十三幕・池田屋事件〈始末編〉
熱い闇夜に包まれる冥府への入口のような池田屋の激闘は終幕に向かっていた。
土方隊が到着し、現場は新選組の勝利で確定している。
気合を上げる近藤は浪士達を打ち捨て方式から捕縛方式に切り替え、非常時における組織の長としての格の違いを見せた。
土方は更に後から駆けつけて周囲を取り巻く烏合の衆に一瞥をくれた。
外にいる幕府や会津の兵を池田屋内部に入れない為に白刃を抜いて、入口に立ちふさがる不動明王の如き門番になる。それでもおいしい手柄のみを手にしようとする幕府役人である伏見奉行所奉行に言う。
「現場はまだ荒れている。気が立っている隊士が奉行を殺してしまわないという保証はないので、内部に上がるのはまだ止めてもらおう」
「そりゃ、お願いか?」
「命令だ」
「ほう、命令。中々の台詞を吐くな新選組副長さんよ。お前さん、島原じゃたいそう人気じゃねーか。色男はやる事が違うねぇ」
「……」
二人の男の相手を屠る寸前の殺気がひしひしと周囲に伝わる。
土方はこの池田屋内部に新選組以外の誰かが入れば躊躇いなく斬るだろう。
そのお上を恐れぬ傲岸不遜の威圧感に幕府より派遣されし役人達は早く家に帰りたい一心でいるのに、争いが終わったにも関わらず争っている二人にうんざりしていた。頭にある陣笠を指で上げる京史朗は、
(この男……俺がこの争いに加わっていた事に気付いてやがるな。それで泳がせてやがる。いいねぇ。こいつは本物の鬼のようだ)
そして、指揮煙管を肩で叩き血の匂いに満ちる池田屋を伏見奉行所の面々は出た。
新選組側の負傷は京史朗が死者三人を出し、五人に重軽傷を与え、初めからここで事件が起こる事を知っていてこの激闘を生き抜いただけでも凄まじい働きであった。原田、永倉に手傷を与え、沖田に喀血させるほどの重圧をかけたのは新選組に対しての大損害だろう。
そして志士達もこの男に四人を殺害されていたのは誰も知らない事実であった。
何はともあれ、誰しもが時代の転換点であるこの京都三条小橋池田屋事件は新選組の大勝利によって幕を閉じた。
そして、京史朗の当初の計画は失敗に終わったが、同時進行していた計画は成功した。
幕府を守護する一大武装集団の完成である。
ずっと試していた多摩の百姓共が首領をする武士気取りの集団は本物の武士集団だったようだ。
これにより、新選組監察の間者である木戸夜談を使い京・大阪で起きる数々の事件を新選組を裏で使い解決出来る事になった――。
全ては倒幕の志士を名乗る悪の目が少しでも幕府にいかないように。
全ての悪は新選組と伏見奉行所が背負う。
京史朗は時代を変えるきっかけを作ったことに気付かない。
長い夜が終わり、京史朗は鬼京屋に忍び込み椿の胸の中で深い眠りに落ちた。
そして、京都大火計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟いた。
被害を受けた尊攘派は宮部鼎蔵、吉田稔麿、北添佶摩、松田重助などの逸材が戦死し、その消えた命が幕末の維新回転のきっかけとしての焔となった。
長州藩はこの事件をきっかけに激高した一部の強硬派が挙兵した。
その暴発が後にどんどん焼きと呼ばれる禁門の変を引き起こしたのである。
※
四条の茶屋・鬼京屋で京史朗と夜談が互いを背にするように床机に座り話している。
無論、それは先日の池田屋事件の事であった。
他人のように話す二人に看板娘である椿は微笑む。
「新選組内部でも伏見奉行のおいしい所取りに怒り、殺害をほのめかす者もおりますぜ」
「へっ、やれるものならやってみやがれ三下が。奴等は俺の都合のいいように使わしてもらうぜ。影からな」
「影とは私ですね奉行? 私次第で新選組も変わるという事ですか。それは面白い」
「確かにそうだな……って余談はいい。あんま長話してるとお前も他の監察に怪しまれるぜ」
この京の町には土方歳三の息のかかる監察方が町人に扮して何食わぬ顔で瞳を光らせ歩いている。
あまりおかしな人物と長話をしていると、土方の密命によりいつのまにか殺害されているのを夜談は最近になって知っていた。
二人は心の中で笑い、表情は他人に戻る。
そして夜談は椿が運んで来た餡子の多く乗る団子を食いながら、
「新選組は英雄ですぜ。もう、ちょっかい出しても崩れないんじゃないですかね?」
「まだまださ。幕臣に認められて俺と対等になるまでは俺は奴等を認めねぇよ」
そう言いつつも京史朗が新選組に関与するのは、奉行所では堂々と踏み込めない場所などに攻めさせる最強の手駒にしようとしているのは明白だった。はっきりとは言わないが、自分を介して新選組の動向を決めて反幕府勢力を駆逐しようというのが伺えた。
そして、椿が熱い茶を入れなおしたのを喉の奥に入れる京史朗は思う。
(ただ……時代の流れの早さが幕府だけじゃなく、日本そのものを超えようとしてんのは確かだ。西の諸藩が暴発したらこの京が壁になる。ここを突破されたら江戸まで一気にやられるだろう。とっとと何とかしろよ勝海舟の旦那)
現在の幕府内で唯一この時勢を正しく見据えて行動している勝海舟を信用し、京史朗は新たな決意で背後の部下の組織について話す。この件で自分の任務は終わりだと思う夜談にもう一度念を押して言った。
「新選組は抜けるな。抜けたらお前は必ず殺される。お前が抜けた時点で伏見奉行所を潰しに来るだろう」
「……土方副長がそんな事を? 私は池田屋の英雄の一人ですぜ?」
餡子の団子を喉に詰まらせ、胸を叩き茶で飲み下し夜談は京史朗を見据えた。
鬼の目は笑っていない。
「やるよ。あいつは」
苦々しげに煙管の煙を吐き出しながらも、その口元は笑っていた。
※
京の町を歩く京史朗は悠々と京の町を歩く。
知り合いに出会えば声を掛け合い、雑談をしながら話す。
池田屋事件の影響で新選組には新たな隊士が大量に増え、黄金期を迎えようとしていた。
すでに京の町にはびこる不逞浪士の連中は、新選組を見れば蜘蛛の子を散らすように逃げ出すほどの武を誇っていて京史朗はその組織の影の頭である土方歳三を上手く利用してやろうとほくそ笑んでいる。
そのまましばらく町を歩き、次第に人がいない方面に向かい出す。
そして、周囲が開けた人気の無い草むらで止まる。
「……そろそろいいだろ。お前さんはどこの者だ……」
刀の鯉口を切りながら京史朗は振り返った。
「女か?」
その女は前髪を切り揃えた異人のような髪型をした女だった。
衣装はかすみ草が描かれた紫の着物のような衣装であった。
風が流れ、女の切り揃えられる前髪が乱れる。
その少しおでこの広い細身の唇の薄い女は言う。
「私は桔梗院玲奈。摩訶衛門の同志よ」
「摩訶衛門の同志だと――」
言うなり、その桔梗院玲奈は鞠のような球を投げて来た。
それを受け取ろうとする――が、全身に悪寒が流れ、背後に飛び下がった。
「ぐっ!」
小規模な爆発が起こり、草むらの一部が消えた。
爆風を受け、自分が鞠を受け取っていたらどうなっていたかを想像し、息を呑む。
「爆弾だと? 大砲見てぇな爆発をあんな鞠で出来るのか!?」
まるで手品のような奇術に京史朗は驚く。
「これからは火薬の時代よ。貴方達幕府側勢力はこの徳川を終わらせる火薬庫に火を投じた。自分達で投じた花火のように綺麗に消えなさい伏見奉行」
「――くっ!」
こんな摩訶不思議な攻撃をする人間は正に摩訶衛門の仲間だと思った。
そのまま玲奈は薄い笑いを浮かべ鞠爆弾を投げてくる。
草むらの一部が消え土煙が上がり、周囲の視界が死んだ。
体制を崩しながら、土が入る右目を閉じて左で見る。
(どっからきやがる……)
瞬間――鞠爆弾が足元に落ちた。
「うおっ……ん?」
その一つは不発弾だった。
しかし、次は爆発し京史朗は草むらを転がる。
そして、また投げられた目の前の爆発に耐えた。
(ここで耐えれば、玲奈の奴は逃げ道に爆弾を投げる。そこが狙い目だ――)
鬼の目線が玲奈を探す。
「――!?」
無数の爆発の中から玲奈が颯爽と現れる。
勘が外れた京史朗は鞠爆弾をくらい爆発で刀が折れる。
その刀を投げ、玲奈は手で弾いてかわした。
「ぐうっ!」
影のように同じ軌道で投げられていた鞘が顔面に直撃し、玲奈は奥歯が折れべっ! と血と共に吐き捨てた。一撃は仕返しをした京史朗は脇差は差しておらず、後は懐の中の煙管しかない。
「流石は摩訶衛門の愛した男。一筋縄じゃいかないわね」
「愛した? 馬鹿言ってんじゃねぇよ! 俺に衆道の気は無いぜ!? 俺は根っからの女好きだ! 戦国の古来は戦場に女がいると問題になるから稚児を抱いていたのは武田信玄などの話で聞くが、俺は男の肌は駄目だ。伏見奉行所でも衆道は禁じている」
必死に京史朗は摩訶衛門との怪しい関係疑惑を否定した。
首をかしげる玲奈は、
「ふーん。そうなの? 摩訶衛門は貴方を思って毎日血を見て興奮しているらしいけど」
「どうせならお前さんと興奮したいがな。玲奈さんよ?」
「私は物にしか興味が無いわ」
幽霊のように生気が無く存在する玲奈は表情を変えず動いた。
対する京史朗は足元に転がる不発弾に煙管を投げる。
「馬鹿ね。それは不発弾と言って何かのきっかけが無ければ爆発しない代物よ」
「だからそのきっかけを与えたんじゃねーか」
「――!?」
大きな音を上げその不発弾は爆発した。
そして、京史朗は爆発の中を抜け玲奈を取り押さえ、地面に抑えつけた。
「さて、俺に会いに来た理由を答えてもらおうか? 殺したいだけだったら町中で人混みの中から殺る事も出来たはずだぜ」
「鬼神龍冥丸。貴方の刀を渡しに来たのよ」
「刀を……だと?」
この女の言う意味がわからない。
そして、やはり生きていた摩訶衛門にある意味ほっとしていた。
あの男は確実に殺したという事実が無ければ死んだ気がしないからである。
「……やっぱり生きてたか、会いたかったぜ。摩訶衛門。この辺りに潜んでやがるのか?」
きょろきょろと京史朗は怪しい風が流れる草むらを見つめる。
そして乱れる前髪を直し、玲奈は言う。
「今は京にはいないわよ。西郷の切り札だからねあの男は」
「西郷? 西郷吉之助と手を組んでやがるのか?」
「さぁて、どうかしら?」
口元に一本指を当て、玲奈は薄く嗤う。
そして京史朗は玲奈の武器を取り上げ身体を開放すると、草むらから拾う一振りの朱鞘の刀を渡された。
これはこの桔梗院玲奈が打った名刀・鬼神竜冥丸である。
名は摩訶衛門が付けたらしく、虎鉄さえ凌ぐ素人でも斬鉄さえできる魔剣であった。
「摩訶衛門からの贈り物……呪われてるんじゃねーだろうな?」
眉を潜める京史朗はその刀を抜き、小さな刃紋が美しい刀匠に似ている刀を見据えた。
まだ血を吸っていないにも関わらず、異様に血の匂いがするこの刀に畏怖を覚えた。
匂いをかいだり、耳を当てたりして呪われているのかを確認するがよくわからない。
「摩訶衛門は新しい力を蓄えているわ。貴方を殺す為にね」
「そうかい。それはいい事だ。この刀でこの時代の闇を斬ってやるよ」
「刀は消耗品。次に摩訶衛門と戦えば必ず奴の血神丸か鬼神龍冥丸は折れる」
「折れても問題無いだろ? 刀は消耗品だ」
「私が打った刀と刀が戦えば折れた方の刀の使用者が死ぬわ」
その玲奈の言葉に絶句した。
冗談ではなくこの女の言った事は事実であろう事が容易に想像できた。
「もうすぐ起こる……時代を変える戦争がね。フフフ……」
そして、薄嗤いを残したまま玲奈は舞い上がる風と共に消えた。
「……」
京史朗は幕府勢力の一つである薩摩藩の西郷吉之助を思った。
一度だけ四条の茶屋・鬼京屋で出会った事があるが、もしも薩摩が反幕府勢力になれば幕府の屋台骨は砕けるだろう。だが、本当の所は次の争いが無ければわからない。
京史朗は摩訶衛門から送られた朱鞘の鬼神龍冥丸を持ち、その場を去った。
池田屋事件の名声で新選組の名は天下に轟き、その時流に乗り自分は将軍になったんだというような増長をした局長・近藤勇に京史朗はさっそく影で夜談を使って新選組を操った。多摩の試衛館以来の同士である永倉や原田が会津藩主・松平容保に掛け合うように扇動し、増長する近藤を戒めさせたのである。
だが、京史朗は新選組の力がすでに誰かの力で制御できる範囲に無い事を知らずにいた。
そして、ついに上洛した長州藩士の一部は禁門の変とも呼ばれる蛤御門の変を起こした。