ドラン(5)
夜明けと共に、魔物の軍勢は潮が引くように消えていった。強力な砲弾をどれだけ撃ち込んでも、ここカルド草原の背の高い植物を根絶やしにすることはかなわず、依然無数の死角がこの魔境には残されていた。どこに魔物が潜んでいるのか、分かったものではない。
「……ラシェル、腹減ったよ、俺は」
ダンが呟く。彼は斧を地面に突き立てると、どっかと地面に座り込んだ。ラシェルは炭まみれの顔を拭い、熱を帯びた大砲の横に尻餅をついた。膝に力が入らなかった。
「肉ならその辺にたくさん落ちていますよ。熱調理もしておきましたから」
「俺は菜食主義者なんだよ。たった今からそうなった」
「植物ならもっとたくさん落ちてますよ」
「魔物の血をソースに食えってか? お前、食糧はどうした」
ラシェルは後ろを指差した。そこには仁王立ちするデボラと、それに付き従うオルウェルがいた。
「お疲れ様、英雄さんたち」
皮肉たっぷりにデボラは言う。
「足手纏いがいなかったんだから、さぞ有利に戦いを進められたんでしょうねえ? ラシェル、ダン」
ラシェルは頷いた。ここで弱音を吐くわけにはいかない。ダンもそれは同感のようで、余裕たっぷりに振る舞っていた。
「お嬢さん、まだ旅を続けるつもりか? どうもこの草原は、俺たちの旅路を歓迎していないようだな。命を落とすことになるぜ」
「危険は承知の上よ」
デボラは即答した。しかし彼女は本当に危険を理解しているわけではない。死んでから悟っても遅い。
「そうは言っても、死んじまったら何にもならないんだ。俺たちも、あんたが死んじまったら任務失敗。それ相応の処分が待っている。だが、別にそれで人生が終わるってわけじゃねえ。幾らでもやり直しがきく。ただ、お嬢さんはそうはいかない」
「不愉快ね。ワタシが死ぬ前提で話をするのはやめてくれる?」
「しかし、この中で一番死ぬ確率が高いのは、お嬢さんだ。一番向こう見ずで、自分の実力を過信しているからな」
デボラは鼻で笑った。
「過信じゃないわ。実力に応じた自信ってやつよ」
徹底的な庇護下に置かれた深窓の令嬢が外の世界に幻想を抱くように、デボラは武術の鍛錬に明け暮れている内に、自らの能力に幻想を抱くようになってしまったのか。ダンが肩を竦めた。
「おい、ラシェル、ここはお嬢さんに実際に戦ってもらうのが一番手っ取り早いんじゃないのか?」
「何を……」
ラシェルは言い返そうとしたが、実のところ、彼女もそうするしかないのではないかと思い始めていた。
「そうだろ? ここはお嬢さんの意向に沿って行動してみようじゃないか」
ダンの言葉にデボラは大きく頷いていた。ラシェルには不安しかなかったが、またあの魔物の大群と戦うより、デボラと魔物の一対一の戦いを近くで見守っているほうが、よほど危険は少ないかもしれない。
ただ、問題は、デボラがその戦いで満足するかどうか未知数だということだ。実際に魔物と戦って、勝つか負けるか分からないが、それでもなお旅を続けると彼女が決意した場合、もはや打つ手はなくなる。
ラシェルは黙り込んだ。それを見たデボラが大声を張り上げる。
「やっと凡人のあんたたちにも理解できたみたいね。最初からそうしていれば良かったのよ。時間の無駄だったってわけ! さあ、ワタシの魔物討伐の旅がいよいよ始まるのよ。ついてきなさい!」
デボラが意気軒昂と歩き出す。ラシェルは大砲を背負い、ダンが斧を引き摺り、それについて行こうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
オルウェルが二人の英雄に詰め寄る。
「本気なんですか! お嬢様を魔物と戦わせるなんて」
「それしかないだろ」
ダンがぶっきらぼうに答える。オルウェルの顔色は優れなかった。今にも卒倒しそうなほど、血の気が失せている。
「もし、怪我でもなされたら……」
「過保護だなあ。大丈夫、注意はするよ」
ダンは言った。ラシェルはしかし、絶対に無事だと保証できないことに気付いていた。
「オルウェルさん、これはデボラさんが旅に出ると言い始めたそのときから、避けられない事態だったのかもしれません。考えてみれば、どれほど私たちが彼女を護衛しても、彼女がこの旅で求めていたものが得られるはずがなかったのです」
「お嬢様がこの旅で求めていたもの……?」
「それは証明です。デボラさんは本当に勇者なのか。それとも口先だけの蛮勇に過ぎないのか。彼女は自分が勇者であることを信じていますが、それが自分の妄想に過ぎない可能性も、彼女自身気付いている……」
ラシェルの言葉にオルウェルはかぶりを振る。
「まさか。お嬢様は本気で自分を勇者だと思っています」
「どうでしょう。夜な夜な馴染みの勇者伝説を自分に語り聞かせることで、何とか虚勢を保っている。そのように私には見えますが……。それはともかくとして」
ラシェルは一人先に行くデボラの後姿を眺める。
「彼女は実戦を潜り抜けることで自らの勇者の資質が開花すると信じているように見えます。恐らく彼女の望むようなことにはならないでしょうが、やはりこれは必要なことだったのかもしれません」
「そんな……。危険過ぎます」
「危険は危険ですよ。できればデボラさんには、実際の魔物と対峙した瞬間に悟ってもらいたかったですがね。自分は特別な人間などではない、というありきたりな事実を」
オルウェルは黙り込んだ。そうしてから助けを求めるようにダンを見たが、彼は欠伸を噛み殺していた。
「そうそう、あの娘に武術を仕込んだのはお前さんだろ? もうちょっと自信をもったらどうだい」
「しかし……。魔物と戦う術などろくに教えていません。私が教えたのは基本的な剣術です」
「怪我くらいは覚悟してるだろうさ、あのお嬢さんもよ。いいから任せておけよ」
「……」
オルウェルは返事をしなかった。承服しかねるという顔だった。今回の任務の依頼人は、デボラではない。オルウェルだ。オルウェルが駄目だと言ったら、ラシェルたちはそれに従う必要があった。
「オルウェル! 喉が渇いたわ! さっさと持ってきて!」
デボラが遠くで喚いている。オルウェルがその声に反応したが、いつもよりも鈍かった。まるで今まで微睡んでいたかのように、デボラのほうをゆっくりと見やる。
それからびくりと躰を震わせ、慌ててデボラのほうへ走って行った。ダンが呆れた声を出す。
「しかし、本当に教師と生徒って間柄か、あれ。お嬢様と召使じゃねえか」
「デボラさんに一番欠けているのは、他人を尊重する心かもしれません。しつけが不十分だったんですね」
「根は悪くない、とか言ってたが、お前はどう思うよ」
ラシェルには咄嗟に何も言えなかった。あの向こう見ずな性格は、ひょっとすると稀代の英雄に必要不可欠なものかもしれない。慎重さだとか、謙虚さというものが欠落している。それはそれで戦士の資質と言えるかもしれない。
「……根は悪くない、というのは、褒め言葉ではないですよね」
「ああん? そうか?」
「根は悪くないけど、どこか目に付く別の場所には悪いものがある。そう言っているようなものですからね」
「そうかな」
「そうですよ。思うに、デボラさんに必要なのは教育ですね」
「それは、確かに」
魔物の気配が今朝は希薄だった。ついさっきまで死闘を演じていたはずの草原には静かな風が流れ草花を撫でている。
恐らく、じきにまた戦いが始まる。この静けさは最後の猶予なのだ。退くなら今しかないという。しかしその事実を最も噛み締めるべきデボラは、今喜んで戦いに赴こうとしている。
「――ダンさん、やはりあなたの言う通り、増援は必要ありませんね。ちょっと不思議なんですけど、私、デボラさんがここで死ぬとは思えません」
「おっ? どうしたんだ。本気であのガキが勇者とやらだとでも?」
「いえ。戦士の勘ですよ」
ラシェルの言葉にダンは首を傾げた。二人はデボラたちに追いつくべく走り出した。まるで合流するのを待っていたかのように、デボラの前に一体の魔物が現れた。