十四幕・蛤御門から動く時代
蛤御門の変――。
新選組が天下に名を轟かせた池田屋事件により、前年の八月十八日の政変で政治的主導権の全てを失い京都を追放されている長州藩勢力が、京都を守護する会津藩の排除を目指して挙兵し、会津と薩摩を中心とした連合軍と戦った。
この戦で京都市中も戦火により約三万戸が焼失し、市民は幕府の権威の失墜を大きく感じ得ずにはいられなかった。
この事件の詳しい経緯を辿ると、こうなる。
長州藩内においても、現状事態打開のため京都に乗り込もうとする実力行使策が論じられた。
実力行使策を主張したのは来島又兵衛、真木保臣らであり彼等は新選組を要する会津藩には千年王城の都は任せられんと言って同士を募った。
それに対し政治家・桂小五郎や松下村塾系の御旗ともいえる久坂玄瑞だけではなく、あの革命の天才・高杉晋作でさえ慎重な姿勢を取るべきと主張した。
六月五日の池田屋事件で新選組に藩士を殺された一報が長州藩にもたらされると、保守派の周布政之助を中心とした高杉晋作らは沸騰する藩論の沈静化に努めるが、長州藩三家老等の実力行使派は八月の政変の是非を帝に問う事を藩士達に激文を飛ばし、同調した来島又兵衛等は挙兵を決意。
いつの間にか久坂も実力行使派に加わっており、それに反抗した高杉晋作は坊主になって十年の暇を周布政之助に許された。いや、すでにこの天才と天災の二面性を持つこの男は自分の頭を坊主にしていて、周布は暇を出す以外の答えは持てなかったのである。許さねばこの男は何をしだかすかわからないのを恐れたのもあった。
吉田松陰の愛した弟子の二人はここで永遠の離別になる事になった
久坂は山崎天王山に布陣し、宝山に国司親相が陣を敷いた。
来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原元僴は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。
六月二十四日、久坂玄瑞を筆頭に長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉ったが協議の末朝廷は長州に退去命令を出した。それにより久坂は朝廷の退去命令に従おうとするも、来島、真木らの大いなる激昂に同調しとうとう挙兵した。
七月十九日、京都蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。
来島又兵衛の威風堂々たる千人殺しの槍の無双により、長州藩は筑前藩を蹴散らし中立売門を突破して京都御所内に侵入した。
しかし、そこには坊主頭の無頼漢が不気味に微笑んでいた。
乾門を守る西郷吉之助事、西郷隆盛を筆頭とする薩摩藩兵が援軍に駆けつけたのであった。
長州藩は形勢が逆転して敗退した。
全てを失った長州藩の幹部一同は御所内で来島又兵衛、吉田松陰の狂を体現する松下村塾系の久坂玄瑞、入江九一の二人もここで自害した。
戦闘は終わったが、落ち延びる長州勢はもう京の町にはいられない事から勢いに任せ長州藩屋敷に火を放った。
この戦闘において新選組の出番はほぼ無く、伏見奉行所の出る幕でも無かった。
戦闘は一日で終結したが長州藩が逃げる時に放った火で京都は二十一日朝にかけて〈どんどん焼け〉と呼ばれる大火に襲われた。
北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広範囲の町や社寺が焼失してしまっのである。
そして速くも二十三日には長州藩主毛利敬親の追討令が発せられ、長州藩はとうとう朝敵となった。
敗走する長州藩兵はいたる所に薩賊会奸などと自分の血で書きつけて薩摩や会津への深い遺恨が人間の血で現されている事に、戦を知らぬ人々は戦国の世とはかも無情な世界だったのかと絶望した。
これにより、長州掃討の主力を担った徳川慶喜・会津藩・桑名藩の協調勢力を中心とした体制基盤が幕府の京都政局を動かし、徳川慶喜は将軍職に向けて動き出す。
その影に、薩摩の暗躍がある事も知らずに――。
※
京の町はどんどん焼けにより大いに焼けた。
まるで次の時代の新たな建造物を天が作れと言わんばかりの焼け野原になった。
長州藩邸等から出火した火災はの影響は北は丸太町通、南は七条通、東は寺町、西は東堀川にまで及んだ。二十一日に未明に鎮火したが八百町、三万世帯が焼け、その他の土蔵や寺社などが罹災した。
有名所の寺院では、東本願寺・本能寺・六角堂が焼失した。
京都御所・二条城・西本願寺は、危うい状況にあったが焼失は免れた。
現在はこの焦げた匂いの充満する焼け野原にて京の町民が力を合わせ復興に向かっている。
関西地区の義賊と呼ばれる月影は焼け野原になる京の町の行き場の無い人間や怪我人を助けていた。
月影の守っていた京の町が焼かれ、長州の仲間も死に心が折れる月影だったが義賊は義によって動かねばならない。
絶望の廃墟になる焦げた匂いが蔓延するその町の復興を伏見奉行所も手伝う。
そして京史朗は黒く汚れる着物を着る月影に言う。
「……まさかお前がここまで姿を出して活動をするたーな」
「こんな地獄は早く終わらせなくちゃならないからね。第一、私を月影だと知ってるのは貴方だけよ伏見奉行」
言いつつ、二人は焦げた材木の破片を片付ける。
一日働いてもまだまだ復興にはほど遠いが、額に汗を流し働く月影に負けるわけにはいかない為に京史朗をはじめとする伏見奉行所の面々は働く。夜も近くなった為に今日の作業はここまでにした。額を抑える月影を見た京史朗は声をかける。
「おい、大丈夫か? まだ暑いからちゃんと休めよ? この騒ぎに乗じて暴れている阿呆もいるぐれーだからな」
「私を誰だと思ってるの?」
「そりゃ、失礼しやした」
そして、月影は自分の隠れ家に戻って行く。
『……』
その後ろ姿を、汚れた着物を着る男衆が見つめていた。
※
翌日――。
特に変わりない絶望の廃墟を人々は復興に向けて進んでいた。
この町の人々はこんな戦が堂々とこの町で起きた以上、徳川の時代の終わりを心の隅で感じ得ずにはいられなかった。
そして、焼け野原の焦げた材木を片付ける伏見奉行所の面々の中で、その奉行は周囲の乞食に聞き込みをしていた。
「昨日いた働き者の女は知らんか? 影のある別嬪の女さ」
「いや、見てないですね」
そう言われた京史朗は不安がよぎり、周囲を歩き聞き込みを始めた。
そして、この焼け野原で女を犯したり金目の物を奪う輩が昨日は出なかったのを知った。
「そうか。野郎共、ちっとここを頼むぜ。月を司る別嬪さんの探索に出る」
確実に月影がそのごろつきに巻き込まれたと思い京史朗は動く。
昨日は月影も相当大量を消耗して倒れそうだった事を思い出す。
比叡山に月影の隠し砦がある事を最近、夜談に知らされていた京史朗は比叡山へ駆けた。
そして、比叡山の西の森の中へたどり着くと血の臭いが鼻腔を満たす。
そのまま森を登ると、最近殺された死体が二つほど転がっていた。
「死体……この苦無は月影?」
これは不味いな……と思う京史朗は血痕がある方面へ向かった。
すると、崖の下に洞窟があり、そこから男と女の悲鳴が聞こえた。
その女の声の主は間違い無く月影である。
一目散に京史朗は刀を抜き駆けた。
「――!」
月影の体力消耗を知っていた男達は夜が明けるまで待ち、持久戦に出た乞食に疲労困憊の月影は抑え込まれていた。
全裸の月影は舌を噛み切らないように猿轡をされて驚いた顔で京史朗を眺めている。
そこには七人の小汚い衣装を着る男がいた。
すぐさま男達の一人は月影の首に刀を突きつけ、
「動くな。動いたらこの女を斬る」
「わーったよ。刀も捨てるからその刀を首から離せ」
やれやれと降参する京史朗は刀を捨てる。
すぐに二人の男が京史朗に迫った。
「痛いぜ。もう少し優しくしろよ。もちろんあの女にもな」
腕を掴まれ縛り上げられた京史朗は言う。
七人の男達はわざとらしく呻く京史朗を見つめ笑っていた。
「……」
そして裸の月影の瞳が冷たく輝く。
月影は首につきつけられていた刀の鍔元部分を噛んだ。
「なっ! こいつ!」
そこは切れ味は悪い部分の為に、月影の口には大きな怪我は無い。
混乱する男たちを笑い、京史朗は刀を拾ってまたたく間に三人の男を斬った。
そして月影はその男の首を飛ばす。
残る男も京史朗が倒した。
「とりあえず相手の注意さえ外せばお前は忍だから自分でどうにか出来ると思ったのよ。大きな怪我も無くて良かったな」
「そうね。まさか貴方に感謝する日が来るなんて……屈辱だわ」
「ははっ! それだけの口が叩ければ元気だな」
それでもかなり衰弱している月影に水を飲ませ、横にする。
すると、薄く瞳を開ける月影は過去を振り返り話し出した。
「……」
それを京史朗は月影の手を握ったまま聞く。
月影はとある遊郭から抜け出した少女で吉田松陰に出会い、自分の人生を生きようと自覚が芽生えた。
吉原の遊郭で育ち、十の時に初めて客を相手にした時に月影である月子は逃げた。
黒船来航で沸騰する満月の明かりが眩しい闇夜の江戸の中で月子は吉田松陰と出会った。
誰もが恐れ、畏怖する黒船に乗って世界を見て回りたいなどの夢ばかりを語る青年に月子は唖然とした。今までこんな男は吉原において見た事が無い。
(……)
月子は考えを改めた。
どうやら、この男は特異な男らしく、世の中に二人と存在しない男らしい。
いつの間にか松陰に月子は自分の話をしていた。
松陰は人の話を聞くのが好きで、実に楽しそうに聞く。
もう遊郭には戻りたくないし、かといって行く場所も無い事を嘆く月子に微笑む松陰は言葉を放つ。
それは月子の人生を変える言葉の星々であった。
「人の一生とは春夏秋冬。貴女自身が今を冬と自覚するならば潔く死ぬべきです」
「……!」
まるで助けようともしないこの優男のような色白の青年にいつの間にか惹かれていた。
自分をまるで世界の駒のように扱い、私を持たないような癖に強烈な私がある男は天の月を見て微笑む。
「死して不屈の見込みがあるならばいつでも死んでよいのです」
「死んだら……全て終わりだよ」
「肉体は滅んでも、志は滅びず誰かに受け継がれます。それが不屈」
そして松陰は立ち上がり、天に浮かぶ満月を見上げ言った。
「狂なき者に時代と戦える力は生まれない。覚悟があるのならば、私と共に狂の道筋を辿り、この日本国を新たに生まれ変わらせようではありませんか」
松陰の洗練を受け、覚悟が決まった月子は月影として生きる事を決め、松陰の影として幕末の世を生きる事を自分で決めた。
そして、起き上がる月影は中空を見つめ言う。
「蛤御門の変で松下村塾系の志士が消え、残るは高杉晋作しかいない。しかし、高杉晋作も噂では坊主になりもう世界とは関わらないという……」
「……」
両手を握り締め、震える月影は過呼吸になりながら呟く。
「これじゃあ……松陰先生の意思は誰が継ぐの? このままじゃ、日本は夷狄に滅ぼされるわ……このままじゃ……このままじゃ!」
寝床から落ちた月影を京史朗は支えた。
だが、月影の慟哭は止まない。
「この世は経済で動いて行くようだ。もう、思想では何も変わらない。松陰先生の意思はもう次の時代へは引き継がれないのよ……この世界は!」
「もういい。もう休め」
更に強く抱きしめると月影の白いうなじが見え、片方の豊かな乳房が襦袢から零れ落ちた。
「たまたま伏見の奉行所に裏金が百両以上ある。それを市民に配ればいいんじゃねぇかどっかの義賊さんはよ?」
「……」
瞳を見つめ合う二人は無言のまま唇を合わせた。
そして、京史朗の手は月影の胸に触れ、舌を相手の小さな口に入れる。
月影の悲しみの全てを癒す夜が更けていき、月影が伏見奉行所の新たな隠密になった。