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Chapter4  淫らな十五歳


Chapter4  淫らな十五歳


「えぇ~と一六八・五センチということは十五歳くらいね」

 女はイオタの身長を測り終えると、メジャーを注射器に持ち替え、ブスッと無造作に注射針を腕に突き刺す。

「前回の献血のときから一年経ったの?」

イオタは視線を泳がせたまま尋ねた。

「何言ってるの?意識が朦朧としてるのかしら?」

 前者はイオタに、後者は自分自身に女が問いかける。

「ぼくの血はどこへいくの?」

「いまさらって感じの質問ね」

 女はイオタの質問を鼻で笑ってあしらう。

「そうだね」

と言いながらイオタは自分の考えが間違っていないことを確信した。

 顔を殺風景なコンクリートの天井に向け、眼球を注意深く慎重に動かし、女の動きを観察する。

女がこちらを向くと、サッと視線を天井に戻す。

 三本目の血を抜いてる最中に、女が耳にかかっている髪をかきあげた。

 イオタはその一瞬を見逃さなかった。腕に刺さった注射器にガブッと噛み付く。そのまま躊躇せず、一気に注射器を噛み砕いた。

「きゃぁ~」

 唇に注射器の破片が刺さったままバリッ、バリッと注射器のシリンダーを咀嚼し続け、口の周りを真っ赤に染めたイオタを見た女は悲鳴を上げる。口を動かすごとにガラスの破片が唇に深く刺さり、口の中にも侵入してくる。女を脅えさせるには痛がる姿を見せてはいけない。

「な、な、なんのつもり……」

 女は心臓の動悸を和らげようと胸を両手で押さえる。吐き気を催すか、顔を背けることを期待したが、神経は図太いみたいだ。

「ひょっとひゃひゃけてくるね(ちょっと出かけてくるね)」

 満足に発音できず、ちゃんと伝わったかはそれほど問題ではなく、女の脅える顔を見れなくなるのが、イオタは心残りだった。

                  ★

                  ★

                  ★

 やっぱり……。

 イオタは目の前の光景を見て、落胆とも喜びともつかない複雑な表情を浮かべた。赤い幕が垂れ下がった薄暗い舞台の上に、ベッドで拘束されている現実の世界と同じ状況が揃っている。

 今回は演者側ということらしい。

 唇に痛みはなく、注射器を咬んで口を切ったケガはここへは持ち越していない。状況だけが、セットとして表現されている。

 ビィ~と開始のブザーが鳴ると、赤い幕が上がり始める。最前列中央の観客席にシータがキョロキョロ首を振りながら座っている。さらにふっくらとした卵型の顔は血色が良さそうだ。

「元気そうだね、シータ」

 イオタがベッドから起き上がろうとすると、手首と足首を巻いている皮の拘束具がスルスルッと簡単に外れた。

「これは、ど、どういうこと?ぼくは本を読んでいたはずなのに……」

 シータは脅えながらイオタを見詰める。

「そうだったんだ。もし階段を上っている途中だったら大ケガしているかもしれなかったのに残念だよ」

 イオタは軽く惨酷なことを言った。

「自分の血を飲んだの?もしかして、ぼくの血をあの女からもらって飲んだの?」

 シータからは動揺が伝わってくる。

「あの女に血を抜かれているとき、注射器に噛み付いたんだよ。一人ぼっちの舞台になる可能性もあったけど、血液ってなかなか洗い落とせないから注射器にシータの血液が僅かでも付着していれば、確実に舞台へ招待できると思ったんだ。それに飲んだ血の量の多い方が演者側になれるみたいで、大成功だね」

 イオタが自慢げに説明した。

「自分の正体には気づいた?」

 シータに質問され、イオタは脳内の赤い本を捲る。人間に血を飲む習性はなく、昔の民話に出てくる吸血鬼が自分に一番当てはまるカテゴリーだと判断した。血を吸う化け物として人間に恐れられているのに、十字架、日光、銀、ニンニク、聖画のイコンなど苦手とするものが意外と多い。

「人間が勝手につけたカテゴリーでいうと吸血鬼だね。でも、朝日を浴びたけど溶けてないし、よくわからないんだけどね」

「十字架を見ても太陽を見ても平気なのに、血を吸うというだけで吸血鬼と呼ばれているみたいなんだ。三十歳くらいで成長がストップするのも人間からすると自然の法則に反しているみたいで、薄気味悪いらしいけど」

 シータが自分よりも知識が豊富に感じたイオタは対抗心を燃やし、さらに他の記述がないか探した。すると『吸血鬼を殺す三つの方法』という見出しに突き当たる。

「厄介なのは、ぼくらを殺すには胴体から首を切断するか、灰になるまで焼くか、心臓に杭を打たないと殺せないというのが、吸血鬼の概念と一致させてしまっているんだね。あれ?おかしいな。吸血鬼のこともそうだけど、読んだ記憶のない本の知識があるのはどういうことなんだろう?」

 イオタは腕を組んで首を捻る。

「きっとイオタ君はぼくの血を飲んだことで、ぼくの知識を吸収したんじゃないかな」

「そういうことか」

 自分自身の努力で培った知識じゃないものがシータの知識で補っていたことが判明し、疑問が晴れてもイオタの顔は曇る。

「ぼくにはない能力だよ」

「シータに謝らないといけないね」イオタは笑いながら低姿勢な言葉で謝った。「ぼくの食事は君の血液だったんだね。ありがとう」

「そ、そうだよ」

 改めて言われたお礼は明らかに口先だけのような気がして、シータは舞台へ招かれた目的が歓迎の“か”の字もないことを悟った。

「ぼくのためにあんなに苦しい思いをしていたんだね」

 言葉とは裏腹にイオタの表情は険しくなる。

「立場が逆になってしまって……ごめん」

 シータは俯きながら謝る。

「いまさら遅いよ!」

 突き放す言い方をしてイオタが本心を表す。

「しかたなかったんだ」

「自分の身のためなら秘密を喋って、簡単に裏切るんだ」

 イオタが目を細め、やや顎を上げて言う。

「なんとか君を助けようと考えていたんだ」

 両手を広げ、シータが訴える。

「シータのやることはすべて演技に見える」

 イオタは卑しい嫌味を言う。

「ぼくのほうがあの本がある部屋で培った知識が多いから、君を助けられる可能性が高くなると思ったんだ」

「すごい自信だね。でもあそこにある本がそれほど役に立つとは思えないね」

 イオタの表情は冷め切っていた。

「ごめん、イオタ君に相談するべきだった」

「どっちが吸血鬼として相応しいか勝負してみない?」

 シータが謝ったことなど全く意に介さず、イオタは尋ねる。

「ぼくはイオタ君と闘う気なんてないよ」

「せっかく人間よりも勝っている力があるのに試したいと思わない?」

 イオタが不思議そうな顔をしてシータを見詰める。

「イオタ君は完璧な吸血鬼になりたいの?」

「完璧な吸血鬼?」

 完璧な吸血鬼という概念がわからず、イオタは眉を寄せて訊き返す。

「悪魔に心を支配されると理性を失って単なる化け物になってしまうかもしれないよ」

「それも読んだ本からの知識だよね?」

 イオタがするどい目付きで問う。完璧な吸血鬼とは悪で染まった化け物を意味しているらしい。

「そ、そうだよ」

「確か宗教的な本の一節に書いてあったかな。さっき自分が言ったこともう忘れたの?シータの知識は全てぼくの脳内の赤い本に書き込まれているんだよ」

 言ったあとで、イオタは深いため息をつく。

「赤い本って何?」

「ぼくの脳内には『ぼくの知識』というタイトルの赤い本が浮かんできて、そこへ知識がどんどん蓄積されていくみたいなんだ」さらにイオタは得意げに続けた。「いまは二本の角が生えた黒い化け物が赤い本を持って、自由に使ってくれるからぼくはすごく楽なんだ」

「それって黒い化け物に頭の中を操られているんじゃ……ないよね?」

 シータの背中にしっとり汗が滲み、半信半疑で尋ねた。

「自信はないけど、全ては操られてないと思うよ。最終的な判断は自分でするし、緊急に調べたいことがあれば自分の意思で赤い本を捲っていくつもり。脳内の黒い化け物はうまく利用すればいいのさ。シータもできるかもしれないね。やってごらん」

「イオタ君の心にはもしかして悪魔的要素が生まれてきてるんじゃ……」

 脅えた表情でシータが椅子から立ち上がる。

「悪魔的要素……確かあの女もそんなことを端末の相手に向かって言ってたな」

「すぐにその黒い化け物を脳内から排除するんだ。そうしないと本物の化け物になってしまう!」

 シータが大声を張り上げた。

「化け物になったっていいさ」

 イオタが一歩右足を踏み出し、シータしかいない客席に向かって台詞口調で言った。

「イ、イオタ君……」

「ぼくは赤い本に埋め込まれていく知識が増えることで、成長している気がする。君の血を飲んで夢遊病者のように彷徨ったとき、外の世界を見れた。すごく広いよ。血を飲んで、本を読んで、閉じ込められて、あの女の言いなりになるだけの生活は嫌だ!」

 誰もいない二階や三階の桟敷席に伝わるように大袈裟な身振り手振りで、イオタはミュージカル俳優を気取った。

「だから、もう少し我慢して!ぼくが助けるから」

「シータには無理だよ。あの女の仲間になってしまったからね」

 イオタは冷たい視線をシータに突き刺す。

「ぼくはあの女の仲間なんかじゃない!」

 シータは両手に握り拳を作り、悔しがるように言葉を吐き出す。

「信用できないね。この嘘つき!」

 イオタの声が劇場内に響く。

「嘘なんかついてない!」

 シータは反発した。

「この状況を見れば君が嘘ついていることは一目瞭然さ」

 イオタが片足の爪先でクルリと回転して、舞台をよく見ろと挑発する。

「舞台にぼくが嘘をついた証拠でもあるの?」

 イオタの仕種が馬鹿にしているように映り、シータの語気が強くなる。

「ぼくの舞台であの女が注射器を持ちながら登場してないでしょ」

 イオタは両手を大きく広げながら首を左右に振り、誰もいないことをアピールする。

「それは……」

「君はわざと自分が虐げられている舞台をぼくに見せたんだね。ぼくを同情させて、危険な行動に走るように仕向けた」

 イオタは舞台中央からゆっくり歩いてシータに近づく。

「ぼくの記憶の一部を見せただけだよ」

「わざわざあんな舞台を見せる必要はなかったと思うけどな」

 イオタは舞台の縁に座り、ぶら~んと両足を垂れ下げた。イオタとシータの距離は五メートルもない。

「ここから逃げる方法を考えた結果だよ」

「自分だけが……でしょ?」

 イオタが蔑んだ視線を向ける。

「そうじゃない」

「もう遅いよ」

 イオタはスローモーションのように首を振った。

「ぼくをどうする気?」

 何を言っても無駄なことがわかったシータは、イオタの目的を知るしかないと思った。

「とりあえずここで人質になってもらおうかな」

 イオタの目が怪しく光る。

「そんなことしてどうするの?」

「二人の意識が失っている状態だと臨床実験に支障が出るということになるし、あの女もぼくの血を飲んでここに来る以外に選択肢はないと思う。来ることができれば、の話だけどね」

 目的が女を舞台へ誘い込むことなんだとイオタは遠回しに答えた。

「君はあの女の恐ろしさを知らないんだ」

「シータは見事に交渉して、ぼくと立場を入れ替えたじゃないか」

 イオタの言い方は優しかったが、シータにはそれがかえって怖かった。

「あの女から有利な条件を引き出そうなんて思わないほうがいい」

「シータよりも交渉上手なところを見せてあげるよ」

 自信満々な顔でイオタが宣言する。

「無理だよ」

「そうかな」

と言ってイオタはパチンと指を鳴らす。

「あっ!」

 シータが驚きの声を発したとき、すでに輪になったロープが頭から通され、観客席の椅子と一緒にぐるぐる巻きにされていた。

「君の真似をしてみたよ。本当に何でもありの世界って便利だね」

 イオタが踊るようなリズムで喋る。

「無闇に力を使わないほうがいい。体にどんな影響が出るのかわからないんだから」

「副作用みたいなものが出るとは書いてないけど」

 イオタは頭の中の赤い本を速読する勢いで漁ってみたが、舞台で力を使った後のことはなにも書いてなかった。

「ぼくの血をもっと飲めば答えが出るかもしれない」

 シータが自虐的なことを言う。

「へぇ~血を飲む量が増えれば知識が増えたり、もっと古い過去がわかったりする可能性があるということかな」

 口調こそ関心を装っている感じだったが、想定内のことだったのかイオタの表情にさほどの驚きはない。

「ぼくらは血を飲めば、その血の主の過去が舞台として見えて、知識となって培う。ぼくの経験だと、少ない量を飲んだとき、現実の世界で気を失っている時間の経過も比例して少ないと思う」

 シータはイオタの態度などお構いなしに説明を続ける。

「あぁ~もうわかったよ。そんなことより、ぼくらは血の繋がった兄弟なの?生みの親はいる?そもそもどこから生まれてきたの?」

 うんざりした顔をしたあと、イオタは過去の記憶の基礎となるものをどうしても知りたくなって質問した。

「知らない。君の血をたくさん飲ませてくれたら、記憶を辿って調べてあげてもいい」

「断るよ。ぼくがシータの血を全部飲んで調べれば済む話だから」

 お互いの血を飽きるまで飲んでみたいという衝動は抑え切れないところまできていた。

「もう隠し事はないよ」

「痛めつければ何か出てくるんじゃないかな?」

 イオタが顔を歪ませてパチンと指を鳴らす。

「うっ……」

 ロープがまるで生き物のようにシータの体を締め上げた。

「拷問の知識が少ないから単純な方法しか思い浮かばなくてごめんね」

 イオタが卑屈に笑いながら謝る。

「そこまでにしなさい」

 厳かな声が奥の方から飛んでくると、闇と同化していた黒い影が徐々に取り払われ、観客席の間の階段を下りてくる。

 イオタは天井のシャンデリアの輝量を増やした。

「遅かったね」

 イオタは大人びた口調で言ってみた。

「ごめんなさい」

 まるで恋人同士みたいに女は言葉を返す。

「聞きたいこと一杯あるんだけど」

「時間があまりないのよ」

 女は面倒くさそうな顔をしながら左腕の腕時計をチラッと見た。

「そんなに長くはならないと思う」

「お調子者のくせに、ずいぶん生意気な口の利き方をするようになったのね」

 女が棘のある言葉をかける。

「もう一度お調子者と言ったらただじゃすまない」

「怖いのね」

と言っている女の顔に恐怖の色はない。

「まず、名前を教えてくれないかな」

 イオタは腰を下ろしていた舞台の縁から、観客席の方へ飛び下りた。

「私の名前が知りたいの?何度も自己紹介したはずなのに覚えてくれないのね」

「記憶が戻る自信がないんだ」

 下水道で女と会った以前の記憶は思い出せないが、何度も同じことを訊かれたんだろうなとイオタは感じた。

「仕方ないわね。これが最後よ。私の名前はジェーン・ドゥ」

「典型的なアジア系の顔なのにそんな名前なの?」

 イオタは顔と名前が一致しないことへの疑問を抱いた。

「髪を金髪に染めたら意外と西洋人に見られないこともないのよ」

 女が前髪を指で摘みながら答える。その手前で縛られているシータがため息をついたのをイオタは見逃さず、すぐに脳内の赤い本を開く。

「ジェーン・ドゥとは名前がわからないときに身元不明者などにつけられる仮の名前。男の場合はジョン・ドゥ。アメリカの警察内部や裁判の訴訟で使われ、最近では五十一番目の州となった日本でも活用されることが目立ってきた呼称。ジェーン・ドーンと発音する場合もある」

 イオタは赤い本に書いてあったことを機械的に述べた。

「あら、よく知ってるわね」

「シータの知識を借りただけさ」

「これから私のことをジェーンと呼んでね」

 女はウインクしてみせた。

「ふざけるな!」

 ジェーンという名前が本物の可能性は低く、完全になめられていると思ったイオタは腸が煮え繰り返った。

「そんな汚い言葉、どこで覚えたのかしら」

「ぼくの感情が予期しない行動に駆り立てるのさ」

 イオタは身長だけじゃなく、考え方が変化してきているという自覚があった。自分で制御できるものではなく、吸血鬼としてごく自然なことなんだと理解するようにした。

「自分で感情をコントロールできなくなってきているってこと?ひょっとして無慈悲で不埒な悪魔的要素の心が目覚めたの?」

 女は目を輝かせて訊く。

「名も無き死体さんから開放されるなら、悪魔でも何でもなってやるさ」

「名も無き死体?」

 女が眉をひそめて訊き返す。

「ジェーン・ドゥをぼくなりにわかりやすく日本語風に訳しただけ」

「私を馬鹿にしてるの?」

 女は意味ありげに目を細くする。

「いままでの仕返しだよ」

「気はすんだ?」

「まだまだだよ」

 イオタは優雅に首を横に振ってみせた。

「どうしたいの?」

「血を飲んで本を読むだけの窮屈な生活や監禁生活から開放してほしい」

「あいにくそれは無理な相談だわ」

 女がにべもなく断る。

「してくれないと、一生ここから出さない」

「それは困るわねぇ~」

と言った女は笑顔を滲ませ、全然困っている感じがしない。

「名も無き死体さんは、どんな拷問にしようかな」

 イオタも負けずに拷問方法が閃くように頭を絞る。

「それは困るわねぇ~」

 女はさっき言った言葉を呪文のように繰り返す。

「あぁ~そうだ。まず手始めに注射器を齧って血だらけになる映像を永遠に見せてあげようか?」

「へぇ~そんなことができるんだぁ~」

 女は手を伸ばせば届く距離までイオタに近寄る。

「できるさ」

 イオタはパチンと指を鳴らす。だが、何も起らない。

「待って、舞台に大きなスクリーンを張って、ぼくが注射器を齧ったシーンを映し出してあげるから」

 パチン、パチンと何度指を鳴らしても、舞台に変化の兆しは見られない。

「紫外線でないと確認が難しい微量なシータ君の血液が注射器に付着していたから、あなたはシータ君をあなたの記憶の中へ引きずり込むことに成功した。ちゃんと注射器を洗浄しとけばよかったわ」

 女はイオタの行動とは無関係なことを喋り、自らに反省を促す。

「シータをロープで縛ることはできたのにどうして……」

 イオタは何かミスをしていないか頭の中で整理する。

「それは簡単。過去の記憶にないものを突如として出現させる場合は、もっと小規模なものにするべきね。スクリーンなんて大規模な仕掛けをいきなり出すなんて欲張りすぎじゃない?」

 女が湾曲した惨い目付きをして簡単に答えを出す。

「ぐわっ……」

 女の手がイオタの首を鷲掴みして持ち上げ、体を宙に浮かせる。

「あなたはとんでもないことをしたのよ」女の語気は荒く、徐々に声が大きくなる。「私達が自らの血を飲むことは禁忌なのよ!」

「じ、自分の……血を飲んで、自分のき、記憶の中に入るの……は……自由じゃないか」

 イオタは首を絞められながらも言葉を吐き出す。

 禁忌という言葉の意味を赤い本がすぐに教えてくれた。縁起が悪く、恐ろしいものに触れたり、口に出したり、してはならないことなど、言葉自体は理解できたが、自分の血を飲むことがどうして禁忌という言葉と結びつくのかまでは書いてなかった。

「どうしてくれるのよ?ねぇ、本当にどうしてくれるのよぉ~」

 女の目は血走り、憎しみに燃え、片腕一本でぶん投げられた。イオタの体が椅子を破壊し、破片が飛び散る。雨のように降り注ぐ木片は過剰ともいえる演出に思えた。痛みが思ったほど感じないのが不思議だった。

「こ、ここで力を使ったことあるの?」

 イオタは立ち上がりながら訊く。

「どうかしら」

と、女はとぼける。

「もっと破壊力のあることをしたい場合はどうすればいいの?」

 どうせ答えてくれないと思いながら、強くなりたいという欲にイオタは逆らうことができず、この期に及んでアドバイスを求めた。

「どうかしら」

「ぼくらは実験材料なの?」

イオタは服についた埃を払いながら訊く。その間に脳内に存在する二本角の黒い化け物に『なんとかしろよ!ぼくが死んだら君も死ぬんだぞ』と、発破をかけた。

黒い化け物が眼を光らせ、軽く会釈したように感じた。

「どうかしら」

「突発的な感情の起伏が思わぬイレギュラーを発生させる可能性はないかな?」

イオタの口から勝手に言葉が出た。自分の意思とは無関係に脳内の黒い化け物に操られ、抑揚がなく感情のこもっていない喋りになったが、身を委ねた効果があったらしく、どうかしら、という台詞を出さずに女は無口になる。

「答えないってことは正解かな。ということは、ぼくにも勝ち目が出てきたかな」

 女の反応でイオタには答えが見えてきた。

殺意を感じる女の傲慢な態度、自分だけがかわいいシータの保身による裏切りを憎しみや復讐というエネルギーに変えた。体中の血がグツグツ煮えたぎる感情を指に集中させ、パチン!と鳴らす。まず椅子と一体化していたシータのロープを解き、壁にかかっているブラケットランプをカタカタと小刻みに震えさせ、天井のシャンデリアを振り子のように大きく左右に揺らした。劇場内の装飾品を使い、脅えさせてから床の上下運動を開始する。

「これって……」

劇場内を見回す女とシータは足元をフラフラさせながら、なんとかバランスを取る。自ら引き起こした地震を予知していたイオタは椅子にしがみ付ついていた。

「ダンスを見せてよ」

 イオタはさらに激しく劇場の上下運動を繰り返すようにイメージして、女とシータを立てない状態にする。床に這いつくばったところで揺れを止め、「これでフィニッシュ」と指を高らかに鳴らす。シャンデリアと天井を繋ぎとめる座金板のナットが回転して外れ、ネジが弾丸の速度で飛び、女の上に落下してホワイトクリスタルが粉々に砕け散る。

「シータ、君はどうしてほしい?」

 具体的な処刑方法をリクエストするイオタの顔は醜悪だった。

「ぼくを相手にするのは、まだ早いかもしれないよ」

 シータは真剣な顔で落ちたシャンデリアの方向を見ていた。

軽度な爆発音のあと、埃が舞い、その中に女が中腰の体勢で立っている灰色の影が映る。

「いま現実の世界で眠っている私は、シャンデリアの下敷きになるひどい悪夢にうなされているところかもしれないわ」

 女の淡々とした口調には怒りが十分過ぎるほど伝わってきた。

「ちぇ、ダメージは悪夢を見せる程度なんだ」

 残念とばかりに舌打ちしてイオタは強がる。

「でもね、この世界で殺すことで、現実の世界の体を死に追いやることはできると思う」

 女が力を込めて目を見開く。

「どうやって?」

「こうやって」

 女は腕を振った。と同時に死神が持つような大きな鎌を握る。グリップエンドのところにスカルが彫られ、ガラス細工なのか緩やかな曲線を描く刃と共に怪しく光っていた。

「首を斬るにはちょうど……」

 イオタが滑稽なデザインの鎌を揶揄しようとした矢先、女は椅子を土台にして高々と飛んで一気に距離を詰める。

「この世界で死んだらどうなるか見物だわ」

 女は大鎌を振り回し、イオタに反撃する隙を与えない。なりふり構わない狂気染みた動きではなく、何かの規則性に則ってコンパクトに振ろうとしている。

ただ残念なことに大き過ぎて重さもあるようで、大鎌を振るごとに「はっ、はっ」と息を弾ませ、イオタにはスイングの軌道が読めた。受け身の練習みたいで、後退りしながら頭を引っ込め、簡単に攻撃を避けることに成功できた。

 しかし、すべてに必ず終わりがくるということをイオタは知らなかった。ドン、と背中が劇場の壁にぶつかった。それまで規則正しかった大鎌の振りをピタリと静止し、女はこの時を待っていたとばかりに白い歯を見せる。

「死んで新しい情報を提供してね」

 女が大鎌を振り下ろす。

 イオタは自分の記憶の中で埋没し、現実の世界で意識混濁の植物状態になる自分の姿を想像してしまった。武器の一つや二つ出すことができず、最期にネガティブなことしか思い浮かばないのは、まだまだ未熟だったと諦めに近い感情が駆け巡る。

 ザクッと肉を突き刺す大鎌の刃の鈍い音が耳に、そして、大量の飛沫血痕がイオタの顔にかかった。

「シ、シータ?」

 イオタは眼球を飛ばす勢いで驚く。

「ジェーンさん、もういいんじゃないですか?」

 シータは俯いたまま声を発した。腕には大鎌の刃が食い込んでいる。

「もうちょっと楽しみたかったんだけど」

「ぼくには本気でとどめを刺すように見えました」

 二人の会話が頭の上で飛び交い、勝負を預からせてもらう、という行動がぴったりのことをしたシータの思惑が不透明で、イオタは声をかけることもできない。

「あら、わかっちゃった」

女がシータの腕から大鎌を引っこ抜くと、ピシャとシータの腕から血が吹き出す。

「でも、止めに入ることも待ってたんでしょ?」

 シータは自分の手で出血を抑えながら尋ねる。

「さぁ、どうかしら」

 女は曖昧な答え方をして答えを濁す。

「イオタ君、君は試されたんだよ」

 シータが視線をイオタに向けた。

「試された?」

 イオタは警戒心を持続させながら訊く。

「どうやらジェーンさんは組織から首を切られて大変らしいよ」

「首を切られて?」

 女の首がついていることを不思議に思いながらイオタは訊き返す。

「首を切られるってことは組織を解雇させられたってことさ」

 物理的に首を切られた?と勘違いしたことをシータに見抜かれてしまった。イオタは脳内の赤い本を開き、首を切る、という言葉が、ある定まった意味を持つ慣用句であることを確認する。

「露骨に言うのね」と、女は苦笑する。「でも、どうして解雇されたなんて具体的なことまで知ってるのかしら?」

「二階からイオタ君を運んでいるとき、引っ掻いた血が爪に僅かに付いていて、舐めてみるとジェーンさんの記憶でした」

 端末で誰かと連絡を取り合っているところを覗いているのがバレて、首を咬まれた後のことをシータは言っている。牢屋のような部屋まで運ぶように命令され、隙を見て血を舐めたのかもしれないとイオタは思った。

「どんな舞台を見たのかしら?」

 女は穏やかな表情で尋ねる。

「血が微量だったので、短い時間でしたが、ジェーンさんが端末で連絡を取り合っていた男に解雇を告げられている場面でした」

「それは嘘ね。この子に後をつけられたときは、まだ解雇されてないのよ。あなた、私が寝てる間に血を吸ったわね」

 もしシータが女の血を吸ったのなら怒りは測り知れないはずなのに、女から攻撃的な気配を感じない。

「吸ったというより、イオタ君につけられた引っ掻き傷を舐めた程度ですけど」

 あっさりシータが認める。寝ている女の傍らに立ち、舌で舐めるという淫らな光景をイオタは想像してしまった。

「どうしてそんなことを?」

シータがそれほど危険を冒してまで知りたかった記憶とはなんだったのだろうと、イオタは興味がわいて訊く。

「イオタ君の具体的なケガを知りたかったのさ」

 シータがニコリと微笑み、イオタには嘘偽りのない透き通った笑顔に見えた。

「痛みを感じるの?」

 イオタは心底心配したわけではないが、庇ってケガしたことは間違いなく、優しい言葉くらいはかけてもいいかなと判断した。

「正直少し感じる。この世界のことはまだわからないことばかりさ」

「きっと痛みをイメージしてしまうからだと思うわ」

 イオタの質問に女が答えた。

「鎌が腕に刺さったら、誰でも痛みをイメージしてしまうよ」

 シータの顔には、手上げだよ、という文字が浮かぶ。

「そうね。私もこの子に攻撃されて痛かったわ」女は服についた埃を払いながらシャンデリアの下敷きにされたことを愚痴ったあと「劇場全体を揺らすなんてすごい集中力ね」と、褒め言葉をかけた。イオタはどう反応すればいいのかわからない。

「イオタ君、黒い化け物に支配されちゃいけない。いずれ黒い化け物は君を押し潰す」

 シータが静かに忠告する。

「シータはぼくの力がうらやましいんだろ」

 脳内の黒い化け物が薄く笑った気がすると、自然と言葉が出た。

「違うよ」

 シータは即座に否定。

「ぼくは、まだ信用できない」

 イオタは女とシータから一歩離れる。

「どうすれば信用してもらえるのかしら?」

 女が大鎌を捨て、腕組みしながら訊く。

「嘘を言わなければ信用する」

「何が聞きたいのかしら?」

と尋ねながら、女はまた腕時計を確認した。

「どうして血を抜いて実験してるの?」

「吸血鬼には特殊能力が授かる場合があって、人間達はそのメカニズムを解明したいのよ。善用か悪用したいのかは知らないわ。あなた達は血を吸うと、その血の主の記憶が舞台となって見える……でいいのよね?」

 女は事も無げに打ち明け、能力の再確認をしてくる。

「ぼくは全ての吸血鬼が記憶を舞台で見れると思ってたよ」

「あなた達の能力は珍しいタイプだと思うわ」

 女の言葉には引っ掛かる点がある。“あなた達”という部分を強調しているような気がしてならない。女も同じ能力を持っているはずで、どうして“私達”と言わずに自分を外す言い方をしたのか、イオタにはある答えが浮かんだが、いまは認めたくないという気持ちが強く、自分から口にするのはためらった。

「ぼくらはどこから生まれてきたの?」

 イオタは違う角度から質問してみる。もしかしたら、女の方から言ってくれるんじゃないか、という可能性にかけてみた。

「あなた変わってるわね。どこから生まれてきたのかなんてそんなに知りたい?」

「ぼくにも同じことを聞いたね」

シータが、そんなに大事なことなの?とでも言いたげに戸惑い気味の顔をつくる。

「自分のルーツを知りたいと思うのは当然のことだと思う」

 イオタは真面目な顔をして言った。

「あなた人間みたいなこと言うのね。あっ、だから悪魔的要素が脳内に分泌したのかしら」

女はクスクス笑う。

「教える気あるの?」

 イオタはやや強い口調で問う。

「世の中には知らないほうがいいこともあるのよ」

 女が答えを焦らす。

「ぼくは知りたいんだよ」

「あとで教えてあげるから交換条件にしましょう」

 女は強引に取引を持ち出そうとする。

「取引なんてしない。力ずくで聞きだす」

 イオタは右手を上げ、指を鳴らす準備をした。銃や刃物、落とし穴など様々なイメージをふくらませる。

「イオタ君やめるんだ!」

 シータが必死の形相で駆け寄り、しがみついてイオタの右手を握る。

「邪魔だよ」

 イオタはシータの手を払った。

「聞くだけ損はないと思う」

「この女と取引する義理はない」

 イオタが冷たく言い放つ。

「あら、ずいぶん嫌われちゃったのね」

 女が不貞腐れたように顔を横に向けた。

「ぼくらよりもジェーンさんはこの世界のことを把握してるのは事実だよ。ぼくらを閉じ込めてしまう可能性だってあるんだ」

 シータがイオタの両肩を掴み、揺すって、目覚めるように諭す。

このままではシータが邪魔で、女の隙をついて攻撃するのは難しい状況だとイオタの脳は処理した。

「わかった話だけでも聞くよ」

 イオタはゆっくりシータの体を引き離す。

「話してもいいの?」

 女がイオタの顔色を窺って訊く。

「聞くだけだからね」

 イオタは口を尖らせて子供っぽい仕種をした。

「どこでどうやって生まれたのか教えてあげるかわりに、これからやって来る黒衣部隊を始末するのを手伝ってほしいの」

「黒衣部隊?」

 聞き慣れない怪しい響きのする言葉をイオタが確認する。

「黒衣部隊は吸血鬼を始末するために結成された部隊で、もうじき屋敷に到着するわ」

「どうして?」

 イオタは急展開すぎる話の内容を疑わずにはいられない。

「あなたが禁忌を犯したからよ。自分の血を飲むという行為は悪魔的要素が感じられて人間に危害を及ぼす危険性があるから、始末することになってるの。あなたに関わった全員が始末されるわ!」

 女は語尾に力を込めて恐怖を煽った。

「どうして禁忌を犯したことが組織にわかったの?」

「私が端末で教えたからよ」

 女が予想外の答えを言う。

「なんでそんなことをしたの?」

 イオタには自分の首を絞めるようなことをした女の意図がわからない。

「それだけ禁忌は重いものなのよ。判断ミスになってしまったけれど、正直私もあなたが怖くなって組織に助けを求めたの。いつ悪魔的要素一〇〇パーセントで心を真っ黒にした吸血鬼になるかわからないものね」

 女の顔には後悔の念がくっきり浮かんでいる。きっと注射器を齧った場面を思い出しているのだろう。

「禁忌って人間がつくったものなの?」

「そうよ」

「人間の言いなりなんだ」

 禁忌というものはてっきり吸血鬼がつくったものだと思っていたイオタがガッカリする。

「あのね、人間は自分達の体内にピコマシンを注入して自らの身の安全を勝ち取ったの。もし吸血鬼が血液と一緒にそのピコマシンを飲んでしまうと、好き勝手に操られてしまうのよ。私は人間を襲わないかわりにここであなた達を実験する道を選んだの。苦渋の決断だったわ」

 女は悲しげな表情で説明する。

「ぼくらの体内にそのピコマシンは入ってる?」

 人間達の科学力に屈しているだけでしょ、という非難する言葉が出かかるのをイオタはなんとか食い止めた。

「血を飲んで記憶を失っているとき、街で人間を襲っていればピコマシンを飲んでいることも考えられるけど、可能性は低いと思うわ」

「ぼくらの血を注射器で楽しそうに抜いているように見えたのは気のせい?」

 イオタは意地悪な質問を浴びせてみた。

「あれは新鮮な血を見た吸血鬼の本性が出ただけ」

 女は唇を歪めて薄く笑う。

「ちょっと話しがおかしいんだけど」

「どこがおかしいの?」

 女が訊き返す。

「もうじき屋敷に到着することを知っているということは、ぼくらを殺すために黒衣部隊を送り込むぞと、わざわざ連絡してきたってことにならない?」

 イオタが疑問点を衝く。

「連絡をくれたのは仲間よ」

「へぇ~スパイがいるんだ」と言ったあと、イオタは「ということはジェーンさんもスパイ?」と追及してみる。

「スパイ?そうねぇ~吸血鬼側からすると人間のスパイかもしれないわね」

「えっ?黒衣部隊にいる吸血鬼は仲間じゃないの?」

 女の正体がわかってきたと思ったところで、イオタの頭は混乱する。

「仲間といっても人間のような馴れ合いじゃないから。連絡してくれたのは事務的な手続きのようなもので、死の宣告に近いわ」

 女の話しを聞いて、吸血鬼同士の関係がとてもドライなことがうかがえる。

「でも、その仲間の吸血鬼に必死に頼んで何とかしてもらえないの?」

イオタが食い下がるように尋ねた。

「吸血鬼に仲間意識や妙な期待は持たないほうがいいわ。それに黒衣部隊には幹部になった吸血鬼もいるんだけれど、そいつはとても危険よ」

「さっき始末してほしいって言ったけど、逃げたほうが早いんじゃない?」

 それまで黙って聞いていたシータが目の前に迫る危機への解決策を探る。

「無駄よ。時間もないし、奴らはどこまでも追いかけてきて必ず作戦を遂行するわ」

「結局、ぼくらを殺すってことに変更はないんだね」

 イオタは肩をすくめる。

「そうね。何かいいアイディアない?」

 女が深刻な顔で訊く。

「部隊は何人?」

と、イオタが尋ねる。

「吸血鬼とはいえ子供と女相手だから三十人程度の一個小隊かしら」

「とりあえず三十人を始末すれば、ひとまず逃げる時間はつくれるんだね」

 イオタの目に怪しい光りが宿る。

「そうね。そのあとのことは保障できないけど」

 女の言い方は困難な未来を暗示していた。

 シータの顔は暗くなったが、外の世界を見た経験があるイオタは逃げ切れるだけの広い大地、そしていまの生活から脱却できるかもしれない明るい未来に期待がふくらむ。

「黒衣部隊を一人残らず、ぼくの記憶の中に閉じ込めればいいだけの話しじゃない」

 イオタは自然な笑顔で、作戦の概要を話す。

「そんなことできるわけないよ。全員に頭を下げて血をもらって飲むのかい?」

「それともあなたの血をトマトジュースだと言って皆に飲ませてあげるのかしら?」

 シータと女には荒唐無稽なアイディアとしてイメージしてしまったらしく、反対の意思が伝わってくる。

「そんなことしないよ」

と言ったあとで、イオタは作戦の具体的な中身を打ち明けた。

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 目が覚めるとイオタはベッドで拘束された状態だった。

飲んだ血の量で目覚める時間が左右される場合と、複数で劇場内にいるときに一人が目を覚ますとほぼ誤差なく他の連中も現実の世界へ戻ってくる場合もあるようだと女が教えてくれた。ただ最後に、あなたの力のせいかもね、とも付け加えた。

図書館のような部屋で気を失っていたはずのシータがすぐにやってきた。

「もう少し遅かったら出血多量でぼくはイオタ君の記憶の中で埋没していたかもしれない」

 そう言いながらシータは拘束具のベルトを緩め、イオタの手と足を自由にする。

シータに大鎌の刃が刺さった腕を庇う様子もなく、自分も観客席に叩きつけられたときの痛みが全くないことから、どうやら舞台で認識できるのは死という最終局面だけなのかもしれないとイオタは感じた。

 現実の世界で自ら引き起こした注射器を咬んだ傷は完全に癒えてなかったが、血をうっかり飲まないように気をつけながら口の中に刺さっているガラス片を取っていると、破片にも指にも血がつかなくなった。これは吸血鬼独自の再生能力が、僅かでも備わっているのではとイオタは推測した。

「やっぱり首ごと切り落とすのが確実かな」

 イオタは自分だけが気づいたかもしれない情報を悟られないために、黒衣部隊の殺し方を思案している振りをしたのだが、シータは自分のことを言われたと勘違いしたのか、一瞬びっくりしたような顔をした。

「そうね。なんなら黒衣部隊をあなたの記憶の中でペットとして飼うことも有りだと思うわ」

 女が冗談っぽく言う。

「それはごめんだよ。とてもじゃないけど面倒見切れない」

 イオタは両手を振って拒否する。

「でも、大丈夫かな?」

シータが不安を口にする。

「やるしかない」

イオタが不安を解消するかのような笑顔を向けた。

「私は車を見えないところまで移動させるわ」女は腕を組んで部屋から出ていこうとする間際に振り返り「それと、私のことはジェーンと呼んでよね」と軽くウインクして去っていく。

「ジェーンさんは信用できると思う?」

 完全に足音が消えたところでシータが訊く。イオタが逆に質問したかったくらいで、先に言われるとは思わなかった。

「ぼくはまだシータも信用したわけじゃないよ」

 イオタは真顔で答える。

困った顔をするシータを見てもイオタは表情を崩さない。

 イオタとシータも牢屋のような部屋から離れた。湿気による水滴が落ち、螺旋状に曲がる灰色の石造りの階段が滑りやすくなっていた。裸電球が垂れ下がっているだけで薄暗く、霊場、強制収容、拷問という言葉が相応しい雰囲気を醸し出している。ねじ上がるように階段をぐるりと一周すると、一階の大階段の裏側に辿り着いた。

「こんなところに地下の入口があったんだ」

 イオタが漠然とした感想を口にする。

 それから二人は初めて共同作業というものをした。時間が思いのほかかかったのだが、あまり達成感は味わえなかった。

「もし作戦がうまくいったら、イオタ君はどうするの?」

 キラキラ光る床をイオタが眺めていると、シータが探るように質問する。

「街へ逃げるよ」

「それからどうするの?」

「自分の居場所を見つける」

 黒衣部隊を始末できたら、二人で行動を共にしたいと言われるんじゃなかと思ったイオタは、一人で生きていくというニュアンスを出して素っ気無く予防線を張る。

「そうなんだ」

と、シータが俯く。

「少し血をくれたら、シータが嘘を言っていないことを確かめるために舞台を見てきたいんだけど……」

 イオタはそれとなく仲を修復するチャンスを与えてみた。

「わかった」

 シータはキラキラ光る床から一つの破片を掴んで自分の指を切り、中指を差し出す。指の腹に赤くて丸い粒がぷくっと浮き出てくる。

「飲む量によって舞台を見る時間が具体的にどんな風に左右されるのかまだよくわからないし、ぼくが望む場面を見られるかもわからない」

 せっかく血をくれても無駄に終るかもしれないことを伝えた。

「イオタ君の力なら時間軸を自在に操ったり、現実の世界へ戻るタイミングも計れると思うよ」

「そうかな」

と言ってイオタはシータの指を掴む。

 舐めようと舌を出したとき、風を切り裂くモーター音が外から聞こえた。

「残念」ガクッと頭をたれ「意外に早かったね」とイオタは苦笑いを見せる。

「なんか緊張するな」シータはフゥ~と重そうに空気を吐き出す。そして手を振り「また会えるといいね」と、ニコッと笑って肖像画のある部屋から出ていく。

 イオタにとって別れの挨拶をされたのは初めての経験で、シータの笑った顔が脳裏から離れない。意識してしまったのは自分が孤独という感情に負けそうになっているからじゃないかと自分を訝り、頭の中でシータの笑顔を押し潰す。

 次の準備のために西洋人風の年老いた男が描かれた肖像画のところへ向かう。ジェーンという女が言うには肖像画の奥に隠れるスペースがあるらしい。金色の額縁の下を手前に引くと、隠し扉のように肖像画が手前に持ち上がる。肖像画の上部の裏側に壁と連結する蝶番がついていた。押入れのようなスペースが存在して、中に入り、額縁から手を放すと、肖像画がパタンと閉まる。闇が支配する中、二つの穴から光が射す。髭の両端がぴょんと跳ね上がった西洋人風の年老いた男の目が覗き穴になっていて、建てた主の悪趣味さがわかる。

 モーター音が大きくなると、ガラスのない側面窓の木枠が壁ごとカタカタ揺れた。迷彩色のヘリコプターが地上一〇メートルの高さでホバリングし、垂れ下げたロープを伝ってアサルトスーツにサブマシンガンを構えた黒衣部隊が次々下りてくる。全部で三機のヘリコプターから二十四人が降りてきた。予想よりも若干少ないが、隊列を乱さず迅速に屋敷を取り囲む姿を見てしまうと、イオタは本当に成功するだろうか?と不安になった。臆病風に吹かれそうな自分に喝をいれるため、拳で太腿を叩く。

 先頭の隊員が指で示すと、後方の隊員が前進して侵入を試みる。大人が入れる大きな窓があるのはこの部屋くらいで、すでにガラスが割られているのであれば中の様子は丸裸。大半が肖像画のある部屋の窓から入り、イオタとシータが外から石を投げ、さらに床にまんべんなくガラスの破片を敷き詰めた苦労が報われた。残りの隊員は正面玄関前で待機している。

 ジェーンさん、出番だよ!

 イオタは心の中で祈った。

 ジェーンからアクションが起きなければ、作戦は全く意味のないものになってしまう。

 しかし、何も起らない。

 イオタは穴に両目を擦りつけるようにして外を見る。ゾロゾロ屋敷内に入ってくる黒衣部隊はテーブルの下を確認したり、部屋に仕掛けがないかサブマシンガンの銃口で壁を突いて調べている。

 一人の隊員が肖像画に訝しげな視線を向けた。目が合ったわけではないが、瞬きすると気づかれてしまう恐れがあるのではないかと思ったイオタは目を見開いた状態で息を止める。隊員がサブマシンガンを構えながら、ゆっくり肖像画に近づいてきた。銃口で肖像画を押しはじめ、違和感を探るとボコッと凹み、奥に空洞があることを知られてしまった。

 やっぱり信用するんじゃなかったと、後悔よりも自分の浅はかさに嫌気がさす。

 脳に意識を集中させ、赤い本を抱える黒い化け物に絶望的な状況で逃げる作戦を尋ねた。 黒い化け物は赤い本を開けようともせず、腕を組み、頭を下げ、寝たふりをしている。

 肝心なときに役に立たない奴ばかりだ!

外にもれない程度にイオタは舌打ちする。

 こうなると飛び出して咬むという単純な作戦しかない。しかも咬んで血を飲んでしまうと意識を失ってしまうので、唇や歯や舌についた血を口の中へ含まないように注意して攻撃しないといけない。複数を相手にするときイオタの能力は厄介な代物となる。

 肖像画を怪しむ隊員が、傍にいた隊員に視線を合わせると顎で示して応援を求めた。手が自然と握り拳になり、先制攻撃を仕掛けようかと思ったとき、外から騒がしい音が聞こえてくる。ヘリコプターがさらに高度を上げて高みの見物をしているその下を、真っ赤なスポーツカーが車体を揺らしながら走ってくる。

イオタは心の底からほっとした。車の底に小石が当たっているのは確実で、運転しているジェーンはかなり不機嫌な思いをしているはずだし、数秒後のことを考えると、それなりの覚悟を決めてきてくれたことに感謝しないといけない。

 隊員達が一斉に外を見る。運転席のドアが開き、ジェーンが飛び降り、衝撃を少しでも和らげようと地面を転がってゆく。車は速度を落とすことなく屋敷の壁を突き破る。直下型地震並みの揺れを起こし、激しい破壊音を轟かせた。

 イオタが作戦の内容を打ち明けたとき、難題のひとつに爆弾などで屋敷を半壊させるくらいの衝撃を与え、一気に大半の隊員を負傷させることができれば作戦の成功率が高くなると言うと、ジェーンが『そんなの簡単よ』と笑った。

 この屋敷は老朽化が激しく、一部を見た目重視の舞台セットさながらの書き割りで修繕していた。ベニア板を大理石そっくりのフェイクにし、大階段がギシギシ鳴ったのも頷ける。ロマネスク、ゴシック、バロック、ルネッサンスなど昔の建築様式を説明した本を読み、この屋敷のことをあれこれ推理していたのは何だったんだろうと思う。

 バリバリ音を立てて壁が倒壊し、テーブルが真っ二つに割れ、車は反転して床を滑り、ひっくり返った状態で部屋の真ん中辺りで静止した。

数人の隊員がケガをして倒れている。突っ込んできた車と倒れてくる壁を慌てて避けるために横っ飛びをして床に伏せたとき、イオタとシータが敷き詰めたガラスの床で顔の皮膚を切っていた。

 ほぼ作戦どおり。車が爆発していれば完璧だったが、バッテリーをショートさせ、もれたガソリンに引火とまで都合よくいかなかった。

 よく見ると車の下敷きになっている奴もいたが、肖像画の前にいた二人は無傷。ジェーンさんは森の中へ姿を消したが、三人くらいが後を追っていく。もうここへ戻ってくることはないだろうとイオタは思った。

 次はシータの出番。階下の騒ぎには気づいているはずで、そろそろアクションを起こしてくれるはず。イオタにはジェーンよりもシータのほうが裏切らないという信頼はあるが確信はない。一番危険な目に遭う可能性が高いのはシータで、尻尾を巻いて逃げていないか気がかり。

「おい、階段の上にターゲットがいるぞ!」

 正面玄関から突入したと思われる黒衣部隊の一人がやって来て肖像画の部屋にいる隊員達に声をかけた。

車の下敷きになっていた隊員は挟んだ足を庇いながら大丈夫だと親指を立ててサインを送り、他の隊員達は刺さったガラスを取りながら部屋を出ていく。もちろん肖像画の前にいた二人も声に急かされるように駆け足で向かう。

 ギシギシギシ、バタバタバタと階段を駆け上がる音が聞こえてきた。

 イオタに時間の猶予はなく、肖像画を押して外へ出る。

 まず向かったのは車の下敷きになった隊員のところ。頭から血を流し、脚を挟まれ、「くっ……」と声を出し切れずに苦しそうだが、意識ははっきりしている。隊員は若く、脅えた表情でイオタを見上げた。

症状を目視したイオタは血のついたできるだけ小さなガラスの破片をかき集め、再び下敷きになっている隊員の前に立つ。

「全員の血は揃ってないな……」イオタは破片を数え、落胆する。「肖像画の前にいた二人の隊員はケガしてなかったし、この部屋以外から突入した隊員、ジェーンさんを追った三人の隊員……ねぇ、血を流してない隊員はどれくらい残ってるかな?」

 イオタは腕組みして尋ねるが、ケガをしている隊員はただ見詰めるだけで黙ったまま。

「考えるより、さっさと始末しよう」

 イオタは下敷きになっている隊員の頭を触って指に血を付け、丁寧に舐め回したあと、顔を上げ、手のひらに集めたガラスの破片を口元まで持っていく。口の中を切らない工夫として、袋に残ったポテトチップスのカスを流し込むみたいに慎重にガラスの破片を口の中へ投入する。

眼球を真っ赤にさせ、気を失い、バタッとこん倒するイオタを見て、隊員は引きつった顔をした。

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 イオタが目を開けたとき、黒衣部隊の隊員が、舞台の上でウロウロしていた。

 さっきまでいた肖像画のある部屋のセットが組まれ、隊員は口々に「ここは何処だ?」と訊き合っているが、答えを出せる者はいない。

「皆大根役者だね」

 イオタは声を張り上げて皆を振り向かせた。

黒衣部隊の隊員が観客席にいるイオタに向かってサブマシンガンを反射的に構える。

「時間がないから早く死んでね」

 イオタの発言のあと、「あっ!」と一人の隊員が声を上げた。車の下敷きになっていた若い隊員で、見覚えがある、とでも言いたげだ。

 パチンと指を鳴らしたイオタには緩やかな曲緯を描き、グリップエンドにガラス細工のスカルがはめ込まれた大鎌が握られた。迅速に首を斬れる凶器、できるなら刃物がベスト……で、真っ先に浮かんだのは一度目にした大鎌。日本刀のほうがかっこよかったかなと、あとから後悔した。

「まぁ、しょうがないか」イオタは妥協し、大鎌を一度振ってみる。「意外と軽い」と感想を口にしてから隊員達を睨む。

「子供だと思って油断するな!」

 怒号が飛んだ直後、イオタが一気に舞台へ上がる。

サブマシンガンから銃弾が浴びせられるが、弾丸はイオタの前で急激に速度を緩め、ついには静止し、バラバラと舞台の床に落ちた。脳内のイメージが勝利した瞬間だった。

「ミツバチが地球上からいなくなると人類も絶滅するらしいね」

 イオタは金色の弾丸をミツバチの屍骸に見立て、知識を披露する。

さすがに即逃げ出す隊員はいなかったが、見境なく震える手を制御できずにサブマシンガンを撃ちまくる隊員、腰のケースからサバイバルナイフを取り出して勇猛果敢に突っ込んでくる隊員、逃げるのか、あとに続いて突っ込むべきなのか、ジレンマによって体が動かなくなっている隊員など、行動にバラつきがでた。

 イオタは脇をしめ、大鎌をコンパクトなスイングで横にスライドさせる。まずサバイバルナイフの刃を向けてきた隊員の首が飛び、さらにステップして次々と滑らかな動きで大鎌を振り抜く。ドタッと倒れこむ隊員に首から上はなく、転がる数々の頭部の顔には断末魔の叫びさえ上げる時間もなかったのか、安らかな表情を浮かべている。

こうしたい、ああしたい、とイメージすると勝手に体が動き、あっという間に黒衣部隊を始末してしまった自分に驚きながらイオタは立ち尽くす。隊員達は自らの記憶の中で死んだだけで、舞台に落ちている死体は人形と変わらない気がした。やり遂げた達成感や爽快感はなく、空虚な想いが心の中に充満してくる。

 手応えがない。

 手を見詰めると、役目を果たしたとばかりにフワッと大鎌が消えた。

イオタは死体の数を数える。全部で十三人。頭と胴体も一致。ヘリコプターから降りた人数から、まずジェーンさんを追いかけているはずの三人を引くと二十一人。そこから始末しばかりの十三人を引くと八人。シータは八人を相手にして逃げ回っていることになる。見捨てる、という選択肢もあったが、現実の世界に残された自分の体の安否も不明で、留まっていても意味がない。

 舞台上の死体の山を見た。きれいにしてから戻ろう、とイメージしたが、死体は消えなかった。もしかすると、この現象は現実の世界での死を意味しているんじゃないかとイオタは感じた。

 早く戻らないと!

と願うと心臓がドクンと脈打ち、視界が白くぼやけ、体が揺れ、現実の世界へ戻るタイミングにイオタは酔った。

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 現代アートのオブジェみたいにひっくり返っている車を目にして正直安堵した。血の付いたガラスの破片を飲み込んだときと時間の誤差はそれほどない。

ただ違うのは車に脚を挟まれていた若い隊員が血の気を失い、大きな口を開けて何かを叫ぶ恐怖の形相で死んでいた。大鎌で首を斬られる悪夢でも見ていたのだろう。

敵の死を認識できたことで、舞台での空虚感は取り払われ、優越感がイオタの心を満たす。

 銃声が断続的に響き、二階が騒がしい。

 しかし、徐々に銃声の数が減り、部屋のドアから顔を出して様子を探ると、大階段に死体が転がっていた。

一人の隊員がイオタの気配を察知し、振り返って青ざめる。おまえがやったのか?という顔で見たあと、サブマシンガンの銃口を向ける。

 イオタは一瞬、そんなモノは通用しないよ、という時間が止まったような無防備な体勢になった。壁に次々開けられる穴が自分に迫ってきて、ここは現実の世界なんだと我に返り、慌てて避けるが、右腕と左膝に二発の銃弾を受けた。

「うっ……」

 呻きながら肖像画のある部屋へ倒れ込むように非難する。肖像画の裏側に隠れようと這って進むが、階段を駆け下りてくる隊員にどう考えても追いつかれる。しかも床にはイオタの血が赤い矢印代わりにべったり付いてしまっていた。

 イオタを撃った隊員が銃を構えながらゆっくり歩み寄ってきた。

最期に自分の命を奪おうとする奴の顔が見たくてイオタは仰向けになる。車に脚を挟まれていた隊員とそれほど年齢に違いがあるとは思えないが、薄くて上向きの唇を隠すように髭を伸ばしているので貫禄がある。

「おい、こっちだ」

 掛け声で四人の隊員が加わり、イオタの周りに集まる。髭男の声には聞き覚えがあった。ジェーンと端末を使って会話していた人物と声が一致している。ということは吸血鬼の可能性が高い。

「皮膚の再生は……まだ、はじまってないな」

髭男は撃った腕と足を銃口でまさぐってきた。まだ、ということは再生能力があることを前提で話している。イオタの推測は間違っていなかったことになるが、瞬時に痛みや出血が治まってくれないと、現時点では役に立たない。

「暴れるんじゃないぞ」

 今度はサブマシンガンの銃口をおでこに付けられた。現実の世界での無力さを思い知ったイオタは悔しさで唇を噛む。

「ちょっと待て。禁忌を犯すな!」

 意識して自分の血を舐めようとしたわけではないが、イオタは銃口を口の中に突っ込まれる。この髭男はかなり用心深い。

イオタは銃口を咥えさせられたまま頷く。

髭男は銃口を慎重に抜くとポケットから白いハンカチを取り出した。

「咬むなよ」

と忠告してイオタの唇からはみ出した血を丁寧に拭き取った。

「始末しないんですか?」

 隣にいた隊員が不満を滲ませて質問する。

「お持ち帰りにする」

 髭男は冗談交じりで答える。

「でも、少佐が……」

「おまえ達に迷惑をかけるようなことはしない」

 髭男が引き締まった顔つきで言うと、隊員達の間に緊張感が張り詰める。

「二階にいるターゲットも始末しないで、生きたまま捕獲するんですか?」

 後ろにいた隊員が尋ねた。

「銃では簡単にとどめを刺せない。おれにこの子供達の命を一旦預けさせてくれ」

 髭男は集まっている隊員達の顔を眺めた。威圧ではなく、過去から築き上げてきた押し付けがましくない信頼で納得させようとしている。

「わかりました。すぐに二階のターゲットを捕獲します」隊員が髭男に敬礼し、「いくぞ!」と二人の隊員を引き連れて部屋から出て行く。

「いいか、大人しくしていろよ」

 髭男が屈んでイオタに言う。

「腰のケースに入っているサバイバルナイフで首を切断すれば問題ないよ」

 イオタは吸血鬼のとどめの刺し方をアドバイスした。

「面白いガキだな」

 髭男は鼻でせせら笑う。

「ガキじゃない!」

「隊員達が次々倒れて死んだのは……おまえがったのか?」

 イオタが食ってかかっても、髭男は冷静な物越しで質問をしてくる。

「そうだけど文句ある」

「何をした?」

 髭男の顔が険しくなった。

「教えるわけないでしょ」

「あとでじっくり吐かせてやるさ」

と言ったのとは対照的に、髭男はサブマシンガンの銃口を下に向け、戦闘意欲を消す。

 そのとき、ガラスが抜け落ちている窓から風が吹き込み、イオタの髪の毛を乱した。森が小波のごとく揺れ、草木がザワザワと騒ぎ出す。真っ赤なボディーのヘリコプターが下りてきて、風の原因がはっきりする。隊員が乗ってきた迷彩色のヘリコプターとは違い、モーター音が極度に静かなうえに地上にふわりと着地した。

「ちっ、嗅ぎつきやがったか」

 髭男は赤いヘリコプターを見ながら舌打ちする。それから顎を振ると残った一人の隊員がイオタの後ろに回り、サバイバルナイフの刃を首にピタリとつける。

訓練された隊員の力量からすると、数秒、いや一瞬で首を斬り落とされるかもしれないとイオタは感じ、無駄な抵抗はしなかった。

「いいか、余計なことをすれば命の保障はないぞ」

 髭男は後ろ向きで表情こそ見えなかったが、重い口調は警告として響いた。自分が殺した隊員達のことでもっと怒りを買っているとイオタは思っていた。死んだ隊員の復讐よりも優先しなければいけない重要なものがヘリコプターから降りてくるらしい。

 紺色のスーツを着た長身で痩せた男が、プロペラの風圧で飛ばされないように中折れ帽を手で押さえながら歩いてくる。その男の後ろには一人の隊員が日本刀を大事に抱えながら付き添っている。赤い絨毯の上を踏みしめるみたいに王様気分の優雅な足取りでやってきた中折れ帽の男は、ジェーンが車で崩した壁の大きな裂け目から部屋に入ってきた。

「少佐がわざわざ来られるなんて珍しいですね」

 髭男が敬礼しながら嫌味すれすれに聞こえることを言った。

「三匹も吸血鬼を見つけたと聞きつければ、来ないわけにはいかないだろ」

 中折れ帽の男は感情のない冷たい眼をして応えた。そして、イオタの方へ視線を移動させる。顔の各パーツが細く鋭く、昔話に出てくる人を騙すことに長けた狐に似ている。蔑む眼で見られただけで、瞬殺されそうな雰囲気を感じた。

「君の名前は?」

 名前のことを訊かれたことは理解したが、中折れ帽の男に教えて得することはなにもないと判断してイオタは無視をする。魚や虫に付ける【匹】という助数詞を使ったことは、かなり馬鹿にされている気がした。

「無理に答えなくてもいい。どうせ三匹とも始末されるんだから」中折れ帽の男は表情を崩して薄く笑った。「あとの二匹は?」

「子供らしき男の子の方は二階でバリケードを築いて立てこもっている状態です。女の方は森へ逃げて追跡中です」

 髭男が早口で答えた。

「時間がかかりすぎてるな」

 中折れ帽の男は静かな口調で注意する。

「すいません」

 髭男は頭を下げた。見た目は髭男の方が年上に見えるのに、目に見えない上下関係がはっきりとイオタにも認識できた。

「吸血鬼とはいえ子供と女相手に手間取っている原因は何かな?」

「はい、実は……」

 低い声で問われ、髭男は一連の出来事を手短に説明した。

 そして、階段で隊員がバタバタ倒れて死んだことを報告している途中で「それは三匹のうちのこいつがやった可能性があるわけか……」と眉間に皺を寄せた。続けて「それでこのザマなわけだな」と中折れ帽の男が嫌味を言ったが、髭男は不満そうな表情を微塵も見せなかった。

「君がやったのか?どんな技を使った?」

 中折れ帽の男がイオタに顔を近づけた。口を開くごとに錆臭い臭いが鼻をつく。

 まさかこの男も吸血鬼!?

 血の臭いがするということはまず間違いない。しかも明白な敵意が感じられる。

「とりあえずさっさと始末してしまうか」

 中折れ帽の男は付き添ってきた隊員から日本刀を受け取る。

「少佐、お言葉ですが、本部に戻ってじっくり調べたほうがよいのでは?」

 髭男の言葉はイオタに救いの手を差し伸べていることに等しい。

「その必要はないし、君に命令される覚えもない」

 中折れ帽の男は耳を貸さず、黒い鞘から日本刀を抜き取る。

「しかし……」

「この世に悪魔的な象徴はひとつだけで十分」

 日本刀の刃が鈍く光り、中折れ帽の男は同情なんて言葉を一切知らない様子で、片手で一気に振り下ろす。

イオタは自分の最期がこんなにも呆気ないものなのかと信じられず、目を大きく開いて見届けた。

次の瞬間、日本刀はガツッとサブマシンガンに当たる。イオタの首を通過するはずの軌道はイレギュラーし、後ろからサバイバルナイフを突き付けていた隊員の首をはねた。頭部を失った胴体が床に崩れ落ち、イオタの身は自由になる。

「本性を現したか……」

 中折れ帽の男は苦々しい表情で言葉を呑み込んだ。

「アクシデントがあってもガンマ少佐なら部下の首をはねるなんてヘマはしないですよね」

「久し振りにこいつの試し斬りをしたいという欲を捨てられなかった」

 ガンマ少佐と呼ばれた中折れ帽の男は、日本刀を一振りして血を払う。

髭男が咄嗟に出したサブマシンガンで、自分が斬られるはずだった軌道がずれたと思ったイオタは、自分のミスを試し斬りのために部下の首をはねるという欲で取り消したガンマ少佐の行動は命拾いをしたことなど忘れてしまうくらい、体の芯が震えるほどの恐怖を覚えた。

「仲間を見殺しにしてしまった」

 髭男は悔やむような言葉をこぼす。

「仲間?吸血鬼のくせに人間を仲間と呼ぶとは滑稽だな」

 ガンマ少佐は高笑い。

「うるせぇ」

髭男は上下関係を解消する言葉を吐き、バックステップでガンマ少佐との距離を空ける。

「黒衣部隊に潜り込んでいるとは……灯台下暗しというやつか」

「その通り」

 髭男が乱杭歯を剥き出す。

「いまになって白状したのは、この子供を助けるためかな?」

「そんな正義感があると思うか?」

髭男は自虐的に笑う。

「強がることはない」

「別に強がってない」

 髭男は顔に嫌悪感を滲ませて言う。

「正義感ごと叩き斬る前に、君の本当の名前を教えてくれるか?」

「ベータ」

 厳しい表情のまま髭男は名乗った。

「二番目か……」

 ガンマ少佐は考え込み、視線を一瞬だけ横に動かす。

その隙を狙い、ベータはサブマシンガンを連射した。

弾丸の嵐を浴びたガンマ少佐は後頭部から床に叩きつけられて、大の字に倒れた。中折れ帽がコロコロ転がって主から離れていく。

「早く逃げろ!」

 ベータがイオタに叫びながら素早く腰のケースからサバイバルナイフを抜き、刃先を向けてガンマ少佐に飛び掛る。

「あがっ……」

 次の瞬間、呻き声を上げたのはベータ。ガンマ少佐は機械仕掛けのような瞬発力で上半身を起こし、日本刀でベータの体を串刺しにした。

「私の再生能力のスピードは尋常じゃないんだ。部下なのに知らなかったか?」

「し、知ってたさ。だか……ら、ナイフで、す……ぐに刺そうと……した」

 途切れ途切れに言葉を繋ぐベータを見て、イオタは自分に声をかけなければ、ガンマ少佐にとどめを刺せたのでないかと思った。

「何のために黒衣部隊に潜り込んだ?」

 ガンマ少佐が日本刀を引っこ抜くと、ベータは床に両膝をついて腹から溢れる血を両手で押さえた。

「お……教え……る……わけないだろ……ペッ」

 ベータはガンマ少佐の質問に唾を吐いて答えた。

 ガンマ少佐は無言のまま、一気に首を斬り落とす。ベタッと引力に引きつけられる形で落ちたベータの頭部の顔は虚無的で、痛みを感じていないように見えるのが唯一の救いだとイオタは思った。

「君は知ってるか?」

 ガンマ少佐が怪しい流し目を送り、イオタに尋ねる。

「知っていても喋らないよ」

 精一杯の強がりを言ってみせた。

 ガンマ少佐は血を払うためにビュッと音を鳴らして日本刀を振り、イオタの顔や服にベータの血を付けた。

イオタは目を瞑って血を避ける臆病な仕種をしてしまった。

「まだまだ子供だな」ガンマ少佐は日本刀でトントンと肩を叩き、敵として相手にする素振りを見せない。「私は他の吸血鬼に比べて再生能力が早い、ベータという吸血鬼からは血のニオイがしなかった。それほど血を飲まなくても体力を維持できる力を持っていたことが想像できる。君はどんな力を持ってるんだ?」

「子供じゃない!」

 イオタは、面白いガキだな、とベータに言われたときのように衝動的に反発したのではなく、力に関しての答えを避けたかった。血を飲んで過去の記憶を舞台として見れることを話してしまった時点で、何もかも終ってしまいそうな気がした。ジェーンが端末でやり取りをしていた方はベータで、黒衣部隊の幹部になった危険な“そいつ”とはガンマ少佐の方に間違いない。

自分の能力が切り札になると考えたイオタは「人間と手を組んで、恥ずかしくないの?」と質問して話をすり替えてみる。

「手を組んでるんじゃない。人間をこき使ってるんだよ」

 ガンマ少佐は片側の眉をピクピクッと反応させた。

「へぇ~そうなんだ。少佐って偉いんだ」

「カテゴリーは不毛だ。トップの座につかなければ意味がない」

 人間の作り出した組織の中で、ガンマ少佐がストレスを感じているのかもしれないとイオタは思った。

「少佐なのにベータさんの存在に気づかなかったなんて、すごい失態じゃない?責任を取らされるんだよね?」

「そんなに早く死にたいのか?」ガンマ少佐が苦虫を噛み潰したような顔をして日本刀を力強く握る。ガンマ少佐から冷静さが欠けた。「君にはエサになってもらう」

 ガンマ少佐は日本刀の剣先をイオタの顎の下にぴったり付け、顔を無理やり押し上げた。じわりと伝わる冷たさはガンマ少佐の心をそのまま表している気がして、剣先の力が入る方向に恐怖感を引きずられながら移動させられた。

「二階に隠れているもう一匹の吸血鬼に告げる。友達を殺されたくなければさっさと出てこい!」

 部屋の外まで連れて行くと、ガンマ少佐は大階段の下から大声を張り上げた。

 黒衣部隊の隊員に囲まれながら、いともあっさりシータが姿を現し、階段の上までやってきた。顔は作戦が失敗に終わっても沈んでいなかった。それどころかガンマ少佐を睨み、視界に捉えて離さない。

「何か私に言いたそうな顔をしているな」

「別に」

答えたシータの顔に黒い影が走る。恐怖と憎しみが混同した表情にイオタの目には映った。

「女はどこへ逃げた?」から質問がはじまり「おまえの名前は?」とか最後に「こいつが奇妙な技を使って多くの隊員を殺したみたいなんだが、その力がどんなものか知ってるか?」と色々訊いてもシータは無言を貫き通す。

「二匹とも頑固だな」

 ガンマ少佐は斜め下に弧を描いて日本刀を振った。イオタは体のバランスが突然崩れる感覚に陥る。床に倒れ、上半身は起こせても下半身の自由が利かない。見ると、右足の膝から下が切り離されていた。

「思ったより痛くないだろ?」

 ガンマ少佐が感情を殺した声で尋ねる。

 痛くなかったのは一瞬だけで、激痛は体を痙攣させ、血が大量に吹き出るごとに力が失われていく。吸血鬼の再生能力を持ってしても、切り離された足を繋げることは魔法でもない限り不可能で、二度と立って歩くことができないかと思うと目に涙が滲む。

「今度は腕を斬ろうかな」

 惨酷な予告をしたガンマ少佐は、シータがいる階段の上に思わせぶりな視線を向けた。

「ぼくは七番目でシータ。彼と同じ能力を持ってる。血を飲むと……」

「い、言っちゃ駄目だぁぁ~」

 シータは切羽詰った表情で答えようとしたが、イオタが小刻みに体を震わせながら叫んで言葉をかぶせる。能力を隠しておけば助かる可能性はゼロじゃない。ガンマ少佐と残りの隊員を引っ掻いて、僅かでも血を舐めることができれば舞台へ連れ込める。現実の世界で気を失っているガンマ少佐にシータがとどめを刺せればいい。ただし、能力の種明かしをしてしまえば絶望的だ。

「君、ちょっとうるさいよ」

 ガンマ少佐がまた日本刀を振り、イオタの右腕の付け根を抵抗なく通過させる。

「うぁぁぁぁぁ~」

 イオタは痛みに意識が刈り取られ、天を仰ぐように絶叫し、床に落ちた右腕はピクリとも動かず、ただの肉塊と化す。

シータが階段を転がるように下りると、隊員達は一斉にサブマシンガンで狙いを定めた。それをガンマ少佐は手を横に振って撃つのを止めさせた。

「イオタ君!」

 シータがイオタの上半身を抱き起こして支える。

「イオタ?そいつは九番目か」

 情報を得たガンマ少佐はニヤリと笑う。

「そんなことして面白いの?」

 シータが睨みながら質問する。

「ああ、面白いよ。君は色々なことを知っていそうだね。君達の力とやらを教えてくれないかな?」

 ガンマ少佐はシータに狙いを定めて訊く。

「……さぁね」

 一瞬、答えようとしたシータだったが、イオタが弱々しく首を横に振る姿を見て、拒否した。

「頑固だね」

 ガンマ少佐は日本刀を高々と掲げた。

「短い間だったけど楽しかったよ」

 シータが満面の笑みでイオタに語りかけた。

純粋無垢なシータの笑顔を見て本気で自分を助けようとしていたこと、友達として絆を深めたかったことをイオタは知った。

 ガンマ少佐は頭上で日本刀の握りを片手から両手に持ち替え、一振りで蹴りをつけようとする。

「くそっ」

一閃を引いたガンマ少佐は悔しそうに唇を噛む。イオタは左肩から右脇までバッサリ斬られ、壁になってくれたシータの背中は深く縦に裂けた。床の上に滑るように血が広がっていく。

「腕が鈍ったか……それとも刀の手入れが甘かったかな」

 殺戮行為をした直後とは思えない穏やかな表情で、ガンマ少佐は日本刀をじっくり眺める。それから「あっ!」と歯の隙間から抜けるような声を出したあと「刃こぼれしたな」と言って日本刀を放り投げ、部下が慌てて拾いにいく。

「さぁ~て、まだ生きてるかな」ガンマ少佐は膝を折って視線の位置を下げ、新種の生き物を発見したような目でイオタとシータを観察する。「これくらいで動けなくなるようじゃ吸血鬼としては失格だな……クククッ」

 卑劣な笑いがもれる中、外から隊員が走ってくる。

「少佐、逃走した女を追跡中の隊員から数キロ先の谷に追い込んだとの連絡が入りました」

「わかった。子供相手だと話しにならんな」ガンマ少佐は立ち上がり「この屋敷を燃やすなり爆破するなり好きにしろ」と投げやりな指示を残して去っていった。

 イオタにはまだ余力があった。とはいっても動くのは顔の筋肉だけで、会話できるほどの体力しかない。

「シ、シータ……聞こえる?」

 イオタはシータの後頭部を見詰めながら訊く。

「き、聞こえるよ」

 シータの声にはまだ張りがあり、イオタはほっとする。

「体は動く?」

「なんとか……ね」

 シータは両手で踏ん張り、上半身を起こすが、背中の切り口からとめどなく血が吹き出る。

「大丈夫?」

「だ、大丈夫」

と言った直後、シータは血で手を滑らして、床に突っ伏す。

「無理しないで」

「そんな時間はないよ」

 シータの視線の先には黒衣部隊の数人が一斗缶をヘリから降ろしている姿が見えた。

「這って動けるまで再生できるかな」

 イオタは自嘲気味に笑う。シータのがんばりは吸血鬼独自の再生能力のことを当てにした行動に間違いない。

「ぼくが斬られたのは一回だから、イオタ君より再生する時間は早いかも」

 シータは自分を奮起させ、立ち上がることに再度チャレンジした。

しかし、その途中で「あいつらもう動いてるぞ」と隊員達の注目を浴びてしまい、イオタとシータの周りに鼻につく臭いのオレンジ色の液体を撒かれてしまった。

「ガソリン……」

 イオタは息を呑む。

「体にかけたほうがいいんじゃないか?」

「咬まれて吸血鬼になりたければおまえがやれよ」

「どうする?」

 隊員達の会話に統一性がなく、作戦の実直な遂行に迷いが生じ、責任を押し付けている。ベータがいなくなったことも部隊としての縦の関係を乱しているのかもしれない。結局隊員達は咬まれることを恐れ、イオタやシータの体に直接ガソンリンをかけず、円を描くように撒いた。

ジッポライターのリンジのフタが開くカチッというささやかな音が惨酷に響く。隊員の手から離れ、ジッポライターが床でバウンドして火が駆け足で縦横無尽に走り回り、あちこちから黒煙がわき上がる。炎が皮膚を伝って熱を感じさせ、皮肉にもイオタに生きている証を示した。

「シータ大丈夫?」

「うん」

 シータが返事をしてすぐ、天井を支えている大理石の柱がメリメリと音を立てて簡単に倒れた。フェイクの大理石は燃えやすい材質でできていて、しかも中が空洞になっていた。危険を察知した隊員達は退避し、屋敷に残されたのはイオタとシータのみ。

「動ける?」

「な、なんとか」

 イオタの問いにシータが覇気の失った笑顔で答える。

「ぼくは駄目だ」

「任せて」

 シータが腕立て伏せの体勢から上半身を持ち上げようとすると、日本刀で斬られた裂け目からまた大量の血が流れ、床をあっという間に赤く染めた。

「無理しなくていい」

「無理しないと助からない」

 シータの言うとおり、炎に囲まれ、逃げ場のない状況に追い込まれた。

「離せ!」

「掴まって」

 拒んでもシータは全く耳を貸さず、左脇に頭を入れてイオタの体を持ち上げる。

「やめるんだ、シータ。ぼくはどうせ再生できる」

「再生する前に黒コゲになるよ」

シータは真剣な顔で目を合わせる。

イオタは急に恥ずかしくなって視線を外す。裏切られたと思い込んでしまったことがこんな事態を招いてしまった責任を感じ、シータの顔をまともに見れない。

「いくよ!」

シータのかけ声で炎の中へ突っ込む。体から切り離された右腕と右脚はすでに火が移り、炭化がはじまっていてイオタは悲しげに見詰めた。

呼吸を止め、熱さに耐え、炎の輪から抜けると大階段の裏側へ出た。地下室への入口が、逃げてこい!とパックリ口を開けている。飛び込むように入り、石畳の階段を下りていると大階段が炎を携えて崩れ落ちた。ちょうど入口を塞ぐ格好になり、運が良いのか悪いのか、しばらくは時間が稼げそうな状況が整う。

イオタもシータも埃を吸い込んでしまい軽く咳が出た。

「他に出口はないの?」

 吸血鬼は酸欠で死ぬ?なんて間抜けな想像をしながらイオタが訊く。

「たぶんないと思う」

 シータは秘密を隠すというよりも、頼ってくれたのに答えを出すことができない悔しさが顔に滲んでいた。

「奴ら戻ってくるかな?」

 イオタは返ってくる答えに予想はできても、少しでも不安を解消したいと願って訊いてみた。

「鎮火したら遺体を調べにくるかもしれない」

 シータが答えてくれたことで不安は共有できるまで緩和し、イオタは納得して頷けた。

お互い喋りがスムーズになって、体の一部が再生していることは感じられた。ただ、ガンマ少佐みたいなスピード感のある再生する力はないようで、傷口からの出血は止まらない。

 屋敷が崩落するものすごい音が去ると、静けさが満ちた。隙間から侵入してくる黒い煙は微量だったが、コゲ臭いニオイは不快だった。

シータはイオタを担ぎながら階段を下りる。かつて縛られ、血を抜かれて拷問された部屋がいまは安住の地となる。

「また逆戻りか」

 ベッドで横にされたイオタから愚痴が出る。

「ここで一生を終えることにはならないと思うよ」

 シータが慰めのような言葉をかけた。

「一生……か」と言ってからひと呼吸おいてイオタは「ぼくらはなんのために生きていると思う?」と思い詰めた表情で訊く。

「難しい質問だね。人間に答えを聞くわけにもいかないしね」

 シータは戸惑い、答えられない。

「答えを頭の中の黒い化け物に求めたらまずいかな?」

 イオタは探るような視線で尋ねた。

「黒い化け物に頼っちゃいけない」

 シータの口調が突然きつくなる。

「自分の力で答えを見つけろってこと?無理だよ」

 自分のことを否定されている気持ちなったイオタは向きになった。

「ぼくは生きる意味を自分で見つけてみせる」

 シータが力強い言葉で意見の違いをアピールする。血を飲み、その血の持ち主の記憶を舞台で見て、思い浮かべるだけで世界を操ることのできる能力は勝っていても、精神的な中身はシータのほうがずっと成熟している気がして、イオタは嫉妬してしまう。

 この嫉妬は脳内の黒い化け物が分泌したのかな?

 イオタは自分の意思で脳が働いているのか、自分でもよくわからなくなってきていた。その弱みに付け込むタイミングで脳内の黒い化け物は不敵な笑みを浮かべ、小脇に抱えていた赤い本を開き、突き出すようにしてあるページを見せる。

【支配】……自己の権力において思いどおりにおさめること。

 それが目的なのはわかってるさ。

 辞書的な文面を読んだイオタは諦めに近い感情に押され、ニヤニヤと淫らに笑う黒い化け物に文句を言う体力も気力もなくなっていた。頭を抱えて悩みたいくらいだが、シータにそんな姿は見せたくない。

「シータには敵わないな」

 イオタは自分の正直な気持ちを吐露した。とりあえず嫉妬という感情が肥大してシータに直接的な被害を与えることはしなかった。僅かに残っているであろう純粋で真っ白な心は、そのうち脳内に生息する黒い化け物によって真っ黒く汚されるかもしれない。

「物音が聞こえる……」

 シータが青ざめた表情で部屋から出て行く。

 複数の足音と、プシュー、プシューという音が連続で聞こえてくる。

「白い煙が見えた。たぶん消化剤で火を消している最中だと思う」

 物音のする方向へ視線を向けたまま、シータがすぐに引き返してきた。

「見つかるのは時間の問題だね」イオタからため息と一緒に暗い展望が口から出る。「ジェーンさんは助けに来ないね……ぼくらがどこから生まれてきたのか、という取引条件の答えも聞いてないのに……」苛立ちの矛先をジェーンに向けた。

「その答えは、ぼくも知ってる」

 シータが静かに言った。顔は沈みがちで申し訳なさそうだ。

「どうして教えてくれなかったの?」

 イオタは感情を抑えて尋ねる。

「イオタ君が知りたがっているのはわかるけど……」

「早く教えてよ!」

 保身や裏切りや損得を考えて、シータがいままで黙っていたとは考えられない。たぶん事実を知ればショックを受けて取り乱すとでも思ったのだろう。もう少し自分を信頼してほしくてイオタの口調は強くなった。

「わかった……イオタ君、ぼくの血を早く飲んで」

 シータはベッドに寄り、白い首筋をイオタの口元に差し出す。

「べ、別に、過去を見なくても、話してくれればいいよ」

突然の行動にイオタは戸惑いの表情を隠せなかった。

「いや嘘を言ってると思われたくないし、それにぼくの血を飲めば再生能力や体力が向上するかもしれない」

「嘘を言ってるなんて思わないから……それにぼくが血を飲んでる間に黒衣部隊がきたらどうするつもり?」

 イオタは反対する理由と作戦の盲点を伝えた。

「なんとかするから早く!」

 シータは急かしてからイオタの失った右脚と右腕の切り口をそっと撫でた。シータの手のひらから温もりは感じられず、氷のように冷たかった。このままだと足手まといだと、遠回しに言われているような気がしてならない。でも、それは紛れもない事実で、このままだとシータを救うための盾になることさえできない。

「わかった……」

 イオタは小さな声で従う意思を口にした。

 シータは何も言わず、イオタの後頭部を手で押してくる。寸前になって躊躇してしまうのではと思っていた迷いは、シータの白い首筋に唇が触れた途端、一気に吹き飛んだ。人間と同等の長さだった八重歯が皮膚に喰い込むと、血を追い求め、骨を砕く勢いで乱杭歯として成長し、本性をさらけ出したイオタはングッ、ングッン、ングッ……と喉を鳴らして吸い続ける。

「いいよ、イオタ君。もっと、もっと、一杯吸っていいよ」

 シータは恍惚とした表情でイオタを強く抱きしめ、そのままベッドに倒れ込む。動脈が切れ、ピシャ……と無数の赤い飛沫が顔にかかっても、イオタは本能に逆らうことができなかった。

                  ★

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                  ★

 シータは大丈夫だろうか?

 観客席に座っているイオタは心配を通り越して胸が締め付けられる不安を抱えていた。どこから生まれてきたのか?という疑問が解けたら、地下の部屋が黒衣部隊に見つかる前に、早く現実の世界に戻らなければいけない。

 ブザー音、赤い幕が上がり、舞台が始まる。セットは屋敷の二階にあった丸いテーブルに向き合うかたちでシータとジェーンが座っている。

「イオタ君を殺すようなことはしないよね?」

 神妙な顔つきでシータが問う。

「心配いらないわ。彼はあんなことでは死なない。あなたより身体能力は高いわ。それに標本としての価値はあなたと同等かもしれないから、人間達も簡単には始末しないわよ」

 女の言葉からすると、この場面は自分が地下室で血を抜き取られた頃かもしれないとイオタは判断した。

「ぼくには価値なんてない」

 陰にこもった声でシータがこぼす。

「あら、とぼけないでよ。あなたは私の血を飲んでいたから、過去を舞台として見る能力と、相手の血を吸い尽くすと、その体を手に入れる能力もあるでしょう」

「そんなことできないよ」

 シータが慌てて否定する。

イオタの血を飲んで体力を回復していたのなら、地下室で拘束されているとき、シータと舞台で会う機会が注射器を齧ったとき以外になかったことは、よくよく考えてみるとおかしなことだった。

シータを疑っていた自分をイオタは恥じた。

「これを見て」

 ジェーンは端末をテーブルに置くと緑色の画面に動画を映した。二つの黒い影が激しく動いて争っている映像なのだが、どこか迫力がない。どうやら男の子同士のケンカらしく、腰が入っていない両腕を突き出しているだけのパンチの応酬。そのバランスが崩れたのは片方がパンチではなく爪で引っ掻いたときだ。相手は傷つけられた頬を手で擦り、赤い血をじっと見詰め、それから相手の首に咬みついた。相手が引き離そうと抵抗したのは一瞬で、すぐに動かなくなる。

イオタは血を吸われている男の子の顔がシータとそっくりなことに驚く。しかもシータと似ても似つかない血を吸っているふてぶてしい面構えの男の子の顔がどんどん卵型になり、シータの顔に近づいていく。口についている血を腕で拭い、ふてぶてしい面構えからシータの顔を手に入れた男の子が空気の抜けた風船のような相手の体を放り投げた。

「もういい!」

 シータは画面から顔を背けた。

「あなたは人間の子供の血も吸っていたのよ。ということは、あなたにも悪魔的要素があっても不思議じゃないわけね」

 ジェーンは端末を片付けながら言う。

「いまの映像を見て人間の子供を襲っていたことを思い出した。でも、イオタ君と出会って自分の心の黒い部分が薄くなっていくのがわかったんだ」

 シータからの間接的な感謝の言葉は、イオタは照れくさくて受け入れがたかった。

「イオタ君ね。あの子はよくわからないわね。どこから生まれてきたのかなんて、なんで知りたいのかしら?妙に人間臭いところがあるわ」

「知ってるなら教えてあげて。ひとつでもイオタ君の願いを叶えてあげたい」

 シータは頭を下げて懇願する。イオタの目にはシータの方が人間臭く映った。

「私が話しても嘘だと思われるから証拠の品として地下のベッドの下にケースを置いとくわ。中身はアルファという一番目の吸血鬼の血液。それを飲めばわかるかもしれない。でも、その血はもしものために用意しといたものなの」

「もしものため?」

「悪魔的な象徴になりたがっている馬鹿な吸血鬼がいて、そいつに殺されそうになった場合の対策として残しておいた貴重な血液よ」

 馬鹿な吸血鬼というのはガンマ少佐のことだろうが、一番目の吸血鬼の血がどんな効果をもたらすのかイオタには検討がつかない。

「ジェーンさんはその吸血鬼に正体がバレてないの?」

「直接聞いたことがないからわからないわ」

 ジェーンは前髪を指でいじりながらシータの質問を軽く受け流す。

「どうしていままで殺されなかったの?」

「私がメスだからじゃないかしら」

メスという表現でジェーンは自分を卑下したが、従順な部下として猫を被っていたのではないかとイオタは憶測した。

「その吸血鬼にぼくらが勝つ確率は?」

 シータが希望的観測を探る。

「とても低いわね。でも……」

「でも?」

「私とあなたとイオタ君は吸血鬼の血を飲むと、能力を共有できる。でも、そのことをその馬鹿な吸血鬼は知らないわ」

 ガンマ少佐がしつこく能力のことを聞いてきたのは自分達を恐れている証拠だとイオタは思った。

「その吸血鬼はどんな能力を持ってるの?」

「尋常じゃない速さの再生能力」

「首を切るか、焼くか、心臓に杭を打てば大丈夫だよね?」

 シータが慌てて訊く。

るときは一気に片をつけてね。再生する前に」

 しばらく沈黙が流れ「ジェーンさんはぼくらの……生みの親なんじゃないの?」と、シータが踏み込んだ質問をした。同じ能力を共有しているということは血のつながりがあるのかもしれない。イオタも固唾を呑んで見守る。

「想像に任せるわ」

 これまでのシータの矢継ぎ早の質問にジェーンは真摯に対応していたが、最後の質問には照れ隠しなのか答えを濁した。

 イオタのやるべきことは絞られた。あのガンマ少佐に生きていることが知れたら、必ず命を狙われ続ける。せっかく屋敷から出られても逃亡生活なんてごめんだ。それに舞台にいる世界では右脚と右腕はついているが、現実の世界に戻れば失ったまま。“仕返し”という文字で頭の中が埋め尽くされていく。

結局、どこから生まれてきたのか?という疑問は先送りになったが、舞台の幕を閉じ、早く現実の世界へ!と意識を集中させると、心臓が脈を打ち、視界が白濁した。

                  ★

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 目を開けたとき、体の上に何かが覆いかぶさっていた。それはガサガサとした不快な手触りで、腐った魚の臭いがして軽かった。左手だけで簡単に退けることができた。イオタの口に一本の栗色の長い髪の毛が挟まっていた。

「シ、シータ?!」

 イオタは退けたばかりの何かが、変わり果てたシータであることに気づく。透き通るように白かった肌が乾燥して茶色になり、髪は抜け、ミイラ化が進み、唯一細胞としての存在を保っているのは眼球くらい。

「ぜ……ぜん……ぶ……あげ……る」

 耳を口に近づけてやっと聞き取れる声を囁いたシータの下顎が、役目を終えたとばかりに外れ、ベッドのクッションでバウンドして石畳の床の上でバラバラに砕け散った。

「シータぁぁぁ~」

 途方もなく歳を取り過ぎてしまったシータをイオタが抱きしめると、パリパリと皮膚が割れ始める。

慌てて力を抜くが、ひび割れた組織から砂のような粒子が滝のように流れ、シータの体が崩れてゆく。「あっ、あっ……」と泣きながら両手でかき集めても、指の間からすり抜け、砂の堆積粒子と化してしまう。落ちた左右の眼球もすでに光りは宿っていなかった。

「どうして、こんなことに……」

 イオタは舞台を見る前の自分の行動を思い出す。無我夢中でシータの首にかぶりつき、血を吸った。シータは抵抗することなく、血を吸わせてくれた。手負いよりも力をどちらかに集中させたほうが対抗できると思ったのだろうか?最期の全部あげるという言葉の意味もそれだと理解できる。

 シータのとった行動をもっと把握したくて思考力をフル回転させようと思っていたイオタに神様は非常だった。地下の入口のほうから黒衣部隊が侵入してくる複数の足音が聞こえてきた。

「こっちだ」ケガをした子供の吸血鬼を仕留めるだけで容易い仕事だと思っているのか、声に緊迫感はなく、弾んでいる感じがした。「おい、いたぞ」部屋の入口でサブマシンガンを構えてさらに仲間を呼ぶ。

程なくしてコロンコロンと小型ながら重量感のあるものが石畳の床を転がってきた。パイナップルのような凹凸の形状をしている。

脳内の赤い本が勢いよく捲れ、【近接戦闘用小型爆弾】の記述があるページで止まった。

 手榴弾……ベッドの下にはケースが……。

 爆音とともにグラッと地下室全体が揺れ、上から白い粉塵が舞い下りる。イオタは吹き飛ばされ、壁に背中を叩きつけた。真っ白い煙が充満する中で、まだ呼吸できていることに望みを繫ぎ、目を開ける。右手には砂になったシータを握っていた。

 シータ……ごめん。

一粒一粒にはシータの記憶が詰まっているはず。

イオタは手榴弾が投げ込まれたとき、ガンマ少佐と闘う場合に役立つかもしれない貴重な血のことを優先して考えてしまい、自らを呪った。

 黒衣部隊が侵入してきた入口から流れてきた外気の影響で濃淡が疎らな白い煙が横切り、右の手のひらからシータを連れ去った。このとき、イオタには仕返しではなく、復讐という文字が心に刻まれた。

目が赤く血走り、爆発した感情を解き放つ。殺戮の道具として血に飢えていた乱杭歯と鉤爪が伸びた。

「ガルルルルゥゥゥ~」

 化け物というより獣に近い呻きをもらし、乱杭歯から粘性の涎をしたたり垂らす。

「なにかいるぞ」

「気をつけろ!」

 警戒心を張られた直後、イオタは手前にいる隊員から次々に襲い掛かる。

白い煙で視界を遮られた隊員達は身動きがとれず、一方のイオタは人間の体臭をキャッチして鉤爪と乱杭歯を使って出血させた。

手榴弾の爆発による煙幕は皮肉にもイオタに味方した。

何発が銃弾を喰らったが、痛みは荒ぶる感情が忘れさせてくれた。

 数分後、乱杭歯についた血を飲まないように唾と一緒に吐き出し、イオタは肩で息をしながら床に腰を落とす。体を引き裂かれ、噛み殺された隊員の死体の山から大量の血が流れ、辺り一面は真っ赤。

 新鮮な血は下を向くイオタの顔を映した。栗色の髪、卵型の輪郭、控えめで上品な顔のパーツ。頭を軽く振ると前髪が垂れ下がってθの記号とそっくりになる。これまでシータの血を飲んで知識を手に入れていたイオタに、顔や右腕や右脚がさらにプレゼントされ、複雑な気持ちが交差する。

これは望んでいたことじゃない!

イオタは自分を罵った。

『黒衣部隊は始末できたのかしら……フフフフフッ』

久々に聞こえてきた脳内の女の声は語尾に気色の悪い笑いを残した。

「まだ地上に残っている隊員がいるかもしれない」

 イオタは気を取り直し、目の前に誰もいないのに喋りはじめた。

『私の声を聞いても驚かないのね』

「驚かないよ……ジェーンさん」

 イオタは脳内から響く声の名を告げ、口角の片側を上げた。

『そろそろ声をかけてくる頃だと思ってた?』

「ぼくが八歳?のとき、いや三日前くらいにジェーンさんと地下の下水道から出て帰る車の中で、脳内に話しかけられたのを覚えてるんだ。でも、そのときジェーンさんは運転しながら喋っている様子がなかったから、あの声は二本の角を生やした脳内の黒い化け物だったんだろうなと思っていた。だから声の正体なんてどっちでもいいやというのが正直ないまの気持ち」

『あのときは私の体内のピコマシンからイオタ君の脳内へ話しかけるテストをしてみたのよ』

「ぼくの体内にはピコマシンが入ってるんだね」

 体内にそのピコマシンは入ってる?と質問したときに“街で人間を襲っていればピコマシンを飲んでいることも考えられるけど、可能性は低いと思うわ”と言われたことを忘れていたわけではないが、不思議と怒りはこみ上げてこなかった。

『そうよ。でも安心して、私以外知らないから黒衣部隊にGPS機能で居場所を特定されたり、操られたり、面倒なことにはならないわ』

「ジェーンさんが個人的な理由でピコマシンをぼくに飲ませたんだね」

 イオタにはジェーンの魂胆が見えてきていた。

『音声を聞いたり、話しかけたりすることくらいしかできない安物のピコマシンよ。シータ君にも飲ませたんだけど、通信不能になって使い物にならなかったわ。やっぱり安物は駄目ね』

「シータは……死んだよ」

『あら、そう』

 ジェーンの反応は素っ気なく、イオタが泣き叫んだ声を聞いていればシータが死んだことは把握しているはず。

「その程度の感想なの?」

 イオタはジェーンの表情を見ないで判断したくはなかったが、声は尖ってしまう。

『いまは先にやることがあるでしょ』

「ガンマ少佐を倒すため……だね」

 ガンマ少佐の名前を口にするだけで、イオタは感情が高ぶっていくのがわかった。

『彼の妄想は危険だわ』

「この世に悪魔的な象徴はひとつだけで十分とか言ってたよ」

『ベータさんもられたようだし、いまはあなただけが頼りよ!』

 語尾には強い願いが込められていた。

「早くガンマ少佐を倒す作戦を具体的に教えてくれないかな」

『具体的な作戦なんてないわ』

「嘘はもういいよ。だったらなんでわざわざ通信してきたの?きっといまのジェーンさんはガンマ少佐に追い詰められているところなんじゃない?」

 イオタはできるだけ焦ったり、心配している様子を悟られないように訊く。

『正解。隊員の足音が近くまで聞こえてきてるわ』

「ガンマ少佐に一泡吹かせることができるならなんでもやるよ」

『それを聞いて安心した。ベッドの下に血液が入ったケースがあるの……』

「それはシータの記憶を舞台で見たから知ってる。でも、爆発で粉々になったかも」

 時間がもったいなくて、ジェーンの説明を省かせる。

『大丈夫よ。ちょっとやそっとじゃ壊れないケースに入ってるから』

「その血を飲めばいいんだね」

『ええ、そうよ。でも、その血を飲むには覚悟が必要よ。もしかすると時空が歪んで現実の世界が崩壊するかもしれない』

 ジェーンの緊迫感のある喋り方は最終手段でありながら、かなりのリスクを伴うことを連想させるが、イオタには現実の世界の運命まで背負うつもりはない。ガンマ少佐に復讐できればそれでよかった。

「確かアルファという吸血鬼の血だよね」

『ええ、過去へ戻る座標軸はアルファがガンマ少佐に殺される少し前に設定して念じなさい。原点となる過去の舞台へ行くことになると思う。そこでどんなことが起るかなんて想像もできないけど、ガンマ少佐をその舞台で殺せば、未来が変わるのは間違いないわ』

「アルファという吸血鬼もガンマ少佐に殺されたんだ」

『そうよ』

 弱気な声でジェーンが言う。

「自分に期待なんかしてないし、希望なんてこの世にないのかもしれない」

 イオタは自分自身を冷静に判断してみた。

『希望は自分で掴むもの、なんてことが書いてある本を読んだ記憶はない?』

「本にそんなことが書いてあったとしても、それは人間達の思いあがりだよ」

 とはいっても自分が図書館のような部屋にあった本を書いた人間側のほうがよかったのか、吸血鬼のほうがいいのか、灰色の迷いが頭をかすめ、イオタは複雑な表情を浮かべる。

『そろそろ本当にマズイ状況になりそうだわ』

「ぼくが黒い化け物や赤い本を見るのはピコマシンの影響?」

 イオタにはそれらの正体が自分の心に潜む悪魔的要素の仕業であることは理解しつつも質問してみた。

『なぜ、いまその質問をするの』

 ジェーンの言い方に不快感はなく、笑い声がもれている。

「最後の質問は、ジェーンさんがお母さんでしょ?のほうがよかった?」

『前の質問のほうがいいわね』

 とジェーンが言ったあとで、ブツッと通信が途絶える音が脳内に響く。意識的に通信を切ったかもしれないし、黒衣部隊に見つかったことも考えられる。

 ベッドがあった周囲を調べると、マットの下敷きになっているグレーのケースを発見。長旅するときのスーツケースを小さくしたような形で、持ち上げると軽くて拳で叩くと硬い。脳内の黒い化け物が赤い本を開き、ポリカーボネートという素材であることを教えてくれた。

ステンレスのパッチン錠を外すと、緩衝材の硬質ウレタンで型抜きされた部分に一本の試験管が横向きにすっぽりおさまっていた。薄っすらと霜がかり、寸前まで冷蔵庫などで保存していたことがうかがえる。手に取って見ると試験管の四分の一くらい血が入っているだけで、量としてはそれほど多くない。

 一旦ケースに仕舞い、螺旋状の石造りの階段を上がる。

まだ黒衣部隊の生き残りがいるかもしれない。

屋敷はほぼ全壊し、瓦礫が散乱、炭化した黒い木材が転がっているだけで大階段は跡形もなく倒壊し、外が丸見えで迷彩色のヘリコプターが一台だけ地上に残っていた。サングラスをかけた操縦士と目が合う。他の隊員の姿はない。

 操縦士は焦りの表情で、操縦桿やレバーを連動させ、ヘリコプターを始動。

イオタはケースを地面に置き、飛び掛る勢いでヘリコプターにしがみつく。右腕でフロントガラスを突き破ろうとするが、蜘蛛の巣ほどのヒビしか入らなかった。さっきの争いで右腕に銃弾が当たっているらしく、力が十分に伝わらない。傷口は塞がってないが、神経系統からの痛みはなく、それなりに再生能力は機能している。

二発目、三発目と同じ位置にパンチを繰り出すと、蜘蛛の巣状のヒビがどんどん広がっていく。操縦士は短銃を持ったが、震えてなかなか構えることができない。プロペラが回転してフワリと僅かにヘリコプターが浮き、イオタの右腕がフロントガラスを貫通し、さらに蹴りを入れると左右に割れた。

操縦士はトリガーを引いたが、フロントガラスが顔面を強打、しかも利き腕の右手で操縦桿を握っている射撃では当たるわけがなく、イオタは操縦士の首に鉤爪を突き刺す。

返り血を浴びたイオタは飛び下りてヘリコプターから離れた。斜めの不安定な体勢でヘリコプターは地上に弾かれるようにして横転。爆発はしなかったが、操縦士は頭をダラリと垂らしてピクリとも動かない。

 ケースを取りに戻り、ジェーンが逃げた逆方向の森へ身を隠すことにした。

どれくらいの時間、舞台を見ることになるのか見当がつかない。現実の世界に戻ってこられる保障もなく、気を失っている間に黒衣部隊に見つかってしまえば体は弄ばれてしまう。

 陽射しが差し込まない鬱蒼とした森の奥へ進み、緑の濃いコケが生え、窪地になっている場所でケースを開ける。試験管を型から抜き、親指でコルクの栓を飛ばし、ひと仕事して少し渇きを感じていたこともあり、迷うことなくゴクンと喉を鳴らして一気に流し込む。若干複雑な味はするが、癖があるだけで喉越しは最高だった。

                  ★

                  ★

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瞼を開けるのに少し勇気が必要だった。肌を通して伝わってくる空気感がいままでとは違う。血と火薬のニオイが混ざり、イオタの嗅覚から警告が発せられる。ゆっくり目を開けると、いつもと変わらない舞台がそこにはあったが、すでに赤い幕が上がり、舞台上の板張りの床には何もなく、いつもより照明が暗く、複数の気配を背後に感じた。

「歳を取り過ぎたかな。再生するのに時間がかかるようになってしまった」

 イオタが座っている座席から少し離れたところに、穴だらけのフロックコートを着た男が苦悶の表情を浮かべながら真っ直ぐ前を見据えていた。片膝をつけ、真っ赤に染まった手で胸を押さえている。

そのフロックコートを着た男の視線の先には右腕を横に水平に伸ばしているガンマ少佐がいて、周りにはたくさんの黒衣部隊の隊員が囲み、ちょうどサブマシンガンのマガジンを交換している最中だった。

イオタは慌てて座席に身を沈めて姿を隠し、座席と座席の隙間から様子を窺う。

「面白いこと言いますね。吸血鬼は三十歳くらいで成長がとまるのに」

 ガンマ少佐は斜め後ろにいた隊員から日本刀を受け取る代わりに中折れ帽を渡した。

「とどめを刺してくれるのか?」

 フロックコートを着た男は強がった尋ね方をして立ち上がろうとするが、ガクッと両膝が折れ、まるで処刑してくださいみたいな体勢になる。

「首を斬り落とさないと安心できないな」

 多少喋り方に若さを感じるガンマ少佐は鞘から日本刀を抜き、片手でひと振りをして簡単なデモンストレーションを行い、観客席の階段を飛ぶように駆け下りる。

フロックコートを着た男は覚悟を決めたのか静かに両目を閉じたが、日本刀がガンマ少佐の腰の位置からスイングに入ろうとしたとき、力強く両目を開け、天使が微笑む天井のフラスコ画に向かって「おれの血はこの劇場と共にある!」と叫ぶ。

 ガンマ少佐は無表情のまま日本刀を水平に振り抜き、フロックコートを着た男の胴体から頭部が切り離され、階段で弾みながら血を撒き散らした。血液成分から放たれるメチルメルカプタン、アンモニア、硫化水素、ホルモン、などの配分がそれぞれ違うのか血のニオイは複雑で、飛沫ひとつひとつに個性が感じられ、それだけたくさんの人間の血を吸っていたということになる。試験管に入っていた血液と臭いがほぼ一致。フロックコートを着た男はアルファという吸血鬼に間違いなかった。

「わけのわからないことをする奴だ」

 頭部のないアルファが着ているフロックコートでガンマ少佐は日本刀についた血をしかめっ面で拭き取る。

 ガンマ少佐はまったくこっちに気づいておらず、無防備。自分とシータがガンマ少佐に刺された瞬間を思い出し、指を鳴らさずに劇場が壊れる強烈なイメージをぶつけた。

「ガンマさん、ここを焼き払いますか?」

 後ろで鞘を持っている隊員がガンマ少佐に尋ねた。

少佐というカテゴリーをつけていないことから望みどおりの過去に来れたことが確定。

「そうだな」

 ガンマ少佐が返事をした直後、劇場がグラッと傾き、左右に大きく揺れはじめる。壁や床に雷のようなヒビが入り、ボコッと一階の観客席の一部が陥没。二、三階の桟敷席は倒壊して一階の入口を塞ぎ、過半数の隊員が下敷きになる。

「じ、地震だ」

 と言ったあと、鞘を持っていた隊員が階段を転げ落ちていく。

「いや……違うな……普通は天井も落ちる」ガンマ少佐はシャンデリアが皓々と明かりを照らしていることを不可思議に感じ、眼球を忙しなく動かして「そこか!」と日本刀を肩よりも上に掲げ、コンパクトなストロークから肘をスムーズに回転させるバネ仕掛けのような動きで直線上の軌道に日本刀をのせる。

「くっ……」

 イオタは顔を傾けるのが精一杯で、直線的に飛んできた日本刀が右肩を貫通して座席に突き刺さった。

「子供?!……日本刀が刺さっているのに割りと平気な顔をしているな……しかも同時に揺れもなくなったのはどういうことだ?」

 ガンマ少佐は険しい顔つきでイオタを睨む。

「に、鈍いね、ガンマ少佐……」

 イオタは串刺し状態を目で見てしまい、痛い!というイメージを頭の中から排除することができず、苦痛で顔を歪ませた。それでも日本刀を抜くときは、痛くない!痛くない!簡単に抜けるはず……と気合を入れて念じた。刃を掴みながら一気に抜くときのイメージはなんとかピュッと少量の血が吹き出る程度にとどめた。

「私の名前を知っているのか?しかも刀を素手で抜くなんて……到底人間の子供ができる芸当じゃないな……吸血鬼か……」

 ガンマ少佐は自分で答えをみつけたが、肝心なことを知らない。ここはすでに現実の世界ではないという事実を知らない。

「だから?」

 イオタは立ち上がり、“ら?”の最後の発音のとき、敵意に満ちた上目遣いを向けた。

「私とは初対面のはずだが、かなりご立腹なのかな?」

 ガンマ少佐が目を皿のようにさせてイオタを観察する。

「それほど遠くない未来で会ったばかりだよ」

 イオタは感情を押し殺し、優しい口調で答えてやった。

「未来?面白いことを言う子供だな」

「過去に辿り着けたということは、ぼくは未来からきたということにならないかな」

 謎かけのようなことを言ってから、イオタは鮫皮が巻かれている日本刀の柄を雑巾でも絞るみたいにして両手で握った。

「私以外の吸血鬼は意味不明なことばかり言う奴が多いな」

 ガンマ少佐が渋面をつくりながら言う。

「無駄なことはひとつも言っていないつもりだけど」

「私の武器を手に入れたから、そんなに余裕でいられるのかな?」

 ガンマ少佐はわが子におもちゃを与えたかのような余裕の笑みを見せた。

「そうかもしれないね」

 座席を踏み台にジャンプして近づき、日本刀を縦横無尽に振る。一振り一振りに殺意をこめたが、振るときにどうしても力が入り、ガンマ少佐に涼しい顔で避けられてしまう。

ジェーンと闘ったとき、逆の立場だったことを思い出し、そのときの教訓がまるで生きていないことに苛立ちを感じた。しかもガンマ少佐は首を上下左右に動かしたり、下半身を狙ったときは垂直に飛んだりして後退りすることなく攻撃をかわす。これでは特定の場所に追い詰めることもできない。

 イオタは日本刀を遠くに放り投げ、大勢の黒衣部隊を始末したときに使った大鎌をイメージした。手に握られた大鎌のグリップエンドに彫られているスカルが、出番を待ってたよ、とでも言いたげに口を開けている。

 さぁ、驚いてよ、ガンマ少佐。

「いま、何をした?」

 突如として武器が現れる魔法のような瞬間を目にしたガンマ少佐に焦りの色が浮かび、イオタはこれ以上のチャンスはめぐってこないと判断して大鎌を振った。

手ごたえがあった。いや……ありすぎた。

ガチッと金属音がして大鎌は弧を描くことなく、ガンマ少佐の首で跳ね返される。

イオタはすぐに後ろに下がって距離をとった。タートルネックのような首周りの生地がスッと切れて垂れ下がり、ガンマ少佐はその切れ端を千切って捨てた。首が鉄製のギブスで守られている。

「畜生!」

 イオタは悔しさを吐き捨てた。

「吸血鬼を殺すには首を斬り落とすか、心臓を杭のようなもので正確に貫くか、灰になるまで焼くしかないが、私の着ているスーツは不燃性で、首と胸部は鉄で防御している」

 ガンマ少佐は両生類のような細くて長い舌を不規則にペロペロ出し、恐ろしく伸びている鉤爪を舐めた。

イオタの脳内の黒い化け物は赤い本を捲って『八方ふさがり』という言葉を引いて見せた。

唇を噛み締め、接近戦を避けるために飛び道具を出そうとするが、浮かんだのは黒衣部隊が持っている最新のサブマシンガンで、中身の構造が複雑でイメージできず、現れてくれない。

赤い本を使い“武器”で検索すると、残念ながら刃物の類のアナログな武器しか載っていない。苦慮しているところへ黒い化け物が勝手に“暗殺”という項目にページを切り替えた。開かれたページには一八六五年、第十六代アメリカ大統領リンカーン暗殺事件のことが書いてあり、そのときに使われた前装式の単発小型銃フィラディルフィア・デリンジャーが図解で細かく説明されていた。

昔の銃だと構造は簡単。

 デリンジャーがフワッと出現し、重量感を携えて二丁の銃が両手に握られた。流線型の滑らかなコンパクトサイズで、グリップは天然木。鉄の銃身を木材が挟み込み、見た目はソーセージがはみ出しているホットドックに似ている。右側のサイドプレートにハンマーが装着してあるサイドハンマー式で植物の模様が彫られ、人差し指を銃身の脇にあてがい中指でトリガーを引く仕組みになっている。

「そんな博物館行きの銃をどこから持ち出してきたんだ?」

 狡猾な狐のような顔のガンマ少佐が、狐につままれたような顔をして訊く。

「教えてあげない」

 可動するのはトリガーとハンマーだけの単純構造。弾は装填済みで撃てる状態になっているんだろうなと不安を抱えながらイオタは左右両方のトリガーを同時に引く。銃口から火花が散り、白い煙が火薬の臭いと一緒に舞い上がる。ガンマ少佐は二回上半身を揺らしただけで、銃弾によるダメージは乏しい。

「まるでおもちゃだな」

 ガンマ少佐は自分の体に指を突っ込み、二個の変形した弾丸を自らの手で抜き取るという必要最小限の手術をして、見せつけるようにパラパラと落とす。すでに出血は止まっている。

「やっぱりすごい再生スピードだね」

「再生能力のことも知ってるのか?何者だ?」

 眉間に深い皺を寄せ、それまで肩幅と同じだった足の位置を踏ん張れるように上下に開いてガンマ少佐が構えた。

余計なことを口走り、警戒心を強くさせてしまったことで、イオタの余裕は減少する。

一発ずつしか撃てないデリンジャーを使い捨て状態で、撃っては捨て、撃っては捨てを繰り返して銃弾を浴びせた。デリンジャーがイオタの足元に山積みされるほどたまっても、ガンマ少佐の両膝を折ることも叶わなかった。

「無敵だね」

 褒め殺しで隙が生まれるとは思っていなかったが、イオタの口から諦めに近い言葉が出てくる。

「理解してくれたことに感謝する」

 ガンマ少佐はイオタを子供扱するのをやめたかのような言葉遣いをしたあと、崩れた劇場内の塵が器官に入ったのか「ゴホッ」と咳き込む。その瞬間が妙に人間っぽく感じた。

屋敷が崩れて地下に逃げたとき、自分とシータも咳をした。

“吸血鬼”について詳しく調べさせようとすると、脳内の黒い化け物は赤い本を座布団代わりにお尻の下に敷いて座る。調べてやらないぞ!という態度がありありとわかり、イオタは苛立って『ぼくが死ねば、おまえも死ぬんだぞ。さっさと本を開け!』と生きている限り定番になるかもしれない脅し文句をかける。

 黒い化け物は頭の上の角を煩わしそうに撫でてから立ち上がって赤い本を開く。吸血鬼についての記述が増えている。シータの読んだ本の知識と、舞台に誘い込むために血がついたガラス片を舐めたとき、隊員達の知識がプラスされたとイオタは推測した。

 吸血鬼……人間の血を吸う悪霊。人を苦しめる強欲な人間。

 辞書から抜粋してきたと思われる一連の体系に基づいた文章を読むと、自分が吸血鬼なのか、人間なのか、実態のない存在なのか、頭の中は混沌としてきたが、自分が何者なのかということで迷わないようにと脳内の黒い化け物が気遣って本を開こうとしなかったとは考えられず、ガンマ少佐の弱点を簡単に教えたくなかっただけだと推理してみる。追い詰められたところで、助言をするかわりに脳を支配して体を乗っ取る条件でも出してくる腹積もりだったのかもしれない。二本角が生えた黒い化け物は悪魔的要素の塊なのだから、それくらいの悪知恵は働く。

 イオタは脳内の黒い化け物の悪巧みを苦笑いで処理して、もう一度デリンジャーを両手に握った。

「懲りないな」

 ガンマ少佐は嫌気が差したかのような顔をする。

「攻めのパターンが少ないんだ」

 演技ではにかんだあと、イオタはトリガーを引く。二発の弾丸を陽射しでも避けみたいな仕種で腕に被弾させ、ガンマ少佐は口を最大限に広げ、体を仰け反らせ「グゥォォ~」と乱杭歯をむき出して吠えた。猛獣さながらの本能をさらけ出して恐怖心を植え付けようとする。

イオタは怖気付くことなく冷静にパチンと指を鳴らした。留め金のネジから外すなどの余興をはぶき、シャンデリアがぶら下がっている周辺の天井ごと突き落とす。激しい衝撃音と煙に紛れてガンマ少佐の姿が消えた。でも楽観することなんてできない。ジェーンさんにも効かなかったことが、はなから通用するとは思わない。

理性を手放す覚悟で猛獣や恐竜に変身するイメージをしてみたが、最新のサブマシンガン同様に体内の構造を把握できていないのが悪いのか、体になんの変化も起きなかった。

白濁した埃が霧となってイオタの周りを取り囲んでいたが、突如として目が暗転する。

ガンマ少佐がすでに目の前に立っていた。

撃ったばかりの二丁のデリンジャーを口の中に突っ込んで乱杭歯をへし折る。

 満足に喋れないガンマ少佐を尻目に、イオタはチャンバーに入っている弾丸をイメージしてトリガーを引こうとする。が、下から突き上げてくる拳が顎にクリーンヒット。

イオタの体とデリンジャーが宙に舞う。

銃声は無意味なところで鳴り響き、観客席に落ちたとき左の肘を手摺で逆方向に捻り、バキバキッと粉々に砕ける音がして、ありえない角度に曲がった。

「やはり弾が入っていたのか……嫌な予感が当たった……」

 ガンマ少佐の表情は引きつっていた。

「残念だけど入っていたというより、瞬時に入れたという表現の方が正しいかな」

 プラ~ンと左腕を垂らしながらイオタが涼しい顔ですぐに立ち上がる。腕が千切れるくらいの痛みをイメージしてしまったが、なんとか耐えた。複雑に折れた骨の再生は時間がかかりそうだ。

「そうか、その手品は能力か」

 ようやく解決への糸口が見えてきたのか、ガンマ少佐は微笑む。

「ぼくの能力は手品じゃないよ」

 イオタはガンマ少佐の笑顔を打ち消すような言い方をして余裕を見せる。

「死んでしまっては、その能力はなんの役にも立たない」

 ガンマ少佐が二回床を蹴って距離を縮め、体を前方に半回転させながら右手を真っ向上から振り下ろす。

イオタはすんでのところで避けたが、凶器と化した鉤爪が客席、そして床ごと削り取った。

ポッカリと井戸のような穴が開き、過剰なほど深く掘られたことにイオタは不可解さを感じ、ガンマ少佐も自らの度を越した破壊力が解せないといった表情で右手を見詰めている。

 ガンマ少佐の迫力に圧倒され、劇場が破壊されるイメージを脳内に描いてしまったのかもしれないと思ったが、よく見ると穴は開けられたというより、前々からそこにあった空洞の上部を崩しただけで、かなり広い空間が存在しているらしく、生暖かい風が吹き抜けてくる。

どことなく見覚えがあるような……いや、見覚えがあるからこそ空洞が存在しているはずで、無意識のうちにイメージしてしまったんだ……そうだ!

 古い記憶が宿ったイオタに名案が浮かび、薄闇の穴へ飛び込ませる。バシャと水面に着地すると、すかさずガンマ少佐も下りてきた。距離は二メートルも離れていない。

「迷いなく飛び下りたな」

「悪い?」

 怪訝な表情のガンマ少佐とは対照的に、イオタは不敵な笑みで答えた。

目の前にいるガンマ少佐はイオタとシータを斬ったときのガンマ少佐より若さがあり、隙がある。

「ここは……下水道か」

 ガンマ少佐は眼球だけを動かして周りの様子を探る。

「ひとつ聞きたいんだけど、ぼくとガンマ少佐に血縁関係はないよね?」

「なにをわけのわからないことを言ってる?それに私はまだ少佐じゃない」

「そんなに遠くない未来、少佐になれるよ。でも、その前に死んじゃうけどね」

 イオタは大鎌とバケツをイメージして両手に持った。

「その武器が通用しないということはもうわかってるだろ。バケツは私の首でも入れるつもりなのか?」

 ガンマ少佐がうんざりした顔をしたところで、イオタは大鎌を短く持ち、自分の首の頚動脈を切った。プシューと噴水のように血が吹き出た血をバケツに入れる。血が枯渇して体力を消耗するイメージさえしなければ問題ない。

「なんの真似だ?」

「ぼくの血をあげるよ」と言ったとき、遠くの方から「あ~」という何かを確認する子供の声が響いてきた。過去においてイオタが下水道で目を覚ましたときに発した声に間違いなかった。

「グゥォォ~」

 イオタは過去の自分を近づけさせないために雄叫びを上げる。勝機があるとすれば相手の意表を衝く不意打ちの効果しかない。

 ガンマ少佐は狂気じみたイオタの行動に惑わされ、眼球が落ち着きなく右往左往する。

イオタはその瞬間を見逃さず、大鎌の柄の部分を適度な長さに折り、ガンマ少佐にぶつかる勢いで抱き付く。柄を口の中に縦に差し込み、突っ張り棒の要領で上顎と下顎が閉じないように抑制した。

「あがっ……ぐふっ……」

「血の繋がりがあるのはジェーンさんとシータとぼくだけみたいだから、ガンマ少佐には能力を伝授できないな」イオタは脚を蛇のように巻き付け、血がたっぷり入ったバケツを怪しい笑顔で掲げ、一気に流し込む。「本能に逆らうことはできないよ」

 最初は拒んでいたガンマ少佐も血が喉を通過すると、夢中になってゴクゴク飲みはじめた。ミルクを与えられた子猫と見た目は変わらない。

「ぼくの血の味が忘れられなくなるくらい、溺れてよ」

 イオタがバケツを捨て、首を絞めると、ガンマ少佐は顔を真っ赤にさせ「ガボッ……」と喉から血を吐き、後頭部から下水道の汚水に倒れ、顔を沈め、手足をバタバタさせて酸素を追い求める。

「ぼくらには人間の遺伝子が組み込まれているのかもしれない……じゃないと血を飲んだときに咽たり、ぼくとシータが地下に逃げたとき、煙で咳き込んだりしない。ぼくらには人間的な弱みがあるんだ」

 イオタが言い終わらないうちにガンマ少佐のもがき苦しむ動きが止まる。

「脳に酸素が送られなくなったみたいだね」イオタは新しい大鎌を出した。「臓器が再生する前に片をつけてあげるよ」

 閃光するどく縦に振り下ろした大鎌の刃は鉄製のギブスのところで止まった。

ガンマ少佐の頭部が脳天からバナナの皮みたいに裂け、失敗作のマネキンみたいに沈む。

「シータ……やったよ」

 達成感が湧いてきたのは一瞬で、その後は虚無的なものが心に去来する。その気持ち悪さが人間臭さなのか、吸血鬼の悪的要素なのかイオタには判断できなかった。

 イオタは大鎌の刃についた血を濃紺のジャケットの袖にたっぷり染みこませた。

 耳をすませば、まだパシャパシャと水を弾く音が聞こえ、イオタは苛立ちながら「グゥグゥォォ~」と吠えてみた。

 逃げ足の遅い奴だ、とイオタは過去の自分を罵る。

脳内の黒い化け物が赤い本から離れてすねた感じで立っていたので自分で捲り、時空について調べてみた。過去の自分との遭遇は決して入り混じることのない二つの宇宙空間が存在するリスクが伴い、一方の宇宙が限界に達する破壊し兼ねないエネルギーが発生してしまうという説もある。時空が歪んで現実の世界が崩壊するかもしれないと、ジェーンさんが言ったことの裏づけになるが、実際どうなるかなんて誰にもわからない。

 もう一度「グゥオオォ~」と吠え、数日前の過去の自分に念を押して警告した。

視界がぼやっと白みがかってきた。試験管の血液の量が限界に近づき、強制的に現実の世界へ還らされそうで、イオタは残りの黒衣部隊を始末しようと、ガツッと壁に引っ掛けた大鎌を軸に、浮力するイメージで穴の上へ。

再び劇場内に戻ったとき、ほとんどが下敷きになって息絶えていたが、数人の隊員が血を流し、呻きながら苦痛に耐えていた。

そんな中、一人の隊員がスポイトでアルファの胴体から血を採取していた。こっちに気づくとその隊員は作業を中止した。たぶん採取された血はジェーンさんに盗まれ、試験管の中身となるはず。

隊員を殺せばここへ来られないということになり、ガンマ少佐も生き返ってしまう。姿を見られた隊員を生かしても特になることはないが、仲間の死より使命を遂行している隊員を見過ごすしか道はなさそうだ。

アルファという吸血鬼はこうなることを知っていた気がしてならない。未来を予知できる能力があって無駄な悪あがきをせずにガンマ少佐に首を斬られたのではないだろうか?

 運命に踊らされているという脱力感にイオタは襲われる。

「その血は丁寧に保管してよ」

 イオタがその隊員にひと声かけたとき、視界が急激に白濁した。


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