八幕・大阪の相撲取り
季節は夏に迫り暑くなり始める京、大阪の町を警護する壬生浪士組は近藤派を中心に市中見回りにて成果を上げ始め壬生浪士組の名を広め出していた。それと同時に夏になるのに未だ冬物を着ている壬生狼と呼ばれていた男達の一部がその服装のみじめさもあって、みぼろと呼ぶ人間も出始めていた。
そういう経緯もあり、大坂の豪商に対し百両を提供させた芹沢一派はこれを元手に隊服や隊旗を揃え残る金で夜は島原へ繰り出し遊興に興じていた。
その間、近藤一派は遊びもせず芹沢の傀儡のように市中取り締まりを行い、会津中将お預かりという名目での両者の活動に大きな差が出始めているのを会津側も気付き始めていた。それを傍観するように近藤に進言している土方は烏合の衆になる前に罰則を設ける為の隊規の制定にとりかかる事にし、隊規を考えつつ俳句を筆で書いた。
そして、六月になった。
今日は夕刻の隊務を平隊士に任せ、旗揚げ以来の幹部連中は大阪に夕涼みに行く事にした。
その一団と距離を置き一人の月代の青い緋色の着流しの浪人が足音も立てず歩いて行く。
一団は目的地に向かう船に乗り込み、瞳が冷たく光る浪人が最後に大阪に向かう船に乗った。
(……)
その一団は一瞬、京史朗を見るが誰も反応は無い。
近藤一派の一部には十年前に面識はあるがその誰もが京史朗を忘れているらしく各々で話し始めていた。
その声を聞く京史朗に意外な人物から最悪な人物の話を聞いた。
土方は沖田に自慢げに黒鞘の鉄拵えの鞘から刃紋が小粒のように美しい銀色の刃を引き抜き言う。
「この大業物、和泉守兼定を摩訶不思議な顔をした白髪の男から無料で貰ったんだ。不気味な奴だったが、刀に関しては悪ではなかったな」
「土方さん以上に不気味な人もおられるとは京の町は江戸とは違いますね」
「総司、一言多いぞ。斎藤君が腹を抱えているだろう」
気になって仕方ない話を京史朗は涼しい顔をしつつ、川の流れを見ながら聞いている。
(之定を……摩訶衛門から)
その土方の話を京史朗は耳を澄まして聞く。
すると脳内にあの不気味な男が煙のように浮かび上がり回想の中の摩訶衛門が話す。
古道具商を渡り歩く土方は一人の白い着流しの白髪頭の男から急に話しかけられていた。
二人の男は刀こそ抜いていないが、まるで瞳で斬り合いをしているように殺意をみなぎらせている。
「京で活躍したくば刀はいい物を持たねばならんよ。和泉守兼定の二代目・之定だ。これを君にあげよう」
「……酔狂な奴だな。気に入った。十両は貰っとけ」
「いらんよ。ただし、この刀を託す以上この京を騒がせておくれよ」
「騒ぐ? 血の雨なら降らせてやるぜ。徹底的にな」
「いい答えだ。そして歪んだ殺意に溢れたいい目をしている。それは鬼の目だね……あの男と同じ鬼の目だ。摩訶不思議、摩訶不思議」
そして、土方の話は終わる。
その途中、その組の一人が腹をくだしたらしく青ざめた顔をしていた。
斎藤一という男が川の水をすくって飲んだのが原因なのかわからないが、突如腹痛を起こしていた。それを見る京史朗は眉をかき、
(気付いてねぇようだから仕掛けてみるか)
十年ぶりの再開の為に試衛館一門も自分を忘れているなと思い、京史朗は堂々と腹痛を訴える斎藤という痩せ型の面ずれにより鬢が縮れている男の前に座る。
「これは古くから京に伝わる腹痛薬だ。これを飲むといい」
「……かたじけない」
斎藤が受け取ろうとする手に誰かが邪魔をした。
その魚顔の男は大柄の身体を平然と動かし、薬が入る袋を手に取り中身を調べる。
「中々よさそうな薬ではないか。今度腹痛になったらこの薬を飲むとしよう」
尽忠報国と刻まれた鉄扇を肩で叩きながら芹沢先生と呼ばれる男は大きな鯵のような顔を歪ませながら、京史朗の腹痛薬を飽きたかのように川に捨てる。
『……』
その行為に周りの十人ほどの仲間は何かを言うつもりは無いが、一部の男達は――いや、黒い着流しの厚ぼったい二重瞼の嫌味な色男だけは明らかな殺意を芹沢という男に向けていた。その芹沢は刀を持ち立ち上がり、自分と京史朗の人間としての立ち位置を教えるかのように言う。
「我等はまだ京の市民を信用しているわけではない。影ながら尽忠報国の士である浪士組の事を壬生狼からみぼろと呼んでいる事をこの芹沢鴨が知らぬと思うたか」
流れて行く腹痛薬の薬は川に沈んで行き、船は岸に着いた。
厚ぼったい二重瞼の男の視線は一瞬だけ緋色の着流しの男を怜悧に見据えた。
そして沖田はこの殺気立つ空気を感じないのか笑顔を崩さず、
「土方さん、大阪名物って何でしたっけ?」
「知らん」
土方は黒の着流しの裾を揺らし、腰の赤い帯を掴まれながら色白のやけに天真爛漫な少年のような沖田と共に大阪の地に立つ。
無言のまま他の浪士達も降りて行き、最後に残る京史朗は芹沢の将軍さえ恐れないような胆力に心が震えた。大柄の背中を揺らし歩いて行く芹沢などを見据え思う。
「……悪い事を堂々とするその胆力。これは斬る必要が無ぇな。伏見奉行所として使える可能性がある。いいじゃねぇか、壬生浪士組」
そして最後に緋色の着流しの鬼が大阪の地に立った。
※
その大阪の宿泊予定の旅籠の前の橋まで差し掛かると、三人の浴衣を着た力士が橋の中央を張り出た腹を突き出しながら歩いて来る。先頭を行く筆頭局長の芹沢と、次席局長の新見は足取りに変化は無く堂々と橋の真ん中を行く。このまま行けば双方のどちらかが退かなければぶつかるだけであるが、両者は歩みを緩めない。その時、背後の近藤派の顔に焦りの色が浮かぶ。芹沢はすでに脇差に手をかけているのである。
『……』
そして力士は立ち止まる。
「通せんぼ」
「……」
力士達の一人が道を通さないように両手を開いた。
まるでここから先へは行かせないぞ痩せ浪人といったような嘲る空気が芹沢達の肌に伝わる。
脇差に手をかける左手は動かさず、右手で顎をかく芹沢は新見に言う。
「新見君、大阪の地では相撲取りはこういう歓迎をするのかね?」
「いえ、そんな事はありませぬ。これは我等壬生浪士組を愚弄する――」
「行為のようだな」
新見の言葉の尻をつかまえた芹沢の脇差は鞘走り目の前の相撲取りは鬼籍に入る。
一瞬の事で力士側はまだ現場を理解出来ていないが近藤派とその背後で煙管を吹かす京史朗は気付いた。
やがて、騒然とし出す周囲の光景に芹沢は特に顔色を変えず力士の浴衣で血と白い油を拭い歩き出す。新見と片目に眼帯をしている平山などは青ざめる力士二人を恫喝するように刀の白刃をちらつかせ芹沢の後について行く。
そして近藤派もそれに続き、京史朗は溜息をつきながら人だかりになる橋を超えて壬生浪士組が入る旅籠の前の茶屋の前の床几に腰をかけて熱い茶と団子を頼む。
「そちらのだんなと同じものを」
すると、一人の合い傘に丸印の模様が入った黒い背嚢を担いだ小柄な京の町人らしき薬売りが京史朗の隣に座る。
「おう山崎。どうだ壬生狼は?」
「えぇ、毎日が忙しく命がけですがやりがいのある仕事です」
「男の命は使う時に使わねぇとならんのよ」
この腰の低い小柄な山崎丞に新選組隊士を勧めたのは京史郎だった。
武芸もそこそこ出来、志の高さを生かせる仕事をさせてやりたかったが、幕府の命により人の素性管理に厳しくなった奉行所では堂々と表舞台で働かせるわけにはいかず、京史朗も持て余していた所だった。
今は隊士見習いから昇格し、町人顔と薬の知識なども評価され監察方として薬売りに化けて市中の情報を探しているようだ。
「どうだあの土方という男は? あの男があの組の裏幕だろ?」
「そうですが、土方副長は山南副長と同格ですので二人の意見を参考に局長が決断を下す寸法ですね。最近は新見局長も芹沢筆頭局長と同じで隊務にあまり意見をしません。金策ばかりしていますからね」
「土方と山南……か」
茶を飲み干す京史朗は鬼と仏を思い浮かべる。
「山崎、これからは町で見かけても声をかけるな。どうしても声をかける時は小声で短くな」
「流石は奉行。壬生狼の闇に気付いていましたか」
「当然よ。あまり監察のお前が俺と親しくしていると、お前が土方に消される事になるからな。幕府の間者と勘違いされてな」
「疑わしきは罰する。それが土方副長です。では以後は奉行所へ薬売りに伺うついでに話があればしますよ。ではこれにて」
山崎はそのまま薬売りとして町中に消えた。
そして芹沢が起こした騒動は半刻もしない間に大事になった。
壬生浪士組一同が入る旅籠の周囲に殺された力士の仲間達が大勢現れて叫んでいる。
それを出迎えるように芹沢は茶付けを食い終わると悠々と外に出た。
それに続くように一同は筆頭局長に続く。
両者は対峙し、殺気立つ空気は荒れた風を巻き上げる。
それをじっ……と京史朗は床机に腰かけたまま眺めていた。
そして芹沢は言葉を発した。
「この会津中将の覇道の剣たる壬生浪士組筆頭局長芹沢鴨の天誅を受けたくば存分にかかってくるがよろしい!」
それはまるで源義経が武蔵坊弁慶と対峙した橋の上のような立ち振る舞いである。
聴衆は完全に芹沢の一挙一等則に呑まれ、土方の厚ぼったい二重瞼に殺意が具現化するようにきらめく。
それを顎をやや上げて見ている京史朗は、
(芹沢奴、人を斬り慣れてやがるな。……義経風の立ち回りが似合わねぇがとんでもねぇ魚野郎だ。これじゃあ、完全に力士側に非があるようにしか町民には映らん。大阪の内山のおやじもどうけりをつけるか知らんが、壬生狼は一筋縄じゃいかんぞ……)
これから始まる祭りを楽しむかのように京史朗は一介の浪人として見守る。
ここで壬生狼の結束と力を見ておく事は明日からの御勤めで必ず役に立つ。
角材を持つ浴衣姿の力士達は距離を縮めつつみぼろ! みぼろ! と壬生狼を揶揄した暴言の数々を吐いた。壬生浪士組の面々も一様に刀を抜いて構える。一同に緊張が走り、温い空気が流れて止まる。
この場の全員は決戦のような乱闘での斬り合いは始めてなのである。
すると、芹沢は魚がえら呼吸をするように目を丸くして息を吐いた。
「みぼろ……かいい渾名である。平山君、君はどう思う?」
それに眼帯をする平山は刃を一閃し答えた。
「芹沢先生の尽忠報国を汚すお言葉。死罪以外は間逃れないでしょう」
「死罪は貴様等だみぼろーーー!」
角材を持つ力士が芹沢に襲いかかる。
顎を引き腰を落とす芹沢は手に待つ刀をゆっくりと強く握った。
「尽忠報国っ!」
飛び魚が跳ねたような甲高い声で叫び丸太のように太い力士の首を飛ばした――。
『――』
町民だけではなく壬生浪士組の仲間でさえも背筋に冷や汗が流れた。
この一撃は沖田や永倉、斎藤といった近藤一派屈指の手練れでさえまだ出来ない。
人を斬る呼吸と、人を斬る覚悟や死線を超えている場数を踏んでいないからである。
京に来てから皆、人を斬って糞尿を垂らす事も無くなったがここまでの鮮やかさで人を斬るのは芸術そのもであり、この集団の筆頭を勤めるだけはある。
「我は芹沢鴨! 尽忠報国の士である!」
この芹沢の狂言のような立ち回りで大阪の民に壬生浪士組は少数精鋭の生え抜きの恐ろしい集団だという事が知れ渡り、不逞浪士達も次第にこの集団からは距離をおくようになった。何はともあれ、この芹沢鴨により京、大阪において壬生狼の存在は良くも悪くも知れ渡ったのである。
勢いを増す芹沢一派に負けじと近藤一派も果敢に動き力士を倒していった。
(強い……斬る呼吸も完全に掴んでいて相手の臍と臍がぶつかるまでの距離まで飛び込み刀を引いて斬るという玄人の技術がほぼ全員にある。だが、あそこの鬼神にゃむらがあるがな)
京史朗は瞳を笑わせ、突く技術と斬る呼吸を得ようと力士を生き達磨ように稽古材料として扱う目の色が違う厚ぼったい二重瞼の鬼を見据えた。そして、大阪の乱闘は集結した。
芹沢一派はそれから旅籠に戻り飲み続け、近藤一派は大阪町奉行所に一応の届けをし無礼打ちとし芹沢一派と合流し酒を飲んだ。その後、力士側から謝罪があり多額の金と共に双方は和解した。
だが、一人の男はこの件を許さなかった。
その男は米の相場から発展した幕府に対する反乱である大塩平八郎の乱でも活躍した大阪町奉行内山彦次郎であった。
この一件を境に荒ぶりを増長させる芹沢に土方は自分と会津の手に余ると確信した。
同時に、その騒乱を眺めていた京史朗も同じ事を思う。
(芹沢鴨……水戸の出身だったな。あの魚顔の大男はかなりのもんだ。近藤共も奴の下にいる限り自滅するだろう。早く始末しねぇといずれ京都守護職まで巻き込む事になるぜ)
この集団の最悪の事態はそう遠くない日に訪れる。
今日の騒乱を忘れられぬ京史朗は、体内の血の騒ぎが収まらず椿を抱きに深夜の鬼京屋に忍び込んだ。