三幕・亡霊のいざない〈前編〉
伏見の西にある周囲を林で囲まれる伏見墓地にて幽霊騒ぎがあった。
最近の世相を反映してか、妖怪や幽霊などの人の想像から生み出された怪談話も増え、そんな話もちらほらと奉行所に持ちかけられ京史朗も溜息をつく事が多くなっていた。今日も持ち込まれた幽霊話も赤梅香の香りの満ちた伏見墓地の中で女がかどわかしにあったという夜に散歩をしていた乞食からの話だった。
最近市中で流行っている赤梅を原料とした赤梅香という香水が人の意識を飛ばすような効果があるという噂もあり、京史朗も渋々墓地へ足を進めた。
「……」
外から眺める限り寺の床は汚れ、境内は錆び付いているように静まり返っている。
墓地もごみにまみれており坊主達が最近何もしていないのが伺えた。
「これじゃぁ、仏さんも出てきても仕方ねぇな。坊主共の責任だぜ」
そう独り言を呟きさびれた伏見墓地を後にした。
そして、その夜――。
鋭利な三日月が京の町を見下ろし伏見墓地は異様な雰囲気に満ちている。
白い煙が立つような冷気が墓地を満たし、その中を一人の乞食が歩く。
墓石の前に添えられる供え物を探す乞食はのそのそと歩いていたが、突如足が止まった。
強い花の香りが鼻腔を満たし、乞食は急激な眠気に襲われるように足元がふらつく。
「おう……悪いな」
近くにいた誰かの手に支えられ乞食は態勢を立て直す。
乞食を支えている老人は喉の奥から吐き出すように言葉を繋ぐ。
「おい、この墓をこれ以上荒らすんじゃない。呪い殺されたくなければのぅ……」
冷たい吐息を発する老人の腰から下は存在せず、乞食は目を丸くし口を開けたまま倒れた。
そして、墓地の奥の方で女の叫び声がした。
赤梅香の赤い煙のような強い香りに包まれる墓地は、怪しさに包まれながら夜の闇を受け入れるように朝を迎えた。
※
それから三日後――。
最近家に戻らないと奉行所に届けがあった女達は鴨川などで死体で上がっていた。
現場でびしょ濡れのまま仏になる茣蓙で顔と身体を隠される女の死体の顔を拝み手を縦にして達者でな……と京史朗は挨拶する。
「これで三人目だな。もう幽霊だの何だの言ってられねぇよ」
戸板に乗せられる女の死体を見て舌打ちをした。
この話しは京界隈では幕府要人を斬る人斬り摩訶衛門の仕業とか、義賊と称される月影の夜遊び人への天誅などと少しづつ大きな騒ぎになっていた。
夜談の調べによると、伏見墓地の寺の坊主共は人さらいや博打、不逞浪士になりすまして金をふんだくったり女を犯すなど寺の坊主としての仕事は何もしていなかった。まるで博徒のように成り果てた坊主達に奉行私室に戻りあぐらをかいている京史朗の紫煙の色に殺意がこもる。
最近の墓地で起きた幽霊騒ぎや川で上がった数体の女の死体も連中の仕業だなと確信する京史朗は研ぎから戻ってきたばかりの月光水月の目釘を調べ、鞘に納める。それを見た夜談は、
「伏見奉行所出動ですな?」
「いや、夜の見回りは奉行所全体で動いていたら奴さんに警戒されるから俺一人で動く。夜談も民家の屋根から怪しい奴の動きを頼むぜ」
「了解」
音も無いまま夜談は消えた。
「さて、俺も夜中の祭りに参加するとするか」
緋色の着流しのまま提灯も持たず京史朗はうすら寒い伏見墓地へ向かう。
※
まだ陽も昇らぬ薄霧すら立ち込め肌寒い早朝に京史朗は夜談と共に伏見の墓場にいた。
朝方まで探索をしていたが、これといった事件も起きず京史朗と夜談の二人は再び合流している。
墓地の坊主も息を潜めるようにして誰も出てきてはいない。
その墓場は新たな事件は起きていない様子だが、一つの小さい赤瓶が京史朗の煙管を吹かす顔を曇らせた。それを手に取り見つめ、
「……最近流行りの赤梅香だ。お前が余談で言ってた被害者に赤梅香の香りがしたとなると、これがこの墓場事件の下手人の一人かもしれんな」
「そうですね。この赤梅香を更に探ってみますぜ。ではこれにて」
言うなり、夜談は墓場から走り去る。
一人事件現場で立ち尽くす京史朗は周囲を見渡し、煙管の煙を四散させて京の街の鉛色の空を見上げる。
「時代が動くにつれてわけのわからん事件が起こりやがる。徳川の威厳はどこにいっちまったんだ? 町を闊歩すんのは攘夷、攘夷だと誰かの神輿を担ぐ事ばかり言いやがって……。この国にどれだけ自分を持って行動してる奴がいる? やってられんな」
まだ殺害された若い町娘の血の匂いがしそうな茶色い土を見据え、寺の方へ赴く。
寺の内部を尋ねたが住職はおらず、数人の眠そうな坊主がいるだけだった。
まるで亡霊の館のようになる墓地に不快感を感じながら今夜あたりに調べ上げようと思う京史朗は、ここの所見回りが多く椿の元へ通えてなかった為に今日の昼は鬼京屋で蕎麦を食おうと思った。
「椿が消えた?」
昼時、四条にある鬼京屋ののれんをくぐる京史朗は女将からそういわれて驚いていた。
朝から豆腐の買い出しに行かせた椿が今になっても戻らないという。
その話を聞いて京史朗は女将に奉行所が動くから椿の事を誰かに聞かれたら病気という事にしてくれと伝え、豪快な海老天ぷらが乗る天ぷら蕎麦を勢いよくすすり食べる。
(そんなに墓場の亡霊は若い女を好むか。死人が好色なんざ、聞いて呆れるぜ。そんないつまでも生きてやがる亡霊は成仏させてやる)
汁の一滴まで飲み干し、楊枝をくわえながら京史朗は鬼京屋を出た。
「奉行、墓が五月蝿くてかなわん何とかしてくれ」
「? おう……任せとけじいさん」
突如現れた乞食のような老人に何故か寒気を感じながら答えた。
そして、伏見奉行所の役人を総動員し京の町の墓場に乞食や宿無し浪人に化けさせ配置した。
黄昏が流れ次第に雨が降り出し夜の闇が京の町を染めていく。
※
雨が京の町に重石を乗せるように支配している――。
伏見奉行所の裏庭には白い椿の花が咲いており、雨に濡れてその色香を周囲に放っていた。
奉行所私室では京史朗は墨汁をすった手を手ぬぐいで拭きながら鋭い一重瞼を更に細め布の上に置かれる一枚の半紙を見据えていた。
「……」
最近、あまりにも時代がおかしくなっている為にこの鬼奉行にも変化が見え出していた。
その変化を認めたく無い京史朗は自身の内にある新しいものを俳句というもので吐き出していた。
細筆を持つ京史朗は椿の事を考えながら思案する。
今は信頼する監察方の確実な情報を待っている為に奉行として迂闊に動く事は出来ない。
組織として動く為には各々の役割の分を守らねば烏合の衆になるだけである。
「雨の中・椿の白に・汚れなし」
そう、かどかわしに会った椿の事を思いながら下手な句を読んで半紙に書いた。
すると、障子に影が走り京史朗は急いで懐にしまい入れと夜談を促す。
入る夜談は習字の道具が置かれている事に疑問を抱きながらも任務の報告をする。
「京、大阪の墓地や寺を調べましたがやはり初めに起こった伏見の寺の坊主共が十中八九下手人でしょう」
「そうか……ならそこに全員集結させろ」
「それと、これが奴等が持つ赤梅香の原液です」
「……嗅いでみるか」
夜談の手に入れた赤梅香の人間の神経を篭絡する香りの原液を嗅いだ。
脳髄を刺激する刺激臭に不快感以外のものを感じ得ない。
夜談はこの神経毒に耐性をつけさせる為に役人全員に嗅がせる事を進言する。
眉間に皺を寄せる京史朗は煙管を取り出し、室内から嫌な匂いを煙でかき消しつつ言う。
「これで耐性なんかつけても焼け石に水だ。すでに下手人達がわかっている以上、奉行所として早急に取り締まるだけよ」
過去の死油のような不可解な事件を思い出し、嘉永六年の黒船来航の時を思い出す。
元服して四年が経つが十九であった自分は好奇心を抑えきれず、伏見奉行であった父に反発し脱藩し江戸まで駆けた。
強大な鉄の塊である黒船に驚愕と畏怖を感じて逃げるように京に帰る最中、京史朗は雨道に足を滑らせ濁流に飲まれた。そしてその川は多摩川という川だったらしく、多摩の試衛館という田舎道場の男に助けられた事を思い出す。
(……)
その男は薬売りの仕事がてら剣術の稽古をしているらしく、強い男だった。
いや、強い以上に非常に嫌な男だった。
男の厚ぼったい二重の瞳は常に怜悧に相手を見据え、色は白く長身で女が色めき立つような色気があった。そして剣を持たせれば鬼のような激烈な太刀を繰り出して相手を倒すのではなく、叩きのめす男。
負けても審判の言動を無視し、相手の防具の隙間をついたり剣術では邪道とされる脛までも平気で狙う根性の曲がった男。一度この男に恨まれれば冥府まで追いかけて来てまで殺されそうな悪意を感じる傲岸不遜の面妖の鬼――。
(確か土方……だったな。近藤と沖田ってのは奴に似て激しい剣術だったが、俺はどうにも奴とは馴染めなかったな)
自分を濁流から助けた土方という男を未だに好きになれない京史朗は、多摩の天然理心流という田舎道場の割りにめっぽう腕が立つ連中を思い出した。
(奴等が俺の配下なら、もっと京の治安を守れるが奴等はただの百姓だからな。幕臣の一族の俺とは無縁の連中さ)
何故か十年も前の懐かしい記憶を思い出し、京史朗は気持ちを今から行う捕り物へと高めて行く。
奉行所の裏庭の白い椿の花は、雨の勢いで一厘の花が落ちていた。