ドラン(7)
魔物の追撃をかわすのはさして難しくなかった。ただ、魔物どもに奪われた大砲を取り戻すのに相当手間取った。何とか取り戻したときには、あのピカピカに磨き上げていた砲身が、魔物どもの糞尿で汚されていた。奴らなりの嫌がらせだろうか。だとしたら効果覿面。ラシェルはげんなりした。
魔物どもの動きが活発になっている。あの魔物の群れを撒いた後も、いたるところから魔物が出没し、ラシェルを襲ってきた。大砲を汚された恨みがあったので容赦なく迎撃、殲滅した。砲弾を補給するのも忘れなかった。
草原のいたるところで火事を起こしたが、この魔境において火はあまり脅威とならないらしい。湿気た風がすぐに熱を奪い去ってしまう。だからこそ思う存分大砲を撃てるというのもあるが、あまり多用すると地形を変えてしまう可能性があった。所詮、自分はせいぜい十数日しかこの世界には滞在しない人間だ。置き土産は最小限にしておいたほうがいいだろう。
「生きてるみたいだな」
デボラたちと合流を果たしたのは、翌日のことだった。移動するとすぐに魔物どもに見つかり、さすがに敵を引き連れて合流するわけにはいかなかったので、かなり手間取った。そんな苦労を見透かしたのか、ダンはやたら同情的な眼差しだった。
「ええ、何とか。そちらは無事ですか」
「まあ、一応、全員無傷だが」
ダンが肩を竦める。彼が指し示した先で、デボラとオルウェルが言い合いをしていた。
「お嬢様! 草原の様子が尋常ではありません。大事をとって引き上げるべきです」
オルウェルの口調がいつになく厳しいものだった。しかしそれに呼応するかのように、デボラの声は更に激しかった。
「ワタシが行くと言ったら行く! それがこの旅のルールよ! こんな簡単なことも理解できないなんて、あんた、馬鹿なの!? 馬鹿!?」
デボラは不機嫌だった。ダンに守られながらの逃避行が気に食わなかったらしい。ラシェルは呆れたが、そのとき、近くの草むらから魔物が出現した。不愉快な鳴き声を上げながら突進してくる。
それをダンが両断した。大した敵ではない。しかし、数が問題だった。
「こりゃあ、休む暇がねえぜ。睡眠を取るどころじゃない、食事をする暇もない」
ダンが魔物の死体を蹴飛ばし、草叢の中へ追いやりながら言った。ラシェルも同感だった。
「体力がもちませんね。思っていた以上に苛酷な場所です」
ここでダンがふふふと笑った。
「俺たち、弱音ばかり吐いてないか。なんつーかよ、ちょっと楽しくなってきたぜ」
「楽しく? 魔物に追われることが? それとも、デボラさんのわがままに振り回されることが?」
「どっちが、とは言わんさ。ただ、この会社に入らなかったら、きっとこんな体験はできなかった。それを思うと感慨深いな」
「まあ、確かに、あんな少女にあれこれ指図を受けるようなことは、故郷ではあり得ませんでしたね」
「おっ。ラシェル、故郷ではお姫様だったとか?」
「まさか。火薬庫で寝泊まりしていたような根っからの軍人ですよ、私は」
火薬庫で寝泊まりするような軍人って何だよ。とダンがぼやいていたが、ラシェルは無視した。デボラとオルウェルの言い合いがまだ続いている。
「だから、お嬢様――」
「しつこいわねっ! ワタシの言う通りにしなさい!」
デボラが身振り手振りで家庭教師を屈服させようと躍起になっている。しかしオルウェルは退こうとしなかった。
「お嬢様、私はお嬢様の無事を心より願っているのです! 勇者に拘泥するより、まずは自らの安全を確保されますよう!」
「分かぁってないわねっ! いい加減にしなさいよ! この無能! 無能は無能らしくワタシについてくればいいのよ!」
デボラがオルウェルを突き飛ばした。そして地面を蹴り、泥が跳ねる。泥がオルウェルの顔にかかった。
もしかすると、デボラはそれを意図したわけではないのかもしれない。たまたま蹴った泥がオルウェルにかかっただけかも。しかし泥にまみれたオルウェルを、デボラは嘲笑した。それは事実だった。
「お似合いね、オルウェル! 泥を拭うついでに、その穢れた性根を磨き直してなさい!」
酷い言葉だ。ラシェルは諌めようと思ったが、その前に、倒れたオルウェルに手を差し出した。
「大丈夫ですか、オルウェルさん」
オルウェルはラシェルのほうを見なかった。真っ直ぐデボラを見据えている。そして呟いた。
「このアマ……」
ラシェルは聞いてはいけないことを聞いてしまった気がした。
地獄耳のデボラが睨みつけてきた。地面に尻餅をついたままのオルウェルに詰め寄る。
「ちょ、ちょっと! 今! 聞いたわよ! 何よその言葉遣いは! 誰がアマですって!?」
オルウェルは一瞬怯んだのか、口を閉ざした。しかし吹っ切れたように立ち上がるとデボラを突き飛ばした。
思わぬ反撃に、デボラは無防備だったらしく、地面にひっくり返ってしまった。そしてオルウェルを見上げる。その表情はまさに唖然といった感じだった。
「もうたくさんだ! 付き合ってられるか!」
オルウェルが叫んだ。これにはラシェルもダンも驚いてしまった。咄嗟に何も言えない。
デボラにとっても予想外の出来事らしく、しばらく口をぱくぱく開閉させているだけだった。
「そんなに死にたいなら勝手に死ね! こっちがわざわざ英雄を雇って護衛させてるのに! 阿呆なことばかり抜かしやがって!」
「ちょ、ちょっとオルウェル……、言葉が過ぎるんじゃないの……」
「何が過ぎるものか! 私が本当にお前みたいな小娘に忠誠を誓っていたとでも思っていたのか! くだらん」
「どっ、どどどどういうことよ!?」
「カネだよ! 私はご主人様からカネを貰ってたんだ! お前を守るように頼まれていたんだ! でなかったら誰がお前みたいな小娘と一緒に旅などするものか」
「な、なな、なななな……」
デボラが震えている。オルウェルは持っていた聖剣を投げ棄てた。
「こんなガラクタを聖剣などと! 頭がおかしいんじゃないか? 何が勇者だ! 何が天啓だ! 何が魔の王だ! お伽噺を本気にするのはガキの頃までだろ! お前は今年何歳になった! お前が阿呆だと思われるたびに、教師だった私の顔にも泥を塗ることになるんだ!」
そう言ってオルウェルは自らの顔にかかっていた泥を拭った。不敵に笑む。
「だが、そんな馬鹿馬鹿しい茶番は終わりだ。私はもうカネなどいらん。既に前金は貰っているし――ご主人様も半ばお前の命を諦めていたしな。本当、恵まれた環境に感謝すれば良かったものを。とんだ馬鹿姫様だ」
「お、オルウェ……」
「気安く呼ぶな! お前に名前を呼ばれるたびに反吐が出る思いだった! くたばっちまえ!」
オルウェルはデボラが持っていた剣を奪い返した。自らの剣帯に収めると、満足げに歩み去った。
ラシェルが慌てて追いかける。
「お、オルウェルさん、どこに行かれるんです?」
「帰ります。英雄様、ご苦労をおかけしました」
「デボラさんを本気で置いていくおつもりですか」
「はい。死なねば治りませんでしょう、あの女の性根は」
「本気でおっしゃっています?」
オルウェルはラシェルを睨みつけた。
「本気かって? 本気ですよ! 無事にあの小娘を家まで送り届ければ、ご主人様がカネをたんまりくれるっていうから、下げたくもない頭を下げ続けて来たんです! もう少し可愛げがあれば、肩入れしないでもないが、あの態度!」
ここでオルウェルは俯いた。
「あの女をこんな風にしたのは、教師であった私の責任でもある。そう思えばこそ、今まで付き合っていられた。しかしもう限界だ」
「オルウェルさん……」
「英雄様。私は依頼を取り消します。成功報酬は満額お支払いします。どうぞご帰還なさってください」
「え……?」
「あの女を守る必要は、もうありません。もちろんあの女を人里まで送り届ける自由をあなたがたから奪う権利は、私にはありませんが」
「できれば守ってあげて欲しい、とおっしゃっているのですか」
「まさか。死んで欲しい、と本気で思っているわけではないですが、死んでも涙を流さない自信はありますね」
オルウェルはそれきり喋らなくなった。ラシェルとダンは顔を見合わせた。思わぬ事態だった。依頼人であるオルウェルが退くと決めたのだから、もはやこの地に留まる必要はない。
思えば、ラシェルはずっと考え違いをしていた。この旅はデボラが退くと決めるまで終わらないと思い込んでいた。実際は、オルウェルがデボラを見捨てることでも終焉を迎えることになる。
デボラはまだぽかんとしていた。事態をまだ飲み込めていない。
「デボラさん。いいですか」
ラシェルが近づくと、デボラは間の抜けた顔でこちらを見つめてきた。
「私たちはたった今、あなたの護衛の任から解かれました。どうぞ好き勝手に行動なさって構いません。ただ、私も鬼畜ではありませんから、あなたがもし安全な場所まで退避したいと思うなら、一緒に連れて行ってあげます。どうです?」
「そ、そんなの……。私は勇者で」
この期に及んで。ラシェルは叱り飛ばそうかと思ったが、やめた。
「いいですか、デボラさん。これが最後の忠告です。もしあなたが邪竜討伐の旅を続けたいなら一人でやってなさい。それはあなたの自由です。しかしその場合、あなたは確実に死ぬ。それも邪竜どころではない、その辺にうようよいる平凡な魔物に殺されて喰われる」
「そんなこと……」
「本当は分かっているはずですよ。どうです? 私たちと一緒に帰りますか?」
デボラは震えていた。今にも助けを求めてきそうな弱々しい表情だった。
だが、ここにきて、ラシェルは心底感服したのだが、デボラの眼差しに闘志の炎が宿った。そしてラシェルに向かって喚き散らす。
「勝手にすればいいわ! 誰もあんたたちに助けなんて求めてない! 元々一人で魔物を根絶するつもりだったんだから!」
デボラは聖剣を拾い、襤褸布から引っ張り出し、その錆びた刃を天に翳した。
「この聖剣で! 魔を討ち滅ぼす! 天啓が有ったのよ! 天啓!」
ラシェルはふうと溜め息をついた。そして帰路に就いた。
「いいのか?」
ダンが隣を歩きながら言う。ラシェルはもう振り返るつもりはなかった。もはやデボラは亡き者として考えている。
「任務完了です。お疲れ様でした、ダンさん」
「いやいや……マジで置いていくのかよ? ムリヤリ連れて帰るべきだろ」
「あの調子じゃ、遅かれ早かれ魔物に殺されますよ。だって彼女にはもう帰る場所がないんですから、私たちと別れた途端、また一人で魔境に挑んで、死にます」
「しかし……」
「思ってたより早く任務が終わりましたね。どうです、観光でもしていきます?」
「……まあ、そうだな、せいぜいゆっくり歩いて帰ろうぜ。お嬢さんがついてきやすいようにな」
しかしデボラはラシェルたちについてこなかった。それどころか帰路とは逆の方向に歩いていってしまったようだ。自棄になっているのか、それとも本気で自分は魔物に勝てると思っているのか。
道中、オルウェルの様子を窺っていたが、彼は平気そうだった。しきりにラシェルたちに謝ってきたが、デボラの安否にはもはや関心がないようだった。
「彼女が幼い頃から面倒をみてこられてたんですよね」
「幼い頃は可愛かったですよ。今では憎らしいですけどね」
オルウェルはあっさりと言った。恐らく本音だろう。ラシェルはもう彼に訊ねなかった。




