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Chapter1  淫らな八歳


Chapter1  淫らな八歳


 男の子は、いま、なぜ、自分がここにいるのかわからなかった。

 生暖かい空気の流れ、異臭が鼻を衝き、足首がドロッとした粘り気のある汚い水に浸かっている。

「あ~」

声を出すと、そっくりな声が反響してきた。

 男の子は目を凝らす。辺りは真っ暗闇ではなく、僅かながら視界が確保できる薄闇。壁を手で触れると石を単純に積み上げたものだとわかり、湿気で表面がツルツルとしている。天井は半円状になって、石と石の間の隙間から弱い明かりがもれてきている。衛生レベルの低い古い下水道に突っ立っているのは理解できた。

 こんなところで自分がなにをしていたのかという疑問と、これから何処へ行けばいいんだろうという不安が駆け巡る。

 当てもなく二、三歩進むと不安が恐怖へと変わった。背中の方から「グゥォォ~」と、とても醜い叫び声が聞こえてきたからだ。警戒心が瞬時に脳を刺激して男の子は逃げた。

「ハァ、ハァ、ハァ……」

 汚い水に足を浸かったままなのは嫌だったが、逃げないと食べられるという直感が衛生面を排除して無我夢中で走らせる。得体の知れないモノ、怪物、化け物……声の主の正体を考えると、そんな答えしか出ず、焦りが上半身と下半身のバランスを崩し、男の子は転んだ。

 最悪だ……。

 濡れて重くなった体を汚水から引き上げ、再び疾走開始。

 追ってくる飛沫の音や醜い声が聞こえてこなくなったことから、きっと「あ~」と自分が叫んだせいで得体の知れないモノが睡眠の邪魔をされ、ちょっと怒っただけかもしれないと男の子は都合よく脳で処理した。

 道が二手に分かれ、右を選び、奥へと進んでいくと暗さが増してきていることに気づく。それでも目が慣れて夜光化したのか、僅かな闇の濃淡を識別でき、不自由なく走ることができた。

 若干の幸福に男の子は安堵するが、その時間はとても短かった。一〇〇メートルくらい走ると、闇の先に小さな光の輪が揺れているのが見え、また警戒心が働く。

 こっちにも!?

 光は完全にこちらに向かってきている。

「グゥグゥォォ~」

 さっきよりも大きく猛獣が咆哮するような叫びが聞こえた。

挟まれた格好になり、男の子は立ち止まる。

 あぁ~どうしよう……。

 男の子は首を左右に振ってどっちに逃げるのが正解なのか迷う。

 冷静さを失ったときは……天に向かって祈るしかない。

男の子は片膝を汚水に付け、両手を組み、地下の下水道からの祈りが天まで届くだろうかと疑問を感じながら視線を上げた。すると、天井付近から光りが差し込み、キラキラ埃を浮かび上がらせている場所を見つけた。鉄格子がはめ込まれた排水溝らしきところから光がもれていた。

 ジャンプすると指先が鉄格子に触れた。

 いける……かな?

 助走をつけ、もう一度ジャンプ。中指と人差し指の第二関節が鉄格子に絡まり、体が宙に浮く。

しかし、指の関節が全体重を支える力は乏しく、ちぎれそうな痛みに耐え切れずお尻から落下。

 光の輪がグングン迫り、巨大化して、男の子を包み込もうとしていた。荒い画像で撮影されたUFOの予測不能な動きのように、小刻みに揺れる光は人工的なものだと男の子の脳は処理した。

 一〇メートルもない距離まで近づいてこられると、眩しくて目を背けた。

「また、ここに来てたのね」

 声は女性のもので、うんざり感が多分に含まれている。

 眩い光が横に逸れ、男の子はまじまじと女を見た。赤い縁のメガネをかけ、懐中電灯でトントン肩を叩いている。

「おばさん……誰?」

「おばさん!?お姉さんでしょ!」

 女はブン!と懐中電灯を横に振り、男の子は首を亀のように引っ込め、頭上ぎりぎりを通過。

「運動神経だけはいいみたいね」

 女は苦虫を噛み潰したような顔をしてから、負け惜しみなのか白い歯を見せた。

「あっちから変な声が聞こえるんだ」

 “おばさんは敵!”という危険信号が脳内から出なかったことで、逃げてきた方向を指さす。

「また説明しなきゃいけないのね」

 女が懐中電灯の肩叩きを再開させる。

「あ、やっぱりいい」

 女が不機嫌になった気がして、男の子は質問した直後に説明を拒否した。

「少しはお利口さんになったのかしら」

 女の口元が若干緩まり、男の子は自分の判断が間違っていなかったことに胸を撫で下ろす。

「グゥオオォ~」

と再び獣の声が聞こえてくると、男の子はビクッと体を震わせた。

「大丈夫よ。襲ってはこないから」

 女の一言は、男の子に安心させる不思議な力があった。指示されたわけじゃないが、男の子は黙って女の後ろを付いていく。しばらく歩くとマンホールの蓋が外れ、真上に夜空が丸く切り取られた景色が見えるところで女が立ち止まった。

「早く上りなさい」

 これ以上イライラさせてはいけないという思考が働き、男の子は二本の枠に格が連結した梯子を上っていく。

 男の子が地上に立った場所は高いビルに挟まれた路地裏。配管から蒸気も出てなければ、しばらくエサにありついていないと思われる痩せた野良猫が、何も入っていないことがわかっているのか、転がっている大きなゴミ箱があっても素通りし、人々が暮らしている様子が垣間見れない。

冷たい風が男の子の頬に触れ、自分を歓迎してくれるのは夜空にぽっかり浮かぶ満月だけのような気がした。

「あぁ~もう!」

 女は濡れたハイヒールを蹴るようにして脱ぎ、ストッキングが伝線していないかチェックした後、消臭スプレーを体中にかけまくる。これから就職の面接に向かう大学生のように紺色のスーツに膝丈のスカートで身を固めている。ただし、インナーで襟付きの白いカットソーの胸元部分が大きくはだけて、誰かを挑発する準備が整っている気がした。

 男の子は自分が着ている服を見た。フォーマルな濃紺のジャケット、赤の蝶ネクネタイに半ズボン、つま先が丸い子供用の革靴、泥だらけでなければこれから小学校の入学式に行く格好をしている。女と服装がリンクしていることから、ぼくのお母さんなのかな?という推測が男の子に浮かぶ。

 路地裏を出たすぐ脇に停まっていた真っ赤なスポーツカーに女が向かっていく。早く走るための流線型の美しいボディーライン、涙型のヘッドライト、理想とカッコ良さを追求した車のようで、見た目でわかる欠点は二人乗りの窮屈な座席。

 通りに人影がなく、片側二車線の大きな道路に車の行き交う姿はない。

 女が車のキーを出すと、スポーツカーのハザードランプの点滅と連動したチャープ音が響き渡る。

「そのままだと車のシートが汚れるから、服を脱ぎなさい」

 赤い縁のメガネを神経質そうに中指で上げ、知的な視線で男の子を見詰める。

 お姉さんきれいですね、という媚びた言葉を送ろうと思ったが、女が腕組みをして睨んでいるので、男の子は先に服を脱ぐことにした。

 白いパンツに手をかけると、「それは脱がなくていい」と素っ気なく言われた。

「あら、また背が伸びたんじゃない?」

 ご丁寧に助手席のドアを開けてくれた女が言った。

「わかんない」

 女の言い方からすると、自分のことを昔から知っているらしく、男の子はそれほど警戒することなく車に乗った。サイドミラーに映った顔は、やや面長のことを除けば、目の大きさ、眉や鼻や唇の形に特徴がなく、自己主張できない男の子の心をそのまま反映していた。

 バン!とドアを閉め、女は運手席へ。

「シートベルトを締めなさい。汚れた手でシートを汚くしないように気をつけて閉めるのよ」

 ドアを開けてくれたのは、車を汚さないためなんだとわかり、男の子は素直に車に乗ったことを後悔し、脱いだ服を太腿からはみ出さないように小さく折り畳む。

「行くわよ」

 重低音のエンジン音の後、女はアクセルを踏み込み、車は急発進。男の子の体は座席に押し付けられた。

街路灯があるのに明かりの点いていない暗い道路を進んでいると巨大な壁にぶち当たる。ダムに匹敵する建造物で出入り口がトンネルになり、壁を貫いていた。長さは数十メートルくらいなのだが、取り締まる警察官や警備員などの姿はない。ただ、トンネルを抜けたとき男の子が振り返ると、工事中の立て看板が見え『命を捨てる覚悟があるなら入れ!』とだけ記されていた。

女の荒い運転に拍車がかかり、交差点の信号が黄色でもお構いなしに突き切り、カーブでも減速することなく、タイヤを削っていく。乱暴な運転に慣れてきたのは、片側二車線の広い道路から車一台がやっと通れる細い山道に車が差し掛かかった頃で、民家が存在しない寂しい土地。右側は斜面地に木々が生えて葉や枝がフロントガラスを叩き、左を見れば錆びたガードレールの下は崖。対向車が来たら正面衝突する危険性があるのに速度を緩めることはしなかった。

 怒ってるのかな?と思いながら男の子はあれこれ会話の糸口を探したが、これからどこ行くの?とか、お姉さんは何者?とか、頭に浮かぶのは質問ばかりで、女をさらに不機嫌にさせる恐れがあった。

 男の子は口を閉ざしていることが最善の策だと確信していたが、我慢できるかは疑問だった。

 車が徐行を始めた。正面に先端が矢じりのような細工がしてあるレトロな柵が行く手を阻んでいる。その先の道は舗装されていなかったが、細かい砂利が均等に敷き詰められ、車が走るのは問題なさそうだった。

車が停止すると、柵が横滑りして開いていく。

「わっ、魔法だ!」

 男の子は感激して喜ぶ。

「まだまだ子供ね」

 女は歯列の整った白い歯を見せて笑う。

 砂利道を進み、車の底からボコボコと小石が当たる音がすると、女はスピードを落とす。

「タイヤで跳ね返った石が当たってるんだね」

なんとかコミュニケーションを取ろうと質問ではなく、独り言のようなことを口にしたが、「チッ」という無残な舌打ちで返された。

 男の子は自分の体が小さくなっていくのがわかった。余計なこと喋っちゃったかな、と反省していると、車はどんどん深い森の中へ入っていく。

 この女の人は誰もいないところで、ぼくを殺す気なんじゃ?

 男の子に不安が募ってきた。

『知らない人に黙ってついて行っても、あなたなら平気よ』

 突然、男の子の耳に女性の声が聞こえてきた。

 キョロキョロ周りを確認するが、二人乗りの車に当然ながら他に乗っている者はいない。不意打ちだったので、運転している女の人の声なのか判断が難しく、割と若い女の人の声という共通点しか見つからない。声質は脳内を駆け巡る感じで、隣の人に話しかけられる感覚とは違っていた気もする。

ひょっとすると、心の声?いや脳ミソの声?

 男の子は声の正体が誰なのか考えるため、目を閉じ、周りの音が聞こえてこないように集中した。すると頭の中に、なめした赤い革で装丁された分厚いクラシカルなデザインの本が浮かび上がってきた。

 なんだろう?と思った好奇心が作用したのかわからないが、赤い本にズームアップすることができ、表紙には装飾文字で『ぼくの知識』と金箔押しされていた。

 読んでみたいと念じると、風が吹いたみたいにパラパラと捲れて適当なページで静止した。白い紙に線の幅が均一に整った文字で何か書いてあった。

【知らない人に黙ってついて行っても、あなたなら平気よ】

 さっきの声が赤い本の中に書き込まれている。

 『ぼくの知識』という表紙からすると、女性の声を重要だと脳が認識して、赤い本を記憶媒体として具現化したんだと男の子は自分なりに推測して処理した。

 この女の人の声だったかな?

 横目でチラリとハンドルを握る女を見た。

「何チラチラ見てんの?何か言いたいことがあるならはっきり言いなさい」

「な、なんでも……ない」

 女の言い方がきつくて、男の子の声はしぼむ。

「妙に人間臭いところがあるのね」

 今度は女の方が男の子をチラチラ見ながら言う。

 男の子には女が言った言葉の中に理解不能な部分があった。

「人間臭いって何?」

 疑問に思ったことを咄嗟に口走ってしまった。

「あなたすごくお喋りね。そうやって何でも聞けば、誰かが教えてくれると思ったら大間違いよ」

 女に冷静な口調で言われた男の子は、怒られているのか、単に虫の居所が悪いだけなのか、顔色を窺うために上目使いで女の顔を覗き込む。

「そのいかにも自分はかわいいでしょ、みたいな顔をするのはやめなさい!」

 一喝され、男の子は泣きそうになった。自分の気持ちが女に全く通じていないことが悔しかった。正直に思いをぶつければすっきりするかもしれないが、目に見えない圧力で抵抗できない。それが体格差なのか年齢差からくるものなのか悩んでいると、また声が聞こえてきた。

『育ててもらってるんだから逆らってはいけないの』

 声の主は即座に答えをくれた。優しく語りかけてきた親切心は、運転している女に当てはまらない。男の子は声の主の正体をつきとめようと頭を捻るが、見当がつかない。いままで誰と会話してきたのか思い浮かんでくる顔がない。

 記憶を辿っても、下水道で女と会った過去より遡れない。

 目を瞑り、頭の中に赤い本をもう一度思い浮かべてみる。ページを捲ると、今度は全て白紙で、パタンと呆気なく本を閉じるしかなかった。

 この赤い本で過去の記憶を丸裸にすることは無理なのかな?

 思い悩んでいると赤い本が右へ左へと不安定に動く。

 頭の中で地震が起こってる?

「着いたわよ。何ボォーとしてんのよ」

運転席から女がイライラしながら男の子の肩を掴み、体を揺すっていた。女は赤い縁のメガネを外していた。運転のときだけかけるようだ。

「ご、ごめんなさい」

 病気かと思ったが、女の人が言うようにボォーとしてたみたいで、男の子はほっとしながら謝る。

 車はいつの間にか大きな建物の車止めのところで停止していた。

「降りなさい」

と冷たく言われ、車から外へ出た。

車のライトが消えたせいで辺りが真っ暗になったが、女がパンパンと手を叩くと建物の中に明かりが点く。

 ギリシャ神殿のような洋風な屋敷で、建物を支えている灰白色のどっしりとした列柱がせり出して並んでいる。玄関部分を中心に左側は上部がアーチ型で下部が床まである大きな窓が等間隔に配され、右側は丸い屋根のドーム型の形状になり、左右の造りには一体感がない。それぞれの窓から明かりがもれ、玄関のドアは茶色の木枠に植物の模様が入った飾りガラスがはめてあり、屋敷内部を見えないようにしている。

 屋敷に入る前に男の子は後ろを見た。深い森が真っ暗な闇を携え、車が通ってきた砂利道を闇へと誘う洞窟と化し、密集した大きな木々が屋敷を飲み込む勢いで迫っている。

 男の子は女にくっつくように屋敷に入った。

玄関ホールはホテルのエントランスを思わせるほど広く、四面のドアで囲まれ、左右のドアは玄関と同じ飾りガラスがはめ込まれているのに対し、正面のドアだけ透明なガラスで内部を披露している。階段の両脇が真ん中だけ徐々に狭くなり、手摺の曲線がうつくしいデザインの大きな階段が絵画のように見えた。

「着替え持ってくるからそこで待ってなさい」

女は汚れた服と靴を奪うようにして男の子から取り上げ、五メートル先の正面のドアを開け、大階段を上っていく。

 玄関ホールには希少な装飾品などは置いておらず、花形の笠をしたランプがそれぞれのドアの横に装備されているだけで薄暗い。床は風合いのある筋模様で表面がつやつやとした大理石が敷き詰められているのだが、足が冷たくない。踵で叩いてみるとトントンと安っぽく響く。どうやら大理石を模した板でできているらしい。

 パンツ一枚で玄関に立たされ、クシャミを連続して出していると女が戻ってきた。

女が履いているハイヒールのコツコツという足音以外は何も聞こえず、他に誰かがいる気配は感じなかった。

「早くこれに着替えて」

 女がきれいに折りたたまれた服と子供用の革靴を男の子に差し出す。

 濃紺のジャケット、赤の蝶ネクネタイ、半ズボン……さっき着ていたやつと同じで、男の子はこれから永遠に金持ちのおぼっちゃまみたいな服装のまま生活しなければいけないのかと情けない気持ちになる。

 服を着ている間、女は男の子の様子をじっと見ていた。

「この建物の記憶はある?」

 女が尋ねてくる。

「ううん」

 男の子は首を横に振った。

「また一から教えないといけないのかしら?あぁ~面倒くさい」

 女はうんざりした顔をすると、右側のドアを開け、目配せで一緒に来るように合図をする。

 蝶ネクタイを首にはめながら後を付いていく。

 男の子は部屋を見て、あっ!と声を上げそうになる。ドーム型の天井に天使の画が描かれ、ドア側以外の三つの壁が本で埋め尽くされた歴史ある図書館が存在していた。床から天井まで一〇メートルくらいのダークブラウンの書棚に、隙間なく本が収められている。横にスライド可能な梯子が用意されているので、本の出し入れは子供の身長でもできそうだ。両脇から本に圧迫されそうな真ん中のスペースに、天板と四つの脚を付けただけのシンプルな机と椅子が、おまえの居場所だと言わんばかりに鎮座している。その角張った真四角の机の上に、緑色の被せガラスのシェードに真鍮のアームが支える電気スタンドが置いてあり、レトロ感を醸し出していた。

 頭に浮かんできた赤い本はきっとこの部屋が影響しているんだと男の子は思った。

「座りなさい」

 女の声が響いた。本が部屋を独占しているが、見た目より空間はありそうだ。

 男の子は角材を組み合わせただけの椅子に座る。座面にクッションがないので、長時間座るとお尻が痛くなりそうで、しかも座った瞬間、床よりひんやりとした冷たさが伝わり、背板もガラスがはめ込まれていない窓みたいに角材の枠しかなく、背中を丸めて後ろに体重をかけると挟まってヤドカリになりそうだ。

 女は書棚の本の背表紙に指を走らせ、「今日はこれね」と言うと一冊の本を抜き取り、ドンと重量感を響かせて机の上に置いた。

「晩御飯までこれ読んでなさい」

と言って部屋をさっさと出て行く。

 男の子は見やすい位置に本の向きを直す。分厚くてタイトルは『新版日本政治哲学概論』という子供が読むには難解な本と思われた。

 他にすることもなく、捲ってみる。小さな文字でやたら画数の多い漢字が出てくる文章に目を走らせていくと、意外にも脳ミソの中に浸透してくる。日本がアメリカの五十一番目の州になった政治的な背景と、初代日本州知事になった荒本義一という人物の哲学を長々と紹介しながら分析している。

 飽きるより早く、本の奥付にページが達していた。

「まぁまぁ……だったかな……ふわぁ~」

 男の子は誰もいない部屋に本の感想と欠伸をもらす。

 静けさだけが支配する部屋で退屈になってきた男の子は、椅子から立ち上がり、新たな本を探す。

 本の背表紙を見ていくと、人体、倫理、政治、法律、物理学、幾何学といった文字がタイトルの頭についた学術書や専門書など、どれも難しそうな種類の本が多い。

 つまらない本を読んで眠気を誘おうかな、と思っていると『研究・建築学の歴史』という本を見つけた。表紙にイラストなどはなく、緑色のハードカバーの古そうな本で、男の子が片手で持てないほど重い。

 本棚から抜き、両手で机に運んで本を広げた。中身は写真付きで過去の建築様式から丁寧に説明してあり、男の子は、しめた!と思った。いま自分がいるこの屋敷について、まったく情報がないのは少し怖かった。記憶もなければ、ひょっとして自分は夢の中にいるのでないだろうかという不安もあった。

 ページを捲ると、瀟洒な鐘桜や礼拝堂が美しいサンタ・マリア・デル・フィオーレ・大聖堂という建物の写真が載ってあり、十五世紀から十六世紀にイタリアで主流だったドーム屋根や列柱が特徴のルネサンス建築だと説明書がある。表から見たこの屋敷の灰白色の列柱やドーム屋根は、ルネサンス建築と酷使。そして玄関ホールから見えた大階段は曲線を巧みに利用した十七世紀から十八世紀のバロック様式に当てはまる。外観をルネサンス様式、内部をバロック様式というふうに分けている。

 ちゃんと知識として頭に入っているのかなと、男の子は脳内に赤い本を浮かべ、中身を確認すると『新版日本政治哲学概論』と『研究・建築学の歴史』の本が一ページ一ページコピーしたかのように文章が埋め尽くされている。

 自分の暗記力に驚く暇なく、ノックもせずに女が入ってきた。

 ぼくってすごいのかな?

男の子は自分が超能力者なのか確認するために大きく頭を振って、一度中身を空っぽにしてみようと子供染みた努力をしてみる。

「どうしたの?」

 女は尋ねてきたが、口調にさほど心配している様子はない。

「なんでもない」

 奇妙な行動をしたことに気づき、男の子は思わず苦笑いを浮かべる。

「そんなごまかし方、どこで覚えたのかしら?人間の嫌なところばかり吸収するんだから」

 女は腕組みをしながら自分で質問して、自分で解決してしまう。

 男の子には女の言ってることが理解不能で、首を傾げたくなる。

「勉強熱心ね」

 机の上に増えた一冊を女は凝視する。

 本棚から勝手に新しい本を持ってきて読んだことを怒られるかなと思った男の子は冷や汗ものだったが、女の反応は意外に穏やか。

「この建物のことが相当気になるみたいね」

 女は面白くなさそうに『研究・建築学の歴史』という本のページを捲りながら言う。

「この建物は昔の建築様式をモチーフにして造ってるんだね。外観はルネサンス、内部はバロック様式でしょ」

 男の子は植え付けたばかりの知識を披露した。すると、女の顔が途端に曇る。

「あのね、そうやって得意げに知識をひけらかすことは嫌な奴と思われるからやめたほうがいいわよ」

 口調はきつくはなかったが、男の子は自分の性格を全否定されたような気持ちになった。

「わかった……」

という返事も小さく、女に聞こえなかったかもしれない。暗記力を自慢すると怒られるかもしれないと思った男の子は脳内の赤い本のことを話すのをやめた。

「お腹空いたでしょ。ついてきなさい」

 女はクルッと背中を向け、半ば強制的な言葉をかける。

 男の子は反射的に女の後ろをついていく。デジャブというやつなのか、こうやって女の後ろ姿を見ながら建物の中を歩くことが、日常茶飯事的に行われていたような気がした。

 玄関ホールを素通りし、女は玄関から見て左側のドアを開けた。

 できたら大階段を上りたかったな、と男の子は好奇心をいったん心の奥に仕舞うが、駄々を捏ねてでも自分の意見を押し通すべきだったと後悔した。

 右側の部屋は昔の図書館といった風情の部屋だったが、左側は修道院のシスター達が食事する質素な広間といった雰囲気の部屋で、床まで伸びる側面窓は真っ暗な森の闇を映し、ボールトと呼ばれる局面天井は飴でコーテングされたチョコレートのようにエナメル仕上げのレンガが積み上げられ、本物か偽者かわからない大理石の柱に支えられている。半円形のアーチのボールトが特徴的なのは九世紀から十二世紀まで主流だったロマネスク様式。装飾品と呼べるものは、正面に掲げられた髭の両端がぴょんと跳ね上がった西洋人風の年老いた男の肖像画と、向き合うと三十人は座れそうな細長いテーブル。表面がザラッとした天板はさっきまで本を読んでいた机よりも粗末な作りで、節のところが抜けて所々欠けている。椅子も奥と手前に二脚あるだけで、両側に椅子は並べられていなかった。

「そこに座りなさい」

 女はドアから一番近い椅子に座れと命令口調で指示する。

 無駄なスペースを確保しているテーブルの椅子に座った男の子の気分はすぐれない。座ると肖像画の男と向き合う形になり、ジッーと見られている感じがする。普通、肖像画は正面を見ず、斜めに視線を泳がせて横顔を向けるのに、正面にある肖像画は明らかに男の子を視野に捉えていた。

「ちょっと待ってなさい」

と言って、女が部屋を出ていく。

 バタン!とドアが閉まる音で男の子はあることに気づく。

 待ってなさい、という台詞や部屋に連れて来ては出て行くという行為は玄関ホールと図書館のような部屋ですでに今日で三度目だが、いままで何度も見てきた光景なのは間違いない。男の子は自分の記憶が戻りつつある前兆かもしれない大切なデジャブの感覚をその場で葬り去らなければいけなかった。新たな問題は気持ち悪い肖像画との睨めっこ。この殺風景な部屋でずっとこれからここで食事するのかと思うと気分が滅入る。

 程なくして女が部屋に入ってきた。

 赤い液体が入ったワイングラスを片手に持っている。

 そして、コトッと静かな音をさせて男の子の目の前に置く。ワイングラスは丸い台座から伸びる細い脚、胴の部分の膨らみと上部が少し狭くなっている典型的な形状。

「遠慮しないで飲みなさい」

 女は白い歯を浮かべた。

「アルコールは法律違反だと思うんだけど……」

 赤い液体の正体がはっきりわからないので、男の子は見た目で判断してみる。

「アルコールじゃないわよ」

 女が笑いを噛み殺すように言う。

 男の子は女に悟られないようにワイングラスを持ち上げたときにニオイを嗅ぐ。確かに鼻を刺激してくるアルコールの香はしないが、錆臭い嫌なニオイがした。

 これを全部飲まないといけないのかな?

 男の子の前に立つ女の表情は笑顔に近いものだったが、それがかえって怖かった。ワイングラスの脚を掴んでいる手を震わせながら唇を当てる。薄いガラスの口の部分は下唇にフィットして、赤い液体がすんなり入ってきた。

「ケホッ、ケホッ……」

 鼻に抜けてきた錆臭さは喉を通過したときに拒否反応を起こしたが、吐き出すわけにはいかず、男の子は口を手で押さえながらゴクリと飲み込む。

「まだ半分残ってるわよ」

 女に言われ、ワイングラスに残っている赤い液体を疎ましく見詰めた。

 覚悟を決め、目を閉じ、一気に流し込む。不快な喉越しは一口目と変わらず、鼻から錆臭いニオイが通り抜け、苦痛からおさらばできると思った矢先、男の子の眼球が見る見る赤く染まり、意識が飛ぶ。

                  ★

                  ★

                  ★

 男の子は一瞬だけ真っ赤な世界に突然放り込まれた。

 瞬きするかしないかの瞬時のことなのに、とてつもなく恐怖を感じた。

 自分の体に何が起こっているのかわからないまま、赤い世界が去った後の光景に直面した男の子は首を傾げた。目の前に魚のウロコのような半円状のたるみがついた真っ赤な幕が垂れ下がっている。

男の子はアンティーク調の赤いビロードの椅子に座っている自分に驚き、同じ椅子が緩い曲線を描いてびっしり並んでいることにも目を剥いた。自分がどうして古風でエレガントな劇場の椅子の最前列に座っているのか見当が付かず、首を半回転させて周りを見る。

壁面を三層に区切った桟敷席が取り囲み、重厚で華麗な装飾を施したシャンデリアが天井の中央から垂れ下がり、等間隔に並ぶ真鍮の壁フックにかかったブラケットランプはガラスのレース柄で、共に優美な明かりを劇場内の隅々まで照らしている。天井に描かれている青空に向かって笑顔で飛んでいる天使のフレスコ画は図書館のような部屋の天井と似ている気がした。観客は男の子しかいないのに、すぐにでも舞台が始まりそうな雰囲気。

「誰か居ませんかぁ~?」

 劇場内に大声で尋ねても、静寂という答えしか返ってこない。

男の子は立ち上がり、劇場からとりあえず出ようとした。

 ところが、引き止めるかのようにビィ~というブザー音が鳴り響き、真っ赤な幕がスルスルッとせり上がる。男の子は幕が上がるスピードに合わせて椅子に腰を下ろす。

 背景は映画館にあるような白いスクリーン、板張りの床の舞台中央に簡素なパイプベッドが置いてあるだけのセットが現れた。よく見ると、ベッドの布団に膨らみがある。

「ゴホッ、ゴホッ……」

 ベッドの布団が僅かに隆起して、誰かが寝ていることがわかった。

 男の子はじっと舞台を見詰めた。

 コツコツ……というどこかで聞いたような足音が舞台袖から聞こえてきた。

 えっ?おばさん!?……いや、お姉さん?

 男の子は心の声が聞こえてしまったのではないかと、思わず両手で口を塞ぐ。

 左側の舞台袖から出てきたのは、あの女で、どうして舞台に出演しているのか、不思議でならない。服装は就職面接用の地味な紺色のスーツのままで、陰になってよく見えないのだが、左手に複数の針の付いた凶器?みたいなものを持っている。

「起きなさい。寝たふりしても無駄よ」

 女はベッドの脇に立って布団を揺すった。

 しばらく布団を睨んでいたが、我慢できなくなったのか、布団を勢いよく捲る。ベッドの上で白と青のストライプ模様のパジャマを着た男の子が、胎児のように体を丸めながら震えていた。

「献血の時間よ」

 女の声は氷のように冷たい印象を受けた。

「い、嫌だ……」

男の子が顔を強張らせる。栗色の髪、色白で皮膚の色素が薄く、全ての顔のパーツが細くて小さい。頬骨が見えそうなくらい頬が痩せこけている。

「ねぇ、シータ君。そんな駄々を捏ねても私はやめないわよ」

 女は左手に持っている凶器のようなモノをシータという男の子の目の前にかざす。

 観客席に座っている男の子は中腰になって凝視。

 女の左手には、花びらみたいに四本の注射器がそれぞれの指に挟んであった。シリンダー部分がトウモロコシくらいの特大サイズ。

「覚悟しなさい」

「やだぁ~」

 シータという男の子の叫びは腹の底にまで響いてきた。

 これは、演技なんだよね?と、男の子は自分に言い聞かせる。

 女は左手から一本の注射器を右手で抜き取ると、無造作にシータの腕に注射針を突き刺す。

 ぎゃぁ~という悲鳴のあと、女は「そんなに痛くないでしょ」と素っ気なく宥めた。

 注射器のシリンダーの中に真っ赤な液体が吸い込まれ、満杯になると二本目を刺した。手品のような種でもない限り、本物の血を採取しているようにしか見えない。

シータは目を宙に彷徨わせ、抵抗力を失う。

 真っ赤に染まった四本の注射器で左右のスーツのポケットをパンパンに膨らませると、女は満足そうな表情をした。

「良い子ね」

 女はそう言いながらシータの頬を手のひらで撫でた。身動きできない獲物を舌でいたぶる蛇のような手付きで、男の子の目には淫らな光景に映った。

 魂が抜かれた顔をしたシータに、女は「またね」と手を振ると舞台袖に消えた。

 男の子は不快感だけが残る舞台の続きを待って、物語に明るい兆しが見えてくることを期待したが、新たな出演者が登場するわけでもなく、シータの演技に進展もない。

 こんな状態がいつまで続くんだろうと思っていると、シータが弱々しい声をもらす。

「イ、イオ……タ……」

 シータの途切れがちの台詞は意味不明で、男の子は耳をすませて理解するように努める。

「イオ……タ……イオタ君、そこに居るんだろ?」

 声が小さく、舞台からの台詞としては失格で、最前列の椅子から身を乗り出して耳を傾けてやっと聞き取れる範囲。イオタは名前らしく、君付けということは男。しかも聞こえているのは自分だけ。男の子は自分の名前をいまさらながら記憶から失われていることに気づき、あの女の人に聞いとけばよかったと後悔する。舞台を邪魔していいものか迷ったが、シータのことも気がかりで、舞台へ寄り、左右を確認する。

「早く……こっちへ」

 シータが手招きしながら頭を上げた。自分が呼ばれていることがはっきりした男の子は舞台を上り、ベッドに近づく。

「やぁ、イオタ君」

 シータは貧弱な笑顔を見せた。三日月の形をした長い前髪が右から左へ垂れ下がる。

「イオタってぼくの名前なの?」

 へんてこな名前が自分のものなのかまず確かめたかった。

「君は記憶の一部が欠落しているようだね」

「そうかもしれない……でも、どうしてだろう?」

 男の子は野良猫がエサを強請る悲哀な目をさせた。

「他人に答えを求めるだけじゃ進化しないよ」

 シータはニコッと無理やり笑顔をつくり、アドバイスを送る。あの女の人にも同じようなことを言われた。

「そ、そうだね」

 男の子は同じ間違いを繰り返さないように脳内に赤い本を浮かび上がらせ、記憶しておこうと思った。

すると、さっきまでの本と様子が違い、ページを捲るところに黒い字で【しんか】などの見出しが書いてある。図書館のような部屋の本を読んで知識が増えたにしては白紙のページが極端に減った気がした。意識してないのに自然と便利に細工された赤い本の登場は、自分以外の力が関与しているのではと男の子は訝る。

「どうかした?」

 考え事をしていた男の子を見て、シータが心配そうに訊く。

「なんでもないよ。それより体は大丈夫なの?」

「イオタ君と話してたら元気が出てきたよ」

 確かに注射針を刺されていた頃とは比較にならないくらい、シータの表情には明るさがある。

「よかった」男の子はシータが元気になったことと、自分の名前がわかったことが重なり、心から安堵した。

「ぼくはシータ」

 シータが改めて自己紹介してきた。

「ぼくのイオタって変な名前だな」

 イオタは自分の名前を自虐的に卑下する。

「名前はギリシャ語のアルファベットの順番だよ。君は九番目だから【ι・イオタ】ってつけられたんだと思う。ぼくは八番目だから【θ・シータ】」

 イオタは即座に脳内の赤い本とシータが言ったことを照らし合わせる。シータの言ったことに間違いはなく、他にも【θ】という文字は角度を示す記号でもあるらしい。【θ】の記号と前髪の垂れ下がり具合が似てるね、なんて冗談はもっと打ち解けてから言うべきだと自らにストップをかける。

「名前が順番なのは何か意味があるの?」

「普通に考えると生まれた順番かな」

 シータが曖昧な答え方をした。

「そうなんだ」

 もし本当だとすると、かなりいい加減につけられた名前なのかもしれないと、イオタは少し落ち込む。

「もっと本を読んだほうがいいかもね」

「シータもあの図書館のような部屋で本を読んだことがあるの?」

 イオタの頭の中で本と真っ先に結びつくのは、図書館のような部屋しかなかった。

「あの部屋にある半分くらいの本は読んだかな」

 控えめに自慢されたが、半分でも相当な数を読んでいるわけで、イオタはすぐにでも追いつきたいという衝動にかられる。

「すごいね」

 イオタは負けたくない胸の内を隠して称賛する。

「これからも会ってくれるかい?」

「もちろん」

 イオタは一つ返事で頷く。

「うれしいよ、イオタ君」

 シータの目の端が光った。汗じゃなく涙だとすると、シータは感激屋さんなのかもしれない。

「ぼくらはもう友達じゃないか」

 イオタは“友達”というキーワードを持ち出すのを早まったかもしれないと、言ったあとで自分の舌を引っこ抜きたい気持ちになる。

「友達……か」視線を逸らし、シータが深刻に考える様子を見て、イオタは自分の軽はずみな発言を反省した。「そうだね。ぼく達はもう友達だね」シータから待っていた答えが返ってきた。ただ、ちょっと躊躇した表情を見せたのが引っ掛かった。

「あの女の人とはどんな関係なの?」

 イオタは無理やり友達だと言わせてしまったと感じ、質問をすることで雰囲気を変えてみる。

「舞台で君と会話したことは二人だけの秘密だよ。あの女の人に話してはいけない」

 シータは真面目な顔をして言った。

「どうして?」

「どうしても……だよ」

 強い口調を途中で押し殺してシータが言った。

「もし話したらどうなるの?」

 イオタの頭の中に疑問という名の霧がかかる。

「二人共殺される……」

「えっ?」

「かもね」

 シータは片方の瞼をゆっくり閉じてウインクした。

「なんだ、冗談か」

 イオタは胸を撫で下ろす。

「そろそろぼくは眠るよ」

 布団の位置を整えてシータが横になる。

「今度いつ会える?」

「早ければ次の食事のときかもしれない」

 シータがそう言うと、ガタンガタンと重量感のあるモーター音がして赤い幕が下がり始めた。

「君はここに残っちゃいけない!早く舞台から出ていったほうがいい」

 シータはグワッと眼球に血管を浮かせ、切羽詰った言い方をして追い払おうとする。

「どうして?」

「ここにいると現実の世界へ帰れなくなるかもしれない」

 シータが鬼気迫る表情で、イオタに警告を発する。

「わかった……またね、シータ」

 イオタは理解できたわけではなかったが、シータの威圧感に押され、体裁よくわかったと返事をしてしまい、手を振り、慌てて舞台から飛び下りた。

 振り向いてシータを見ると、まるで死んでいるみたいに動かなくなっている。

 幕が舞台の床に触れると、プツッと糸が切れる感覚でイオタの全身から力が抜け、その場に崩れ落ち、幕が下りたことによってシータと繋がっていた世界から遮断された気持ちになり、さらに心臓の鼓動がドクンと過剰に波打ち、目の前が白くなる。

視力が役に立たない状態で、誰かの声が聞こえた……ような気がした。

                  ★

                  ★

                  ★

「どこに行く気なの!」

 女が呼び止め、腕を掴んでいる。

 場所は玄関ホール。

 自分がシータと舞台の上で話をしていたのか、それとも肖像画がある部屋で食事をしていたのか、ついさっきまでのイオタの記憶は混同していた。

「夢遊病者のようにまた街を彷徨うつもり?」女は責めるような口調で問いただす。「ちょっと目を離すとこうなんだから」

「ご、ごめん……なさい」

 意識的に迷惑をかけたわけじゃないが、口は悪くとも心配してくれているのは間違いないようで、イオタは謝った。

「今度から部屋にカギでもかけておくしかないかしらね」

 女は自ら捻り出した対策を独り言のようにこぼす。

「ぼくの名前はイオタなの?」

 イオタは舞台でシータと話した世界が現実だったのか、確かめるために訊いた。

「どうして本当の名前を知ってるの?」

 女はびっくりした表情でイオタを見詰める。

「えっ?……あの……記憶が少し戻ったのかもしれない」

 シータに“舞台で君と会話したことは二人だけの秘密だよ。あの女の人に話してはいけない”と言われたことを思い出し、慌てて嘘の言い訳をした。

「本当の名前は教えていたかしら……」

 女は顎に手を当てて考え込む。

 イオタには女を納得させることができるさらなる嘘が思い浮かばず、緊張で体が硬直していくのがわかった。

「まぁ、別にどうでもいいわ」

 やや投げやりに導いた女の答えを、イオタはうんうんと、わかったように頷いて同意する。

「お調子者ね」

 女がひっそりと微笑して言った。

「普段はお調子者とぼくは呼ばれてるの?」

 お調子者の意味がわからず、イオタは素直に訊いてみる。

「えっ、あぁ~そうよ。よくわかったわね」

と言ったあとで女は後ろを向き、腹を抱えた。なぜ笑ったのか、という疑問は図書館のような部屋ですぐに辞書を引き、『お調子者』を調べて判明した。

 お調子者……いい加減な人。軽はずみな行動をする人。浮薄な人。

 どう考えて頭の良い奴につけられる名前じゃないことがわかり、イオタは落胆する。

 本当にお調子者がぼくの名前なの?と再確認する勇気もなく、頭の中の赤い本に【お調子者】イコール自分の仮の名前としてインプットされそうで、早く忘れてしまいたい知識をどう扱うべきか悩んだ。

 それがイオタ八歳の出来事だった。


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