四幕・月光の暗殺者〈後編〉
その夜も月影は睫毛の長い二重瞼で京の悪意を嗅ぐ。
すると、いつもより早く悪意の匂いを嗅ぎ分けた。
素早く屋根の上を駆けて行き、屋根瓦が一枚外れる。
(いたな……)
勢いのまま不逞浪士達に声をかけようとすると、その男達の奥の闇から黄色い忍装束の人物が瞳に映る男達を倒して行く。
(どういう事……?)
倒れゆく不逞浪士の中に偽物の月影がいるのを本物の月影は発見する。
驚きを隠せないまま数秒経つと不逞浪士達は蜘蛛の子を散らすように四方八方に走り去り、月影は自分と同じ衣装の偽物を追わなくてはいけない状況になった。弱い奴なら放置していても構わないが、偽物は偽物らしからぬ強さを秘めている為に放置は出来ない。
月光の暗殺者となる月影は先を行く偽物を追尾し、鬼ごっこになる
相手も屋根瓦を上手に走る技術があるようで用意に追い付けない。
一匹の雀が二人を追い越し闇夜を飛んで行く。
背後から苦無を投げ、偽物の動きを止めようとする。
二本の苦無が背中に刺さるが、何故か偽物は倒れない。
(刺さる時に木の音がした……おそらく背中に木の板を仕込んでいる)
これはよほどの手練れだと今までの自分の甘さを戒める月影はもう一度苦無を投げる。
それは相手の足元で瓦に当たり外れる。
「うっ!?」
しかし、偽物月影は態勢を崩し屋根瓦を転がった。
瞬時に本物は偽物を捕縛する糸が付いた苦無の糸を握り接近する。
「苦無に糸が? 小癪な手を!」
「偽物に成りすました方が小癪だろう?」
「ぐああっ!」
偽者は脇差しで斬りつけるが回避され肩を苦無で刺され、殺されそうになる。
しかし、覆面が取れた偽物月影である夜談に殺意がある月影に向けられる狂気を秘めた尋常でない殺意がとどめを刺す事を静止させた。いや、静止せざるを得なかった。
(この場所は……)
そう、この場所は紛れもなく徳川幕府の機関の一つである伏見奉行所である。
その裏庭の中の中央に一匹の鬼はいた。
左右に篝火を炊き、京史朗は陣笠を左手で上げ鋭い眼光を光らせ月影を一人で出迎える。
「よう、月影さんよ。今宵は俺の相手をしてくれよ。その俺を狂わせる身体でよぅ」
切れ長の一重瞼が月明かりに照らされる黄色装束の女を威嚇した。
夜談を殺すのを諦めた月影は、この奉行所の外周に奉行所の役人がいる事を知りながらも裏庭に降りる。どうにもこの鬼の悪意が月影の正義に異様な不快感を与えて来るからであった。一匹の雀は夜談の頭にとまったまま鬼と女狐を見据えていた。
※
青白い満月の真下、月光の暗殺者と鬼奉行の二人は話す。
「あの偽者月影も不逞浪士も伏見奉行所の役人よ。驚いたかい?」
「……大阪町奉行の内山彦次郎はこんな夜中までは働いていないぞ」
「大阪は大阪。伏見は伏見よ」
裏庭の周囲には奉行所の役人達がこの二人の私闘を審判するように囲んでいた。
傷を手当てした夜談は鬼と女狐のような二人に頭の雀と共に見入る。
「お前は忍の一族なのか? その身のこなしに信念のある行動……女とは思えんな」
「私は忍の一族でもなければ女でもない。この世を月のように影から支える月影だ」
勢いよく刀と苦無が激突する。
両者はそのまま力押しで互いの獲物から火花を上げ、それは激情を秘める瞳からもぶつかる刃以上の火花を発していた。
「お前の行動理念は何だ? 何故義賊のような活動をする?」
「……私にはこの死んだ命を助けられた恩人がいる。いや、あの人は奴隷のように扱っていい私を同士としてしか思っていなかったけど、私は彼の奴隷で良かった。私はあの光そのものの男の影で十分だった……それなのに幕府は!」
(こいつ、本当に女の力かよ! よほどの恨みが幕府にあるようだな――)
力押しで負けてよろける隙を苦無の三連投げを放たれ陣笠で防いだが、その陣笠の中央を小太刀が貫く。手応えが無いのを感じて目の前を見ると京史朗の姿は無い。
「――横だ!」
「知ってるわよ」
月影の右頬を襲う斬撃を右手に持つ苦無で防ぐが弾き飛ばされ頬を切られた。
同時に地面に刺さる苦無を蹴り上げ真横の鬼の顔面を串刺しにしようとする。
「うらぁ!」
ばさっ! とおもむろに脱いだ羽織がその苦無を防ぎ、見えない視界だが感覚を頼りに更なる一撃を浴びせようと太刀を振るう。
「……ぬううっ!?」
左腹部から痛みが発しているのを見ると、月影の手甲の先から刃が出ているのが見えた。
それが京史朗の腹部を貫いている。
「腰をひねって串刺しは避けたか……対した危機回避反応だな。でも!」
「でもじゃねぇ三下ぁ!」
手甲剣を素手で掴みその刃を引き抜く血まみれの鬼は月影の横っ面を思いっきり殴った。
肩で息をする二人は顔面の血を拭い互いの顔を見つめ合う。
奉行所の役人は京史朗から厳命されている為に手出しはせず、夜談はゆっくりと月影に刺された苦無を持つ。
(誰に罵られようとも私はこの戦いに奉行を勝たせる。この奉行だけは生きていなければならない。彼は光だ。私の光だけでは無く京の光なんだ! 生きてなければこの京の町を闇から救えなくなる……!)
瞳孔が開く夜談はかつて盗賊だった頃の自分を救った鬼奉行の戦いをどんな処分を受けようとも必ず勝たせようとする。
しかし、一匹の女狐は満月を背に飛び上がり奉行屋敷の屋根に立った。
そして月明かりにより鮮明になる素顔を曝け出していた。
左目の泣き黒子が雨に咲く菖蒲の花のような、陰で鮮やかさを誇る色香を漂わせる月影は言う。
「吉田松蔭に助けられし命。ここで失うわけにはいかない」
「……いい覚悟だ。この国を思い命をかけてるなら逃してやる。ただし、その志を失ったら容赦無く斬るぜ」
「私は吉田松蔭の提唱する狂がある。志が変われば松蔭先生にあの世で合わせる顔も無い」
「吉田松蔭……確か外国船に密航したり、幕府の重役を暗殺しようとしたのを捕まってから洗いざらい自分から相手を諭すように今までの罪を吐いた狂人と聞いたが……」
「そう、彼は狂っている。しかし、その狂こそがこの日本を西洋列強から救い新たな日本を生み出すのよ。あの人の見れなかった日本の夜明けは私が影で支えもたらしてやる」
言うと、月影は消えた。
それを追おうとする役人達を京史朗は止める。
それでも動こうとする夜談に対して勢いよく納刀する音で諭す。
これにて満月の下の私闘は幕を閉じた。
両者の存在を魂で感じ合う戦いの先に京の町で生まれるものが何かはわからない。
そうして文久三年が始まったばかりの寒い夜はゆっくりと静けさを取り戻した――。