十三幕・池田屋事件〈後編〉
池田屋の一階と二階では激闘が繰り広げられている――。
内部ではほとんどの蝋燭の明かりが消され、薄闇の中をダンダラ羽織の剣士が躍動する。
出入口を固める隊士達は内部から聞こえる局長などの気合の声で新選組に優位な状況であると判断し、逃げる敵を屠る。未だ池田屋の周囲には新選組以外の幕府部隊は現れていない。
二百年以上血みどろの戦いをしていない幕府は判断も対応も出来ずいたずらに時間を費やし、新選組の勝手な判断で突入した為にやもなく会津を中心に池田屋に手勢を向かわせた所であった。
その最中、夜談は別働隊である土方隊に池田屋の激闘開始を知らせる為に駆けていた。
「うおおおおおおっ!」
左右を囲まれる近藤は一人の志士の首を斬り、二人目の剣を鉄甲で受け蹴り飛ばす。
永倉も一人を突き殺し、二人は背中合わせで気合の声を上げ続ける。
そして階下の一階ではすでに刃こぼれが起きるほどの戦いを繰り広げていた藤堂が大汗を流し額の脂汗を拭う。一階は入口の見張りの灯りがあり敵を識別しやすいが、身体や神経に伝わる緊迫感は同じである。夜中とはいえ暑いこの時期に重装備での室内戦闘というのは厳しいと全員が刀を振るい思う。
敵の気配が去ったと思う藤堂は頭の鉢金が汗で緩んでいるのに気付く。
「……暑い。夜中の室内の戦闘は二度としたくないな。だが、今は全てを斬る」
「……」
薄闇からゆっくりと一匹の黒頭巾の鬼が迫り、汗でゆるんだ鉢金を締め直す藤堂は室内での戦闘で重宝する長い脇差の刃が鋸のように欠けた為に長刀を抜こうとする――瞬間、
「ぐあああっ!」
「平助!?」
目の前の一人を蹴り倒す沖田は藤堂の絶叫を聞いた。
「まずはお前からだ――」
目を細める京史朗の刃が藤堂の首を狙う。
「――貴様ーーっ!」
すると、居間から廊下に躍り出た沖田が仕掛けて来た。
「けっ、ここでお前さんかよ」
「死んでいただく」
「やなこった」
狭い通路での三段突きを浴びたら必死の為に当たるわけにはいかず、狂気の形相で横の障子を倒し身体ごと居間に入った。そして沖田は顔面を血まみれにする藤堂を支えた。
「平助! 生きてるか!?」
「問題無いぜ……沖田さん、その野郎を頼む」
「任せておきなさい」
眉間を割られ血が溢れ出て昏倒する藤堂は答えるが立ち上がれ無い。
居間に行く沖田は黒覆面を探すがもう居間にはいなかった。
薄闇の中を一人の黒衣の男が駆けた。
「どけや三下ぁ!」
そのまま京史朗は入口の原田を突き飛ばし陣形を乱そうとするが、谷三十郎などの加勢もあり階段まで弾き返され一気に二階へ上がる。それを追跡する沖田は一階の敵はもういないと告げ、藤堂を原田に任せて階段を駆ける。
そして、京史朗は近藤と永倉が戦う左奥の部屋を避けて右奥へ走る。
いきなり一階から現れた敵にも不用意に追ったりはせず、まず目の前の敵を倒す事に専念している新選組は正に鉄の組織だった。
(仲間を殺され、これだけ蒸し暑く暗いしかも室内の敵がどこから出てくるかもわからん戦場。これだけの混乱でも新選組は決められた持ち場を離れないか……)
こんな異質な戦場でも決められた持ち場を離れず、味方同志で無駄な混乱をさせない規律に京史朗は舌を巻く。これは伏見奉行所でさえ出来ない芸当であった。いや、奇襲とはいえ相手が自分達の倍の人数とわかりながら、大義の為に斬りこみをかけるなどこの日本においても絶無であろう。
しかし、この烏合の衆であるはずの人斬り集団はやった。
「どうやら合格だな。俺の最強の手駒になってもらうぜ」
背後の室内で鬼神の如く戦う近藤勇を見て京史朗は言った。
この男の思考は短切であり、すでにこれからの新選組の使いようが頭の中で動き出している。
そして、窓の戸を開き逃げる算段に出た。
(もう十分だ。こいつ等は上玉ってのはわかった。それがわかったからにゃ、ここから外へ逃げてやる! ――!?)
目の前にはどうやって回り込んだのか新選組の天才剣士が待ち構えていた。
刀を凪いだ沖田は言う。
「逃げられませんよ。貴方の太刀筋はどこかで交えた記憶がある。まさか、貴方は私の知り合いでしょうか?」
「さぁな。おそらく他人の空似だ」
「では、斬ってからその顔をはっきりと見せてもらいましょうか」
畳を足ですりながら激しい剣の応酬が繰り広げられる。
前に大阪町奉行殺しの件で新選組に挑んだ時に、沖田と剣を交わしたがやはり試衛館時代の時より重みが増し、この集団で天才と呼ばれるだけの剣才があった。
だが、沖田の剣は近藤とは違い孤高。
たった一人しかたどり着けぬ至高の極みを探求する剣技は美しく強いが、組織としては将棋の王将ではなく歩である。その歩である孤高の剣士は無駄なく真っ直ぐに死を誘って来る。
「三段突きが最強だと思うなよ! ……ぐううううああああああっ!」
「ぐっ! 私の剣の切っ先を素手で砕いた? はははっ! 貴方は面白い!」
「なら死ね!」
もう京史朗の刀は数人の人間を殺し刃に脂が巻きついていて切れ味は鈍っていた。
「……はぁ……はぁ……」
互いに幾度か刃を浴びせたが、鎖帷子くさりかたびらが防いでいて致命傷にはならない。
息が上がり、顔に巻く黒頭巾がずれる。
(……長く刃を交わし過ぎた。暑ぃし、暗いしもう体力が無ぇぜ。時代の流れに乗ってやがる存在とは恐ろしいもんだ)
この集団を使おうとしてはいるが、時代の流れが何故こんな新選組などという殺人専門家に向かって流れているのか不思議でならなかった。足元の死体を使い沖田の隙を作ろうと右足を微かに動かす。
『……』
互いの呼吸と脈拍が上昇していき、この蒸し暑さと薄闇の緊張感から喉の奥が詰まる。
そして、同時に二人は動いた――。
『――!』
瞬間、沖田は喀血した。
「……ぶっ……ぐふっ!」
その光景に京史朗は唖然とする。
「あの血の量……労咳か?」
「総司ぃ!」
「――!? ぐっ!」
その近藤の怒声で沖田は意識を取り戻し刃を振るった。
かろうじて京史朗を退けるが、沖田は喉の奥に嫌なものが詰まっている為に声を発する事が出来ない。 返事の無い沖田を探す近藤は目の前の敵を突き刺し、永倉に沖田への援軍を向かわせた。
(沖田は労咳か……? 労咳なら、こいつの命は長く無ぇな)
すると、京史朗の前に夜談が作った長州藩の人相書の一人の男の顔が浮かび上がる。
凛々しい眉にやや長い顔。
生き急ぐような隙の無い鋭い眼差しは吉田松陰の松下村塾系の志士の一人である吉田稔麿であった。かつて征夷大将軍! と将軍を怒鳴る暴挙をしでかした高杉晋作の野郎はここにいないのか? と思う京史朗は、
「おい、吉田! そこから飛び降りて逃げろ!」
「誰だ君は? 全員がまだ逃げられていないのに、私がここで逃げればこれからの時代の流れにも危害が及ぶだろう」
「このまま死んでも時代にゃ何も伝わらんぜ? それに松陰にもな」
「……!」
一瞬の躊躇を見せる吉田稔麿だったが、師である松陰の名前を出され見知らぬ浪士に従った。
屋根の下には新選組の隊士が警戒していたが、二人ほどの隊士は始末されていた。
そこには月の色の忍装束を着た暗殺者が悠然と存在している。
「あの女……やっぱ来やがったか」
吉田はそのまま地面に飛び降り着地する。
京史朗は疲労と素足の為か体制を崩しそのまま地面に落ちた。
長州の人間だと思う月影は京史朗を受け止めた。
「痛て……?」
月影に覆い被さり、京史朗は勢い余って唇を重ねてしまう。
女の身体に触れた為に全身の血の毛が収まる。
馬乗りになる男の顔を見て怒りが沸点に達する月影は、
「――お前!? お前は助けてない!」
「待て、今は逃げるのが先だろ?」
怒るなと諭す京史朗は立ち上がり月影の胸をつつき逃げた。
そして、月影が吉田を長州藩邸まで逃がす。
しかし、吉田は藩邸では完全に幕府に取り囲まれた状態ではこの長州藩邸にも幕兵が来ると言い援軍を得られず、そのまま池田屋に引き返し沖田に斬られ絶命した。
それを後で知った月影は長州藩に絶望する。
新選組による奇襲を受けた志士達は応戦したが、すでに自分達の劣勢は火を見るより明らかな池田屋からの脱出を図った。
池田屋裏口を守っていた新選組隊士達の所に土佐藩脱藩・望月亀弥太などが突っ込み包囲網を突破する。一人逃げ延びた望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで来たが、誠の提灯の灯りを目にし潔く自刃した。
そして血で血を洗う凄惨な現場になる池田屋には、厚い二重瞼を底光りさせる新選組の鬼が姿を現していた。