十一幕・新選組筆頭局長の暗殺〈前編〉
残暑が続く鉛色の空の京の町は確実に死の町へと変化していく。
その時の流れに逆らいながらも、時代の変化の本質に気付けない京史朗は四条の茶屋・鬼京屋にいた。
京史朗と椿はどこかに行くらしく、床机に腰をかける伏見奉行所の金庫番である金之助はきなこ餅を食いながら黄色い葉から沸かした茶を飲んでいた。この男は小判が好きな為に衣類や食べ物なども黄色い色でないと気がすまないらしい。欠伸をする金之助に京史朗は言う。
「今日は椿と芝居を見に行くんだ。演目は忠臣蔵よ」
「忠臣蔵……奉行は本当に新選組が好きでいらっしゃるな」
「羽織のダンダラ模様が同じですものね」
椿にもそう言われ、京史朗は自身が新選組に囚われている事に赤面し、椿の尻を叩こうとするがかわされる。そして、椿に先に行かせ京史朗は久しぶりに京の街でくつろぐ金之助に言った。
「これからは金之助にも外の仕事を任せるから覚悟しておけよ。伏見奉行所も忙しくなっていくぜ」
「へい。わかりやしたよ」
鬼の瞳になる男の言葉に、闇の仕事を任されるな……と思う金之助は冷たい茶で喉の奥の新たな渇きを潤した。
そして、忠臣蔵の演目を見た二人は帰り道の鴨川の横を歩きながら話す。
日が沈む京の町は、これから妖魔が現れる血にまみれた時間が訪れる気配をひたひたと人々に与えながら時を刻んでいた。京史朗は密かに買っていたかんざしを懐の中に忍ばせ、それを出す瞬間を待っていた。その話の途中で懐のかんざしを強く握る京史朗は立ち止まる。
「私……常連の商家の方と縁談の話が出ましたの」
縁談話がある事を椿は告げた。
川のせせらぎが二人の耳から体内に入っていき、京史朗は夕焼けの沈み行く太陽を見据えた。
川の横に生える草の葉が揺らめき、鈴虫の鳴き声が響いている。
『……』
まるで散っていく花のような夕日を見据える椿の瞳は赤く染まり、京史朗は空を見上げる椿の美しい横顔を眺め言う。
「……めででてぇな。あの商家の男は素性に問題は無ぇ。達者でやれよ椿」
懐の奥にかんざしを押し込み喉の奥の思いを飲み込んだ。
緋色の着流しの袖を揺らし、京史朗はその場を去る。
その後姿を、両手の拳を強く、強く握る椿は日が沈んで視線の先の男が見えなくなるまでそこにたたずみ見据えていた。
※
伏見奉行所奉行私室。
室内には京史朗が吐く煙管からの紫煙が満ち、夜談は話し出す。
新選組の新見切腹以後の動向と、京に集まる各藩の大物志士について報告されていた。
各藩の政情も慌しくなり、この京へその慌しさが大量に持ち込まれている。
そして、一番興味のある新選組の話を夜談は目の前の男の顔を注視しながら話す。
その男は新選組の今の評価をこう述べた。
「ありゃ、歩だよ」
「歩? それだけ評価しても歩ですか。厳しい評価ですな」
煙管の煙を燻らし、目を細め言う。
「敵陣深くに侵入した、歩だよ」
その言葉の意味がよくわからない夜談は言葉に詰まる。
そして小刀を抜き指のささくれを切る京史朗は、勢いあまって指を傷つけてしまう。
じわっ……と噴出していく血を見据え呟いた。
「摩訶衛門も月影もこの数ヶ月出ねぇな。京から消えてどこに行きやがった……?」
まるで壬生浪士組達と入れ替わるように消えていった猛者達の動向が消えた事に京史朗は一抹の不安を覚える。すぐに手ぬぐいを取り出し京史朗の指の血を吸い、止血する夜談は月影だけは新選組の芹沢が起こした生糸問屋大和屋への砲撃事件の時に民衆にまぎれていたと伝えた。
そして、夜談は新選組屯所の芹沢が寝泊りする前川邸の庭に仕掛けた細工を報告した。
すでに会津藩から近藤一派に芹沢暗殺の密命が下っている事は協力者である新選組観察方の山崎の密報告から知れていた。その内部抗争を京史朗は高みの見物をしようとしている。
「庭師に化けて庭への細工は万全です。後は侵入に気付かれないか……ですね」
「相手は暗殺をする以上、全神経を研ぎ澄ましてるからな。その包囲網を突破するにゃ容易じゃねぇさ」
「雨が降ればおそらくその日が決行日でしょう。それと最近、新選組の金策が甚だしいですぜ。何に使うか知りませんが、葬儀屋に出入りしてる者もいますな」
「厳しい法度による内部粛清が多いからだろ。そしてまた大砲でも買うつもりか? まぁ、そんな事もいずれなくなるがな……」
ふと、京史朗の吐く紫煙の煙に変化が生じ、夜談は奉行から何か重大な話があると察した。
一呼吸置いた後、京史朗から夜談への長期任務が下る。
それは、敵陣にとどまる死の任務だった。
「夜談。お前壬生狼になれ」
※
空が曇に満ち、今にも雨が降り出しそうである。
今日はこのままいけば夜に雨が降るであろう。
その黒い雲が流れる空を見据えながら京史朗は刀に打ち粉を打っていた。
その時、伏見奉行所に一人の女が現れた。
役人は奉行私室まで訪れ、そのまま女を立ち去らせるかを問う。
「……知り合いだ。通せ」
京史朗は眉を潜めながらその女を自分の私室まで通せと伝える。
すると、胡蝶蘭が描かれた緋色の着物を着た椿が現れた。
縁談の話を受けた椿は相手の家族と話す中で堂々と断ったと言う。
目の前で顔を合わせる二人はしばしの時間があり、椿は言った。
「私は貴方にとってはただ通い付けの茶屋の都合のいい女なのかしら?」
その言葉に京史朗は言葉が詰まる。
そして、伏見奉行所奉行としてこの件のお沙汰を下す。
「そうだ。そんな事はお前が一番わかってるはずだぜ」
「……」
空の黒い雲がごろごろと鳴り出し、椿は奉行所を後にする。
新選組屯所では芹沢一派が島原でいつも通り遊興に興じていて、新見の切腹などなかったように芹沢は魚顔の顔を撫で、膝を自慢の鉄扇で叩いていた。
「……」
その顔は酔っているのか醒めているのかわからず、眼帯を抑える平山やうちわで顔をあおぐ野口は新見の死を嘆いていた。自分達では芹沢の城を支える屋台骨にはなれないのであるのを知ったのである。そのまま時間は過ぎて行き、芹沢の耳に天の雷鳴の音が聞こえた。そして鉄扇に刻まれる文字を言う。
「尽忠報国」
その刻限、新選組屯所にいる土方はふと、天を見上げる。
黒い雲が川の流れのような速さで流れて行く空を見上げ何気なく呟いた。
「尽忠報国」
そして、今日一日も何事も無く過ごせたという隊士達とは違う、野獣の瞳になる近藤一派の動きが加速する――。
※
暗殺に必要な環境。
それは闇と無音である。
闇は夜になれば自然に生まれるが無音は一撃で相手を殺す以外に生み出す事は出来ない。
この時勢になると幕府要人も白昼堂々と容赦無く暗殺される故に夜の出歩きはなるべく避け、歩くにしても警護の者を多数かかえ周囲を提灯で昼間のようにして歩く。
金で動く暗殺者達は大義を持って白昼堂々と動く暗殺者達とは違い、夜の闇に紛れなければ行動出来ぬ者が多かったが、金で飼われた人間は魂などは無い為に飼い主には従順である。
風が吹けば桶屋が儲かる。
血の色は夜に紛れ、死人の断末魔は闇へと消える。
しかし、京の洛西にある壬生の狼のとある一派は幕府や会津の走狗と揶揄されているがそれは完全に違っていた。
流れる雲が早く天の三日月さえも淡く輝いているその夜――。
くしくも雨が降った。
それも一寸先も見えぬほどの豪雨である。
それはまるでこの暗殺を計画した鬼が天候さえも計画したかのような鮮やかさであった。
すでに芹沢一派は寝泊まりする前川邸は静まり返り全員が寝ているのである。
しかし、豪雨の中現れた黒い頭巾で顔を隠す黒装束の男達は血に飢えた狼の瞳を鋭利に輝かせていた。
『……』
すでに襲撃の算段を整えている集団は二手に別れ行動を開始した。
芹沢の寝室へ向かうのが近藤、沖田、永倉、原田。
その他の連中を始末するのが山南、井上、斎藤、土方である。
両者は豪雨の五月蝿い雨音を利用し、古い雨戸を外して内部に侵入し一斉にこれから殺す人間の油で斬れなくなるであろう白刃を抜く。
現在わかっている内部の情報は前川の人間達は近藤がお世話になっている恩義を返す為に大阪の方に遊びに行かせていた為、芹沢一派とその女達が数人いるだけである
その女達もまだいた場合は容赦無く鬼籍に入る事になるだろう。
「……始まりか」
これから始まる光景の一部始終を前川邸の庭の植木の茂みの中に潜む京史朗は鬼の瞳で見据えていた。