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Chapter3  淫らな十四歳


Chapter3  淫らな十四歳


 牙から粘性の涎を滴り落とす化け物に襲われる夢を見た。逃げても逃げても追いかけてくるその化け物は細長い蛇みたいな黒い体をくねり、上顎から生えている巨大な牙を怪しく光らせている。

立ちすくんで身動きできないイオタはカブッと咬まれたところで目を覚ます。

 最悪な夢を見て、最悪な目覚めのはずが、現実の世界はもっと悲劇的だった。黒ずんだコンクリート壁、リベットが打ち込まれている鉄のドア、石畳の床には天井から落ちてくる水滴で水たまりができているところもある。湿気が部屋中を包み、イオタはベッドの上で手足を皮のベルトによって拘束されていた。自分の着ている服のサイズに余裕が感じられ、半ズボンからスラックスにはきかえられていた。幸福はそれくらい。

 手足をジタバタしたり、体を捻ったりしたが、ベッドから離れることは許されなかった。

 イオタは何処かで見た光景だと感じた。

 一生このままなのかという不安が押し寄せてくると、きっと誰かが助けに来てくれるという希望に変えた。追い込まれてネガティブな気分に支配されつつあるとき、ポジティブな気持ちを見つけることが閉塞感から脱却できる。

 それからどれくらい時間が経っただろう。一年……一時間……いやひょっとすると一分も経っていないのかもしれないが、精神状態が不安定になることはなかった。時間のパズルがめちゃくちゃになっても怖さというものを感じない。自分は時間に囚われない生き物で、例えば不老不死のような能力を持った特別な存在なのではとさえイオタは思った。

 荒唐無稽な妄想に耽っていると、金属の擦れ合う不快な音をさせてドアが動く。

「シ、シータ!」

 時代錯誤的な牢屋のようなドアを開けたのは、自分と同じ服を着ているシータだった。

「お元気でしたか?」

 シータは目尻を下げて尋ねてきたが、なんとなく他人行儀な訊き方のような気がした。

しかも舞台で会ったときとは雰囲気が違う。白と青のストライプ模様のパジャマを着ていないこともあるが、やつれて頬がこけていたのに、顔は卵型にふっくらしてθという記号に完璧に近くなっている。記憶と現実だと容姿に誤差が生じるのはしかたのないことなのかもしれない。

「体はなんともないけど、シータは元気そうだね」

 ベッドで横になっている姿ではなく、立っているシータを見てイオタはうれしくなった。

「イオタ君のお陰です」

 シータの言葉遣いから親近感が湧いてこない。

「そんなことないよ」

 自分と話してたら元気が出た、と言ってくれたことを思い出し、イオタは照れ臭そうに言葉を返す。

「いや、本心からそう思うよ」

シータは無表情で念を押してきた。虚弱だったときとはまるで別人で、近寄り難い感じさえあり、イオタは拘束具を解いてほしいという要望さえも口に出せないでいた。

「立場が逆になってしまったことを心から詫びるよ」

と言って頭を下げたシータの動きは機械的で感情がなく、乱れた長い前髪を直そうともしない。

「別にいいんだよ」

 イオタが苦笑いすると、シータは怪訝そうな顔をした。

「君はなんにもわかってないね」

 シータは悲しげな表情をしながら、そっと視線をドアの外へ向けた。

すると「そろそろ別れの挨拶はすんだかしら」と、女が入ってくる。

 口から乱杭歯こそ出してなかったが、指に四本の注射器を挟んでいた。

「ど、どういうことなのシータ?」

 イオタが動揺の色を浮かべて尋ねても、シータは無視して部屋から出ていく。

「待ってよ、シータ!」

「うるさいわね。採血の時間よ」

 採血の時間……聞き覚えのある台詞だった。

 女に無駄な動きはなく、イオタの腕に注射針を突き刺す。

「やめて!」

 射された瞬間、引きつったイオタの顔だったが、シリンダーが自分の血で真っ赤に染まったときは平然としていた。痛みはなく、覚悟した恐怖心は拍子抜けするほどしぼむ。

「一本目で苦しむことはないわ」

 女がそれとなく理由を説明してくれた気がした。

 シータは毎日かなりの量の血を採られて、あんなに虚弱化していったのではないだろうか?

「まさか意識を失っている間に、二人でコンタクトをとってるなんて思いもよらなかったわ」

と言ったあとで、女は堪えきれずに笑う。

 二人でコンタクト……ということは舞台で会っていたことをシータが自ら話してしまったことになる。

 イオタは遠ざかる足音が聞こえてこなかったことから、シータがまだ傍にいると感じていた。

 そして、叫んだ。

「シータ、まだそこにいるんだろ?ねぇ、どういうことなの?説明してよ!」

 答えは返ってこない。

 女はフフッと惨い笑みを見せた。

 イオタにはくっきりと黒い霧が体内を駆け巡っているイメージができた。心をどす黒く染めようとしているのがわかり、すぐにでも蓋をしなければいけなかった。このままだと感情をコントロールできなくなる。心にしっかり蓋をして、誰とも会話せず、接触しなければ傷つけられることはない。裏切られたときの気持ちはこんな感じなのかと辛くなってきた。

 二本目、三本目、と採血されているとき、イオタは目に薄っすらと涙を滲ませた。

「あら泣いてるの?」女は少しびっくりしたような表情をしてまた笑った。「でも、シータ君を許してあげてね。もう血を採らない代わりに隠し事はしないでねって、せっかく約束させたんだから」

 女は四本目の注射器のシリンダーから空気を抜く。

「思っているほど辛くないでしょう」

 四本目を刺され、血を採られている最中、イオタはシータに裏切られたことなど忘れてしまうくらい、体の異変に苦しめられた。何か硬いモノで殴られたような頭痛と、キィーンという高い周波数の耳鳴りが断続的に襲ってきたのだ。

「グワッ」

と、吐き気を催すほどの激痛がイオタを苦しめる。

「そのうち慣れるわよ」作業を終えた女はあっさりとした言葉を残し、ドア付近で「さぁ、行きましょう」と、シータの肩を抱いて部屋から離れていく。

 ドアを閉めなくても逃げるだけの体力や知力はないと思ったのだろう。

 畜生!!

 イオタの心に生まれてはじめて怒りという感情に火がついた。その怒りはシータの裏切りや女の傲慢な態度への反骨からきたものに間違いない。怒りが緩衝材の役割を果たしてくれたのか、単に時間の経過が痛みを緩和してくれたのか正確なことはわからないが、イオタは頭痛と耳鳴りから開放されつつあった。耳鳴りは治まり、ハンマーで殴られているのかと思った頭痛は、丸めた新聞紙で叩かれるくらいまで急激に落ち着いた。このときイオタは怒りがエネルギーになることを知る。

 体力や思考力が正常に働くうちに逃げなければいけない。

 でも、どうやって?

 頭の中に赤い本を浮かび上がらせ、手足を拘束された状態で脱出できる方法を探ったが、答えになるようなことは書いてなかった。図書館のような部屋で、元囚人が刑務所から逃げた経験を綴った自叙伝などの本でも見つけて読んでいれば、可能性はゼロではなかったかもしれない。

 できるだけポジティブなことを考え、怒りの炎を消さず、集中力を切らさないように試行錯誤しているときでもシータの顔がチラチラ見え隠れする。

 シータは血を採られるのが嫌で、ぼくを売ったのか?

 怒りから嘆きへと感情が変化の兆しをみせた。

 首を動かして頭を振る。それでもシータの顔は消えない。

 イオタは自分が自分でわからなくなってきた。いま自分が何歳なのかも正確にわからず、自分の名前が本当にイオタなのかも疑わしい。あの女はシータ君と言っていたから、シータがシータであることは間違いなく、名前は偽ってなかったようだ。

 自分はお調子者という馬鹿にされた仮の名前で呼ばれたのに……と、イオタに嫉妬に近い感情が燻る。

黒い霧に重量が感じられ、徐々に胸の辺りが苦しくなってくる。イオタは黒い霧の正体が精神的なストレスの類だと判断し、解き放つため、心の蓋を開けた。

しかし、体内で充満する黒い霧はモクモクっと膨れると、体内から脳内へ上昇して頭に二本角が生えた化け物に形を成した。そして、脳内にあるイオタの記憶と知識が詰まった赤い本を小脇に抱え、口を薄く開けて笑ったような仕種をした。まるで、自分の物になったぞと勝ち誇っている顔に見える。心が、脳が、黒い化け物に支配された気がした。

気持ちを委ねればもっと気分が楽になる、という誘いなのか手を差し伸べてきて、イオタが手を握るイメージをすると、スゥ~と胸につかえていたものが取れ、清々しい気分になる。

そればかりか、ここから抜け出す思いがけないアイディアが浮かんできた。

 黒い霧から生まれたアイディアは黒いリスクが伴う。

 リスクなしに、ここからは出られない。

 頭の中の赤い本はヒントさえもくれなかったが、黒い化け物から救いの手が差し伸べられた。頭で考えることと心で感じることがバラバラだと思っていたイオタは、脳内に憑いた黒い化け物によって統一された気がした。

 そして、笑いが堪え切れなくなった。

 押し殺そうとしても、醜くて卑猥な笑い声はなかなか途絶えることはなかった。


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