃ、どうしようもない」
「ちっ、そりゃそうだがよ」
そのとき、突然、耳鳴りがした。ラシェルが不審に思って周囲を見渡すと、夜明けの空に巨大な怪鳥が群れとなって現れていた。
漆黒の翼に肥大した腹。その腹に亀裂が走り、褐色の液体が漏れ出てきた。空中で散布されたそれは、砦に落下する直前、発火した。
それは言うなれば、爆撃だった。怪鳥は次から次へと飛来し、大量の火を落としていく。砦はあっという間に炎に包まれた。兵士たちは逃げ惑い、消火作業も到底間に合わなかった。
地上を進軍してきた魔物どもが砦の外壁にとり付き、必死に抵抗する兵士たちに喰らいつく。
ラシェルはここにきてあまりに無力だった。多勢に無勢。逃げるしかない。黒煙に包まれた砦にはもはや安全な場所などなく、敢えてこの地にとどまって戦い続ける理由も皆無だった。
「――行きましょう、ダンさん。せめて敗走する部隊を守ってあげないと」
「だな……」
二人は砦の内部に侵入した魔物を駆逐しつつも退却を開始した。途中、オルウェルと合流した。彼は酷く動揺しており、ダンが支えてやらないとまっすぐ歩くことさえできなかった。
「どうしてこんなことに……」
「今は逃げましょう、オルウェルさん」
炎上する砦は瞬く間に陥落した。ラシェルは炎を乗り越えて人肉を求める魔物の群れの向こうに、不穏な影を見た。そして眼を見開く。
「あれは……」
ラシェルはそれきり何も言えなかった。ダンも同様。オルウェルは躰が震えていた。
「じ、邪竜……! そんな……! 実在するのか……」
夜明け前の暗がりに突如として湧きあがったその巨大な黒い影は、世界を覆い尽くさんばかりだった。砦を一呑みできそうなほど大きな口と、捻じ曲がった牙。峻険な山岳を思わせる鱗からは瘴気が噴き出し、同時に魔物どもがその腹部から無限に湧き出ている。
魔物の母であり、王。それこそがドランの地に封印されし邪竜。
邪竜が咆哮を上げた。夜明けが近いはずの空が黒く塗りつぶされたままだった。
逃げ惑う兵士たちは、一様に皆、絶望し、足を止めた。どこに逃げても無意味であることを悟ったのだ。邪竜がその気になれば、人間などあっという間に踏み潰してしまえる。
さすがにラシェルとダンはここで足を止めてむざむざ殺されるような人間ではなかった。しかしオルウェルはぶるぶる震え、鼻水を垂らしながら許しを乞うている。
「どうか、どうか、お助けください、こんな、こんな、こんなことがあっていいのか……」
今にも発狂しそうなオルウェルをダンが抱えた。そして走り出す。ラシェルもそれに続いた。
追撃してくる魔物を振り払いつつも、常に気にしているのは、魔物どもの親玉邪竜だった。ラシェルは振り返る。邪竜の黒一色の瞳が、ラシェルたちを見ているような気がした。
それは気のせいではなかった。邪竜は飛翔した。たったそれだけで嵐のような暴風が襲いかかり、転びそうになった。
木々は薙ぎ倒され、岩は転がり、人が紙切れのように吹き飛ばされた。
空を覆う邪竜の翼。その邪悪な鎌首はラシェルたちの命をつけ狙っていた。
「終わりだ、もう終わりなんだ」
オルウェルが呟いている。ラシェルは悔しいことに、同意しかけている自分がいることに気付いた。大砲を設置し、ダンに告げる。
「一矢報います。ダンさん、オルウェルさんをお願いします」
「お、おいおい、一矢報いるって……。死ぬ気かよ」
「二人とも死ぬわけにはいかないでしょう? 私がなんとかあの邪竜の注意を引きつけますから」
「お前だけに任せておけるかよ……。ったく、自分勝手な女だ」
ダンはぼやきつつも、ラシェルに笑いかけた。諦念に染まった笑みだった。邪竜が空中で姿勢を変え、そして、地上に這いつくばる二人の英雄に猛然と襲いかかってきた。




