三幕・亡霊のいざない〈後編〉
月が流れる雲に隠れ、降り出す雨がざわざわと滴り落ちる静かな夜がその音色を草笛に乗せるように佇む中――。
一人の赤い着物を着た女は白い頬被りをしながらそそくさと伏見の墓場を歩いて行く。
すると、数人の男が現れ追跡を始めた。
つられるように女も走り出す。
「逃げた女がいたぞ。囲め」
その声にどこからともなく現れた男達は駆ける速度を上げて墓地に散り、女の逃げる先を塞いだ。
逃げ道を塞がれた頬被りをする女は覚悟を決めたのか、赤い鼻緒のある下駄を脱ぎ捨てる。
勢い良く白い頬被りを脱ぎ捨て、その男は姿を現す。
「とうとう姿を現したか。やはり墓場の関係者だったな。生臭坊主め」
女であるはずの白い頬被りの人物は伏見奉行所奉行・鬼瓦京史朗だった。
十年前に多摩で起きた事件を思い出しながら、またもや坊主共の自身を律しない行いに遭遇し腸が煮えくり返る。その姿に不快感を示す男達は一様に目を細め、匕首を持つ一番手前の白い作務衣を着る男が低い声で言う。
「貴様……誰だ?」
立場が逆転したような状況に焦る男達の顔をありきたりだなと思いつつ、
「知らんか? 知らんなら耳の穴こじ開けて聞きやがれ。俺は伏見奉行所の鬼奉行。鬼瓦京史朗よ」
その言葉に、墓地全体の霊が震え上がるように一陣の風が駆け抜ける。
唇を噛みしめる匕首を持つ男は、
「ま、まさか伏見奉行所の鬼奉行……」
驚く一同に、後ろの坊主が言う。
「相手は一人。ここは俺達がいつもいる寺だ。向こうは夜目が効いても地の利はこっちにある」
「そうだな……関係ねえ! 取り囲んでやっちまえ!」
仲間に励まされた坊主は戦う気が起きるが――。
「囲まれてるのはお前らだぜ」
乞食や宿無し浪人化けていた奉行所の役人達が太刀を抜いて一様に立ち上がり伏見寺の坊主共を牽制する。闇に浮かぶ亡霊のように並ぶ役人達に刺激され、両者の戦いが始まった。
夜談の苦無が閃光のように飛び、二人を倒す。
それに負けじと奉行所の役人も一騎当千の働きをし出す。
勢いに乗る奉行所の面々を見る京史朗は刃を振るいながら住職がいない事に気づく。
「! 野郎、待ちやがれ! ここは頼んだぜお前達!」
『おう!』
墓地の坊主は夜談を中心とした部下に任せ、京史朗は住職を追う。
すると、寺に戻る住職は一人の赤い着物を着た女が寺の屋根から自分を見ているのを見かけた。
女は恐怖の声を上げ屋根を駆け上る。
「椿? ……くそっ」
それを見た京史朗は住職を追いかけて寺の内部に入ると、天井から何かが崩れ去ってきてお堂が砂煙にまみれる。その煙を羽織の袖で防いでいると、赤梅香の香りが鼻を刺激した。同時に、視界の悪いお堂のどこかでこすれた金属の音がする。やがて砂煙が晴れて行き京史朗の背後に住職と瞳を閉じたまま動かない椿がいた。
「このお堂は閉じた。これで赤梅香の原液は貴様の神経を侵食する」
「そうかよ。椿は返してもらうぜ」
赤梅香の匂いで感覚が麻痺し、刀を持つ手に力が入らず落としてしまう。
それを住職に奪われ袈裟斬りに斬られた。
倒れる京史朗はいつの間にか持った煙管で住職の刀を防ぎつつ、
「椿の奴は生きてるんだな?」
「あの茶屋の女か。生かしてあるさ。前の女は赤梅香の耐性があり逃げようとしたから殺した。赤梅香を嗅いで男女が交わると天上世界に行けるのじゃて……」
下衆としか言いようのない住職の顔が京史朗の激情を煽った。
音もなく脇差を引き抜き間合いを詰め住職に突きをかます。
頬と耳を斬られるが、住職は回避して京史朗の右腕に刀を食い込ませる一撃を放つ。
「終わりじゃ。鬼奉行がいなければ京の都は西国諸藩の金によって更に潤うじゃろうて!」
「西国諸藩は関ヶ原で負けた付けを京の町で金を使って人心を奪い西国に有利な祭り事をしようとしてやがる……奴等はまた日本を戦国の世……いや、異人を交えた戦国の世にするつもりだぞ」
「何を言っておる? 死ね」
刀を引いて突きを繰り出そうとする住職は右腕の痛みを笑っている京史朗の狂気に焦り、動きが止まる。
「都合がいい。これで精神を保てるぜ」
底知れぬ鬼の形相になる京史朗に住職は戦慄した。
幕府の中でもこんな顔をする役人を見た事が無い。
下半身から尿が漏れると同時に、住職の両腕と下半身に痛みが走った。
その痛みを自覚する間も無く住職は気絶しお堂に転がる。
そして、京史朗は倒れる椿の元へ駆け寄る。
「しっかりしろ椿! 意思を強く持て!」
「……京史朗さん」
「お前の入れた熱い茶をこれからも飲まんといけないからな。しっかりしてくれねぇと困るぜ」
「だから……ぬるいお茶かお冷を……」
「奉行が猫舌じゃ格好がつかんだろ」
鬼が仏になったような顔をする男に椿は微笑んだ。
すると――背後の雨音が変化した。
『オオオオオオオオッ……』
「坊主共……お前等っ!」
背後の坊主達は奉行所の役人達を倒していた。
いや、奉行所の役人達は勝手に倒れていた。
赤梅香の原液の匂いで奉行所の役人達は精神をやられていたのである。
匂いに慣れてる坊主達は中毒になる故に、普通の状態よりは神経が肉体の痛みを勝っている為に強いようであった。二人を取り巻く無言の坊主達に椿は京史朗の背中の羽織をつかみ、早く背中の温もりを抱きたい京史朗は呟く。
「囲まれたか……椿、俺の頬を叩け」
「え?」
「この匂いから意識を保つ為だ。こんな事を趣味でやる奴なんかいるわきゃねーだろ。早くしろ」
京史朗はまじめな顔でそう言いながら椿の着物の裾に手を突っ込み秘所を触る。
同時に椿の平手が鋭い音を墓地に立てた。
べっ……と切れた口の中の血を吐き、秘所を触れた手を舌で舐めた。
それを見た椿は京史朗の背中を叩く。
「よし、これでこいつらを倒すまでは十分だろ。今回は俺の失敗かもしれんとは思うが、これは自分の精神との戦いよ。こんな匂いにいちいち耐性が必要じゃ、これからの幕府役人は務まらねぇぜ……行くぜ三下!」
雨を切り裂くように駆ける鬼に赤い煙玉を地面に叩きつけた坊主が周囲の視界を消す。
殺気を読むような感覚で京史朗は素早く坊主を斬り伏せて行く。
右手で刀を持ち、左手は脱いだ羽織で赤い赤梅香の煙を散らす。
「――どけっ! 煙が晴れたな……椿!?」
視線の先には男達に襲われる椿がいた。
精神を呑まれる男達は性欲の塊になり椿の肢体を求めた。
「きゃあああっ!」
赤い着物を剥かれる椿は白い乳房をさらけ出した。
「椿っ! 邪魔だ三下――――っ!」
周囲の坊主を躊躇い無く斬る京史朗は鬼の形相で進むが男達に阻まれ間に合いそうに無い。
一人の坊主は椿の胸にむしゃぶりつき、その口を目の前の柔らかな唇に重ねようとする――。
「……えいっ!」
上半身裸の椿は転がっていた鞘で迫る坊主を殴りつけた。
しかし、威力が弱い為に昏倒には至らない。
「オオオッ!」
坊主の下半身の刀が椿を襲うと同時に、坊主は煙管によって殴られた。
少し折れた煙管を見つめる京史朗は雨に濡れる月代をかく。
そして、着物の着崩れを直し地面に尻餅をついたままの椿は言う。
「貞操は守りましたよ。私は貴方だに捧げてますから。お寺の中にいた時も私の中には汚い棒は入れさせてません」
強い眼差しで言う椿を京史朗は抱き締め、
「椿、お前は汚れちゃいねぇ。俺がこれから何度でも汚がしてやんだらな」
雨が降りしきる墓地での捕り物は終わり、赤梅香から目覚めた役人達は椿を籠で鬼京屋まで運び、残りは倒れる坊主達を連行した。
それを見届けた京史朗は陣笠をかぶり墓地を後にしようとする――が、一人の老人に止められる。
どこにいたのかわからないが、その老人は鬼京屋で会った老人だった。
「おう、じいさん。これにて一件落着よ。供え物をつまむ程度ならいいが、墓荒らしはやめろよ」
「つまみたくてもつまめんよ。奉行、いい働きだったぞ。先代を超えそうじゃて」
そう顔の深い皺を笑わせて言う老人は姿を消す。
目の前の老人が消えた事に、幽霊騒ぎの大本は事実だったのか? と思う京史朗は焦る気分を煙管の紫煙で晴らそうとしたが、この雨では吸えそうにも無い。やれやれと思いながら小走りで伏見墓地を後にした。
その後、京史朗は出来る限り京都や大阪から薬物を消すよう動いた。
西国諸藩の連中も利用して天子が薬物を嫌がっていると夜談を使い噂を流す。
今の天子である公明天皇は異人嫌いだから信憑性があった。
この事件をきっかけに京史朗の下手な俳句はその数を少しずつ増やしていく事になる。