不穏な風
今話から少しずつ話が始動していきます。
まだまだ日常的場面ばかりですが、水面下では
様々な動きが見られるようになってきました。
今回もどうぞご拝読の程、よろしくお願いします。
「では取り引きの話としようか」
妙に低く物怖じなど知らなさそうな図太い声が、空間に拡がる。
薄暗く、照明もライトスタンド一つという、この無機質極まりない空間は
取調室に見えなくもない。
某所、地下室の殺伐とした空間。
「日付に変更はない。午前零時、場所は言わなくても解るはずだ」
本当に薄暗く、穴太 武は目を凝らす。
灰色のコンクリートの壁、暖かみの無い色のテーブル、そして簡素なパイプ椅子に座る女…だろうか。
相手のシルエットは掴めても、ライトスタンドの逆光もあり顔が見えない。
これも策の内なのだろうか?
危険な道を踏もうとするなら、顔を知られぬようにするのは道理だ。
銀行強盗するのに素顔を晒して行くバカがいないのと同じ理屈。
もっとも銀行強盗よりリスキーな、この「取り引き」では
当然のことだと予測しておくべきだったか。
「……ふ。そちらが失態を演じない限り。こちらに問題など起こり得ませんわ。まぁ、せいぜいあなた方の力量と言った所でしょうか。」
顔の見えぬ相手が口を開いた。
微かに映る身体の曲線から女だと思っていたが、どうやら間違っていなかったようだ。
たった今発された、凍てつくようでいて妖艶な声がそれを裏付ける。
知性的、すべてを知っているような上から物を見るような喋り方が、穴太の感情を逆撫でする。
「仕事に感情は要らねぇ」
ずっと昔、誰かが言っていたセリフを思い出した。
穴太は反論などせずに、事を進めるような口調で言う。
「問題など。ネズミが入っても殺してしまえば、それで済む」
前に脚を組んで座る女は、姿勢一つ変えない。
「また逢うときには楽しみにしていますわ」
ふっ、と微かだが女の口角が上がった気がした。
まるでゲームをして勝ち誇るような表情を、とっさに連想する。
これ以上、会話を続ける理由も見あたらず、無言の返事をして立ち去った。
時は四月半ばだというのに、背中に吹く風が妙に冷たい。
心なしかそう思い、それ以上は考えないようにした。
街に灯る明かりは、今日も変わらず揺らめき続けていた。
★
請負屋の一人になって、初めて課された仕事は「引っ越し」だった。
いきなり大仕事かと気を張っていた分、緩んだというか、肩すかしを食らった気分だ。
熊羽曰く、俺の住んでいるアパートは先日の一件で特定されている可能性が高く
一人ノコノコ戻って、住み続けるのは危険性が高いのだという。
ルーガからも、油断は大敵であるという、ご訓話まで賜った。
いずれにしろ、引っ越すことも視野に入れていた時期だったので、特に未練はない。
熊羽は傷んだ車の修理へ、ルーガはこの家の見張り兼、警備をするらしく
今日は個別行動になると言っていた。
一人で帰るなと言ったのは誰だ…。
とマジレスしてやろうかとも思ったが、喉の奥にしまっておく。
まだ午前11時程だし、あまり家財道具も多くないので、一日あれば十分に片づくだろう。
その間に何も起きないことを祈るだけだった。
多少、まだ痛みの残る五体に喝を入れていると、今から出ようとしている熊羽に
声をかけられた。
「ここに腰落ち着ける以上は何があるか分かんねぇ。コレ、持っとけ」
そう言って手渡されたハンドガンに、身がすくみかける。
「あくまでも自衛用だ。詳しいことはルーガに訊けばいい」
逡巡する俺に、ルーガが呟く。
「FN社のFive SeveNですね。新型の5.7ミリ弾を使用するので、高威力の割に反動がマイルドで20発も装填可能です。」
詳しいな、おい…。
料理を頑張ればもう少し、可愛く見えるというものを。
「100メートル先のボディアーマーも撃ち抜くことも、できたはずです。」
どうしてこう、さらっと恐ろしいことを言っちゃうんだ。こやつは…。
「んなもん、俺に持たせるなよ。」
ツッコんだつもりだったが、熊羽の目は笑っていない。
「死んでから、その台詞吐けんのか」
「……………。」
ハッとなって、沈黙してしまう。
生きている世界の違い、温度差を否応なく知らされた。
日常のあふれる世界が暖かいのなら、こちらは凍える程に冷たい。
何があってもおかしくは無い、そういう世界なのだ。
彼らは自分以上に、死線をくぐって来たのだ。
危険な状況ですら日常のような世界で生きている。
自分もそのような世界に飛び込んだことを忘れるなど愚の骨頂だ。
身を持って先日の一件で体験したが、まだ何となく白昼夢を見ているようであり
信じ切れていない自分が居た。
「ス、スズさえよければ、その……わたしがレクチャーして差し上げますから…」
状況を見かねてか、ルーガがフォローしてくれた。
なぜか微妙に照れくさそうにしているのは、思いこみか?
「んまぁ、そういうこった」
「死にたくねぇなら、常に背後に注意しろ」
何かあったら連絡しろ、じゃあなっ。と言って熊羽は出かけていった。
「……。」
数瞬にして沈黙が戻ってきた。
大人数で集まって、そのあと人が減っていった時のような、微妙な空気感だ。
「とにかく、作業しましょう!動かないと始まらないですし…」
屈託のない笑顔を向けるルーガ。
戦闘時とのギャップが、これまた鋭い。
不覚にも、本当に可愛いと思ってしまう。
それをごまかすために言ってやった。
「んだな。そっちも自宅警備、頑張ってくれ」
「自宅警備」を殊更強調して言われたのが悔しかったのか、
口をとがらせて「に、にーとじゃないですから!」と言っていた。
そんなやり取りに苦笑しながら俺は、初仕事のため自宅アパートへと向かった。