表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

Chapter2  淫らな十二歳


Chapter2  淫らな十二歳


 暖かい陽射しが窓から射し込み、イオタは気持ちの良い朝をむかえた。

 顔を持ち上げ、一冊の本を枕代わりにしていたことに気づく。涎がついてページの端に染みができていた。擦ると破けそうで、乾かそうとフゥ~フゥ~息を吹きかける。

 ガチャと背中越しにドアノブを捻る音がすると、女が入ってきた。

 女が来るまでの間、イオタは静かに本を閉じる。

 読んでいたのは『血液の不思議』という女に薦められた本。タイトルから比較的噛み砕いてわかりやすく説明してくれているのかと思いきや、中身は原子記号や化学式の羅列で文章が埋め尽くされていた。科学の基礎知識がないと読むのが難しい本で、即効性のある睡魔に襲われていつの間にか眠ってしまった。文字や文章からだと筆者の気持ちは伝ってくるが、数字や記号には感情がなく、何も伝わってこない。

「その本は面白かった?」

「う、うん……ちょっと難しかった」

 つくり笑顔で面白かったと答えようとしたが、正直に言うべき、という意思で処理する。

「確かに難しいかもね」

 女は本を持ち上げ、パラパラ捲ると、納得した表情で本を机に戻す。

「うん」

 はじめて意見が合ったような気がしてイオタはうれしかった。

「でも、最後まで目を通したわけじゃないんでしょ」

 女が横目を使い、咎める目つきで断定する。

「えっ?どうしてわかるの?」

 イオタは動揺しながら訊く。

「だってあなたの頬に本の跡がついてるから」

と言って女はクスクス笑う。

 頬に触ると凸凹感が伝わってくる。

「それと本を汚すのはこれっきりにしてよね」

 女は急に冷めた表情で注意してきた。

その変わり身の早さに驚き、イオタはこの女に隠し事は無理なのかもしれないと感じた。それでもシータと舞台で会話した秘密は、絶対に隠し通さなければいけない。目を合わせると見抜かれそうで、思わず視線を逸らす。

「あら、言い方がきつかったかしら。そんなに怒ってないからビクビクすることないわよ」

 イオタの強張った表情を違う意味で読み取り、女は気遣いの言葉をかけてきたが、口調は尖っていた。

「有難き幸せ」

 イオタはここぞとばかりに机に両手をついて頭を下げる。

「なんなの?それは?」

 女は目を白黒させて戸惑い気味に尋ねた。

 『血液の不思議』を読む前に、イオタは『消え去る武士道』という本を読破していた。昔の侍の生き方や潔さに感銘し、感動し、筆者の伝えたいことが脳に浸透してきた。本の内容はイオタの脳内の赤い本に完璧にコピーされた。それによってどうしても、有難き幸せ、という言葉を使いたくてしょうがなかった。

「き、気にしないで……」

 イオタは顔を真っ赤にして、語尾を濁す。

「侍の魂が乗り移ったのかと思って心配したわ」と、女は一笑に付したあと「あなた本を読むと影響されやすい性質ね」と付け加えた。

 女は『血液の不思議』の下にあった『消え去る武士道』という本を一瞥していた。

「朝食の時間よ」

 その声に反応して、イオタは椅子から立ち上がった。

「あら、また身長が伸びたわね。服がキチキチじゃない」

 腕が自由に上げられず、濃紺のジャケットがはち切れそうになっていることを、女に言われて気づく。

 女は爪先から頭までイオタを視線で舐めると、メジャーをポケットから出した。丸いケースで巻き取れるコンパクトなロータリーメジャーで、裁縫のときに使う塩化ビニール製の代物。

「えぇ~と……だいたい一五二センチね。中学生くらいかしら」女が両手を精一杯広げてイオタの身長を測った。「さすがに半ズボンは可哀相ね。あとで体に合ったジャケットと一緒にスラックスのズボンも持ってきてあげるわ」

 イオタは半ズボンから開放される喜びで、自然と笑顔になる。

 図書館の部屋から出て玄関ホールを横切り、肖像画のある部屋へ。昨夜と同じパターンで食事が始まるのかと思ったが、すでに縦に長いテーブルの上には赤い液体が入ったワイングラスが置かれていた。

心の準備が出来ず、女に何か話しかけて時間を稼ごうとしたイオタだが、慌てて質問するとシータのことをぽろりと口から出してしまいそうで、じっとワイングラスを見詰めているだけにとどまる。

「昨晩のことは覚えてる?」

 女の方から質問してきてくれた。

「うん」

「どこまで?」

 尋ねてきた声は穏やかだった。

「ここでこれを飲んで……いつの間にか玄関にいたことは覚えてる」

「以前より記憶はそれほど失ってないみたいね」

 女は腕組みをして考え込む。

「これ飲まないと駄目なの?」

 イオタは少し勇気を出して訊いてみる。

「今日はちゃんとここで見張ってるから安心して飲みなさい」

 イオタはもっと食感のあるものをリクエストしたかったが、はっきり言わなかったのが悪かったらしく、女は的外れな答えを言う。

はっきり料理名を告げれば、このマズイ飲み物を口にしなくて済む可能性は僅かにあったかもしれないと後悔しながらワイングラスを片手で持った。

 助けを求める目線を送ったり、ためらう仕種をして、遠回しに拒否権を発動させる方法も思い浮かんだが、武士らしくないぞ!と自らを一喝。

 それに今回は確証こそないが、楽しみがひとつだけある。

 どうか、またシータに会えますように、と願いを込め、イオタは赤い液体を飲んだ。

                  ★

                   ★

                   ★

 豪華で歴史的な重みのある劇場、不安なイオタの心境を逆撫でする天井に描かれている天使の笑顔、観客はイオタだけで、中央の最前列の椅子に座っている。赤い幕も垂れ下がったまま。

 条件は前回と一緒。

幕が上がってシータが現れる確率はどれくらいあるだろう?

 イオタは半信半疑。かといってシータと会えるのはこの舞台しかないと思われ、待つしかない。

 しばらく退屈な時間が続く。

 勝手に舞台に上がって幕の中を覗いたらシータがいるかもしれない、と邪念が頭を掠めて焦れてきた頃、舞台開始を知らせるブザー音が劇場内に鳴り響いた。まるで、イオタの気持ちを察しているかのようなタイミングで赤い幕が上がる。

 ベッドの足元が見え、イオタは待ち切れず斜め下からシータの姿を確認しようとした。

幕が三分の一くらい上がり、ベッドに寝ているシータを視野に捉えた。シータ!と叫ぼうとしたが、幕が上がり切らないうちに、あの女がツカツカとハイヒールを響かせて舞台袖から現れた。

イオタは唾を飲み込んで出そうとした声を引っ込める。

「献血の時間よ」

 指の間に挟んだ注射器をかざして女が言う。

「嫌だ……」

 シータは大きく首を振る。

「ねぇ、シータ君。そんな駄々を捏ねても私はやめないわよ」

 前回の舞台とほぼ同じ演出が進行していく。

 あんなにシータが嫌がっているのに……。

「ギャッ」という猫が踏みつけられたような悲鳴のあと、シータの元気は失われ、白かった顔がさらに白く、それを見ているイオタの顔は青ざめた。

 女は赤く染まった注射器をポケットに入れると二本目を用意。反射的に椅子から立ち上がったイオタだが、シータがこちらを向き、弱々しく首を振る。こっちに来るな、というサインなのは明らかで、イオタの存在を女に気づかせないためにしてくれた行為だ。

 シータが嫌々しているだけだと思ったのか、女は観客席の方を見ずに二本目の注射を打つ。ピストンが引かれると、赤い液体が吸い上げられ、シータはじっと注射針を見詰めて耐えていた。

 我慢してるのは、ぼくのため?

 イオタは何も出来ない自分が歯がゆかった。

「今日は大人しかったわね」

 四本の注射器を血液で一杯にすると、女は目尻を下げる。

そして、シータの頬に軽くキスをして「またね」と舞台を後にした。

 イオタは女の姿が見えなくなるのを見届けると、すぐに舞台に上がる。

「大丈夫?」と声をかけると、シータは笑ってみせた。「ぼくのこと覚えてる?」

「当たり前じゃないか」

 シータはやつれた表情で答えた。

「すごく久し振りなような気がする」

 夜から朝までのあいだがイオタにはとても長く感じていた。

「四年ぶりかな」

「そんなに経ってないよ」

 冗談を言うシータに余裕が感じられ、イオタは微笑む。

「いや、冗談じゃないよ。イオタ君の身長は一晩で四年分くらい伸びたんじゃないかな」

「そ、そうみたいだね」

 イオタは今朝女に同じようなことを言われたことを思い出し、半ズボンがパツンパツンで格好悪く、生地を少しでも伸ばそうと裾を引っ張る無駄な努力をしてみる。

「二十五センチは伸びたんじゃないかな」

 具体的な数字を言われ、現実であることを認識させられた。

「一晩で二十五センチ伸びるのは平均的なのかな?」

「……平均的だと思うよ」

 シータが少し考えてから答えた。

「そうなんだ」

 多少気になったが、シータの言ったことをイオタは素直に受け入れた。

「あの女の人には、ここでぼくと会話したことは話してないよね?」

 イオタに不快な思いをさせない配慮なのか、シータは慎重な物越しで訊いてくる。

「もちろん。話してないよ」

「ぼくの名前が女の人から出たことはある?」

 今度は探るようにシータが尋ねてきた。

「ないよ」

「そう……もし、ぼくのことを聞いてきたら、何も知らないって答えるんだよ」

 シーツに皺ができるくらい力強く握り締め、シータは上半身を持ち上げた。三日月形の長い前髪が顔の左半分を隠す。

「わかった」と、イオタは返事したが、「でも、しつこく迫られたらどうしよう?」などとすぐに弱音を吐いてしまう。

「そうだね、あの女は君を拷問するかもしれない」

 シータが前髪を中指で左側の耳のところまでずらし、隠れた左目を出して真面目な顔で言う。

「ど、どうしよう……」

 イオタの背中に冷たいものが流れた。

「大丈夫だよ。君が精神的にも体力的にも辛いと感じたら、ぼくのことを話せばいい」

 いままで言ったのは冗談だよ、とでも言いたげにシータがニコッと笑う。

「でも、シータがひどいことされるんじゃない?」

「ぼくは平気さ。イオタ君と会話できて、最近は体調が良いんだ」

 シータはまた笑った。しかし、イオタにはその笑顔がとても痛々しく感じた。

「かなり無理してるよね」

 イオタは気遣うのではなく、やや怒ってるような言い方をしてみた。

「そんなことないさ」

 意識的に筋肉を使い、シータは苦し紛れの笑顔をつくり出す。

「夢の中でシータと会話することが、そんなにいけないことなの?」

 あの女の人の前で同じことが言えたらと思いながら、イオタは自分の意見を吐き出して尋ねた。

「夢の中か……」

と、シータは意味ありげに言葉を切る。

「ここは夢の中じゃないの?」

 イオタは身を乗り出すようにして訊く。

「違うよ」

シータはあっさり否定した。

「だったらここは何処?」

 シータが実在するのであればうれしいことだが、夢の中だからある程度望みどおりの答えが返ってきていたんだとイオタは思っていた。

「ぼくの記憶の中といったところかな」

 シータから次元の違う答えが返ってくる。

「そ、そうなの」

 イオタは動揺しながら劇場内を改めて見回す。

「信じられないかい?」

「そんなことないけど……」

 と言いながらシータの記憶と、この劇場がどのように結びついて自分がここにいるのか、イオタにはさっぱりわからなかった。脳内に赤い本を浮かべたが、ページが素早く捲れてあっという間に閉じてしまった。自分の知識ではまだまだ解明できないことが存在するらしい。

「顔にはっきりと信じられないと書いてるよ」と言ったあと、シータはクスクス笑う。今回はつくり笑いではなく、本気で笑っているように見えた。

「だって、食事しているときに気を失うと、ここに辿り着くみたいだから夢だと思ってた」

「わかった。ここがぼくの記憶の中だという証拠を見せてあげるよ」

 シータは右手の中指を親指で弾き、パチン!と鳴らす。すると、劇場内奥の壁フックにかかったブラケットランプのガラスがパリンと割れた。舞台から最後尾の観客席までかなりの距離がある。

「偶然だと思われたら困るから、もう一回」

 もう一度シータが指を鳴らすと、隣のブラケットランプのガラスが同じように割れた。

「すごい!超能力?指に秘密があるの?」

 興奮気味にイオタが訊く。

「超能力というか能力なのかな。指を鳴らすのはあくまでも意識を集中させるきっかけにすぎないんだ」

「他にどんなことができるの?」

 イオタは胸を弾ませて質問した。

「集中力を発揮してイメージできれば、ここはなんでもありの世界になるのかもしれない。いまのぼくは照明のガラスを割るのが精一杯だけどね」

 シータは疲れた顔をさせて体力が限界なことをアピールする。

「ぼくもできるかな?」

 自分もできるはずという根拠のない自信が芽生え、イオタが訊く。

「可能だと思う」

 シータが希望を与える。

「どうすればいいの?」

「さぁ……それは……イオタ君の努力次第かな」

 シータは困ったように頭を掻くと、赤い幕を下げるモーターが動き始めた。

「シータは現実の世界に実在するの?」

 イオタは残り時間が僅かなことを察知して、早口で質問する。

「ぼくが実在するのか突き止めようとするのは、やめたほうがいい。あの女の人に気づかれたら終わりだよ」

「ぼくは君を助けたいんだ!」

 心の底から力強くイオタが訴える。

「ありがとう。その気持ちだけで十分だよ」

 シータは目尻を下げて不快感の残らない断り方をしてきた。

「屋敷の中に居るの?」

「早く舞台から下りたほうがいい」

 シータは質問に答えてくれなかった。

「教えてくれるまで、舞台から下りない」

「もし舞台に取り残されたら、イオタ君の記憶はぼくに取り込まれてしまうかもしれない」

 シータの顔からは必死さが伝わり、嘘を言っているようには思えない。

「それでもいい」

 イオタは感情優先で返す。

「君は体が成長しても、脳は幼いままだね」

 シータが両目を閉じながら、強烈な嫌味を言う。

「ごめん。怒らせた?」

「怒っていないよ。でも、ぼくの忠告には耳を傾けてほしい」

 シータは閉じていた両目を開けると、悲しそうな顔をした。

「わかった」

 後ろ髪を引かれる思いでイオタは舞台を下りた。

「また会えるさ」

「シータと現実の世界で会いたい」

 イオタは振り向き、切実な願いを込めた。シータの答えのはぐらかし方は、現実の世界に、しかも屋敷内に居ることを隠したいという心の中が読めた。

「それは約束できないな」

 シータは弱々しい笑顔で手を振る。

「きっと探し出してみせる!」

 幕が下りる寸前、狭くなる隙間に合わせ、顔を横にしてイオタが叫ぶ。シータに声は届いたと思うが、返事はもらえず、表情からもくみ取れなかった。

 イオタは幕を掴んで、もう一度舞台の中を覗こうとしたが、床とぴったりくっついてビクともしない。

 これもシータの力なのかな?

 だとすると、幕が下りたタイミングもシータの思惑で、嫌味を言ってまで遠ざけようとしたのは、それだけ危険だということを教えてくれたことになる。

 シータが実在するという喜びと、絶対見つけてやる、という闘志がイオタの感情を高ぶらせる。

 静寂が包む中、これからのことをじっくり考えようと思った矢先、イオタの心臓がドクンと脈打ち、眩暈するほど体が揺れ、目の前が白くなる。

パリンというガラスが割れる音が聞こえたような気がした。

                  ★

                  ★

                  ★

 イオタが瞼を開けると、床の上にワイングラスのガラス片が落ちていた。起き上がろうとしても自由に体がいうことを利かない。どうやら両手を後ろで縛られ、椅子に座ったままの状態で倒れているようだ。

「お帰り」

 女が冷笑で出迎える。

 凶器のように注射器を持っている姿を思い出し、イオタは脅えた。

 女はロープを解くと「これからは縛ることにするわ」と自ら思いついたアイディアに満足げ。

今回は幸い右肩が少し痛いだけで目立ったケガこそないが、これから食事する度に椅子に縛られ、転倒する繰り返しになるのかと思うと、あまり良い気持ちにはなれない。

「あとで私が掃除するから、ガラスの破片には触らないでそのままにしておくのよ」

 妙に優しい言葉をかけ、女は部屋を出ていく。

 ワイングラスを割ってなにかしらの罰を受けることや、次の食事までの具体的な指示がなかったことはイオタにとっては好都合だった。シータのところに連れていってくれるという期待を込めて、女の後を追う。ただし、気づかれずに慎重に行動しなければいけない。バレたときのことを考えると足が動かなくなってしまいそうで、ネガティブな想像は捨てることにした。

 女は玄関ホールを左に曲がり、大階段を上っていこうとする。踏み板の真ん中には赤い絨毯が敷かれているのに、女は手摺に指を滑らせて優雅に腰を揺らし、端の方を社交界のお嬢様気分で歩いていく。

 女が上りきり、姿が見えなくなったところで、イオタは大階段の踏み板に足を置いた。体重を載せると、ミシッと過剰なほど音が響く。

 おば……いや、お姉さんより体重は軽いはずなのにどうして?

 イオタはサッと大階段の陰に隠れ、手摺の隙間から様子を窺ったが、女は引き返してこない。 身を屈めながら再び踏み板に足を載せると音が鳴る。二階の構造がどうなっているかわからず、躊躇していると見失ってしまう可能性がある。

 構わずに大階段を上った。中間の狭くなっているところに差し掛かると、さらに音が大きくなる。どうやら真ん中より端の方が強度はあるらしい。女が歩いるとき音がしなかったのはそのせいだ。

イオタはロスした時間を取り戻すため、小走りで大階段を駆け上がる。

 図書館のような部屋と肖像画のある部屋を合わせたくらいの広いスペースに六、七人は座れる白いテーブルクロスのかかった丸いテーブルが不規則に配され、階段手前には植え込みと控えめな音をさせながら流れる小川がライトアップされていた。結婚式場、しゃれたレストランといった雰囲気が二階のスペースに確保されていた。

 女は奥の窓際の席に座り、背中を向け、手元で何かを操作している。

等間隔に並ぶ丸い大理石の柱に身を隠しながら近づく。二階の床はバラ模様の刺繍が施してある厚めの絨毯が一面に敷かれ、足がフワッと宙に浮く感覚で足音が吸収される。座っているところまで柱二本分、距離にして一〇メートルくらいまで近寄ると、女の独り言が聞こえてきた。

「これから経過報告を行います」

 片目だけを柱から出して覗くと、女は手のひらサイズの薄くて透明なフィルムに抑揚のない口調で語りかけているところだった。

 脳内の赤い本が開き、【グラフェン】という特殊素材の説明と、六角形の網目のように並ぶ炭素原子の平面略図が現れた。女が手に持っているのはグラフェンという素材でできた通信端末だと暗に教えてくれたが、最新の理科学系の本を読んだ記憶はなかった。

 イオタは通信端末の素材より、女の会話に集中した。隠れている位置からは通信相手の腕らしきものが映っているのを見るのが限界だった。

「臨床実験ナンバー09、被験対象アカウント名イオタ、午前7時12分、逃亡してから二回目のレッドアウトを確認。記憶喪失は軽度によるものと思われ、今後の実験の継続は可能と判断。尚、脳代謝剤である臨床実験ナンバー08、被験対象アカウント名シータの加速していた老齢化の症状に若干の快復が診られます……」

 女は臨床実験、披験対象、レッドアウトなどの怪しい単語を連発させる。臨床実験や披験対象という言葉は漢字に置き換えると、なんとなく意味は理解できた。ただ、レッドアウトという単語は赤い本が開いて説明をしてくれたのだが、航空機のパイロットが操縦中に遠心力がかかると眼球内の血管に血液が集中し、視界が赤くなる症状のことを言うらしい。赤い液体を飲んで視界が赤くなる現象と似ている感じがする。隠語かもしれない。余計な知識までインプットされている自分の脳に、イオタは違和感を覚えた。

「……被験対象アカウント名シータの快復は驚きであり、原因は不明。懸念を持って注意深く観察し、詳細は追って連絡するものとします。最後になりましたが、二人に悪魔的要素の傾向はいまだ見られません」

『引き続き臨床実験の継続に尽力願いたい』

 渋い男の声が聞こえた。

「かしこまりました」

『あなたの幸運がグラスからこぼれ落ちないことを祈る』

「ありがとうございます」

 透明なフィルムに指でタッチすると、本のしおり程度の大きさに端末が縮小され、女はため息まじりにポケットにしまう。

「あぁ~ぁ、いちいちかったるいわねぇ~」

 それまでとは態度を一変させ、だるそうに愚痴をこぼす。

 淡々とした女の言葉を思い出し、整理すればするほど、聞かないほうが幸せだったかもしれないと感じた。じっとしていると極度の緊張状態のまま神経がやられそうで、シータを早く見つけて屋敷から逃げないと!という意識にイオタは切り替え、引き返そうとした。

「そこで何してるの?」

その声を聞いたイオタは、臆病な野良犬でもそんなに驚かないだろうという顔をして振り向く。

「あなた、自分が仕出かした過ちがわかる?」

 女がイオタの背後に立っていた。こめかみに血管を浮かせ、顔を近づけてくる。イオタは首を横に振ることしかできない。

「もし、あなたが盗み聞きしていることが知れたら、私は始末されるのよ」そして、強調して付け足す。「あなたのせいでね」

「ご、ご……ごめんなさい」

 イオタは声を震わせながら謝る。

「お調子者には罰が必要ね」

 女はペロリとイオタの頬を舐めた。愛情は感じられず、味見に近い舌使い。

 武士の情けでどうかお許しを、などと媚を売る言葉で防御しようとしたが、そんな幼稚な思惑を一蹴するように女は口角を引き裂く勢いで口を全開にする。美しかった歯並びが乱れ、歯列から八重歯が飛び出し、さらに歯茎から伸びて獣のような乱杭歯へと成長していく。あまりにも現実離れした光景に、現実味のある恐怖だと脳ミソが処理してくれない。

防衛本能が遅れ、苦もなくイオタの首の皮を貫いた女の乱杭歯からポタリ、ポタリと熱い液体が落ちていく。ズズズッとマナー度外視の音を立て、頚動脈から吸い付いて離れない。淫らな行為をやめさせようと両手で女の顔を掴み、突き放そうとしても、すぐに脱力し、ダラリと両腕を垂らしてしまう。与えたダメージは爪で引っ掻いた傷くらい。

「ご……めん……ね……」

 シータの顔が一瞬浮かび、イオタは謝った。無力な自分から別離できることが唯一の救いだと思うと、死への恐怖心はどこかへいってしまった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ