~プロローグ~
人々が行き交う道の真ん中にカゲロウができている。
「暑い。とかく暑い…」
心の声がつい口に出てしまった。
時は四月の半ば。なのに恐ろしく暑く汗が止まらない。
早く家に帰りたい、と心の声が出そうになったが今度はしっかりと飲み込む。
照りつける太陽と生ぬるい風を浴びて家路を急いだ。
★
「うっ……」
自分が見たモノを理解しようとしたが失敗した。
おまけに変な声まで出てしまった。
そりゃそうだ、何もない平凡極まりない街に 「熊」が現れたのだから。
正しく言えば、顔だけ「熊」なのだ。
かわいいクマちゃん ではなく、グリズリーとかそっち系な感じである。
身の危険を感じて逃げ出してしまう人間の本能を掴んでいるような。
180cm後半はあろうかという身長に胸元の開いた黒のドレスシャツ、その上に同じような黒地の
スーツを着流している。
現れた熊男は、人ごみの中をかき分けるように進んでいく。
人々は知ってか知らずかあまり注意を向けない。
何かの催しものか何かと思いこんでいるのか、あまり騒ぎ立てない様子だった。
熊男はずんずんと、さらに人ごみをかき分けたあとに煙のごとくすぅーっと視界から消えていった。
本当に消えてしまいそうな勢いで。
とりあえず絡まれたりすると面倒なので、遠回りだが少し距離を置いて、あと少しの家路を急ぐ。
駅にも程よく近く、それでいて程よく閑静な場所に建つ、この程良くボロいアパートには
一人暮らしだ。
以前、父と住んでいた実家とはまた違った静けさが取り巻いている環境も悪くない。
しかし夜の閑散とした静けさは苦手だ。
ルームシェアリングも考えたが、気の合う相手もいないし一人の方が気が楽、ということで
一人暮らしに甘んじている。
本当は前者の方が大きいのかもしれない。
「ふぅ……うだる暑さだな」
”涼牧”と書かれた表札を見ながら久しぶりに口を開いた。
なんだかすごく口が渇いている。とにかく今は何か口に入れたい。
冷えてるものがあればいいが。
そんな考えを浮かべながら冷蔵庫を開くも、生憎何も入っていなかった。
冷えた麦茶なんぞ入っていれば最高だったのだが、それはおろか食料すらない・・・。
最近、新年度の忙しさからか買い物に行けてなかった。
あるのはワサビとカラシのチューブだけが空しく並んでいる。
「さて、久々買いためるか」
生ぬるい水道水で一服して意気込んだ。
今日はおそらく安売りの日だったはずだ。
時間帯をあわせて買えば通常よりかなり安く買うことができる。
いわゆるタイムセールスってヤツだ。
ささっとチラシに目を通し品定めをしていく。
まだ目当ての品までには時間がありそうなので、暇でも潰すとしよう。
眠りそうで眠くもないような不思議な感覚におそわれる。
この”狭間”が何とも心地いい。
意識の狭間でのそのそとリモコンへ手を伸ばしTVをつけると
映し出された液晶画面の中では、ゴルフカップの中継があっていた。
涼しそうな高原っぽい場所だが、画面の中の選手たちは必死だ。
これで大金をもらえるのだから、必死こいてバイトしている俺にはおもしくなかった。
でも案外、となりの芝とやらは青くないのかもしれない。
芝が青いかどうか判断するにしても一人一人、基準が違う。
その点はおもしろい世の中だなとも思う。
そんなことを考えているうちに、あっという間の30分が過ぎていた。
まさに「光陰弾丸の如し」。
大量の汗をかいたのでシャワーを浴びたい。
疲れた五体をひきずって風呂場へと向かった。
★
「ぬううううおおおおおわっ!??」
さっきまでの眠気がぶっ飛んだ。
洗面所で目にした光景に焦ったからだ。驚くというより、まず焦った。
半獣人の次は家宅侵入かよ……。
「あ、おじゃましてますっ。」
この言葉が、友達の家にいるときに帰ってきた親御さんに言うのなら問題ない。
しかし今の状況で、下着一丁のそれも女子の言うことではない。
昏睡状態でも目が覚めるわ。
開口一番そう口から言い放った娘は、” 綺麗 ”という言葉を体現しているようだった。
肩下15cmほどまで伸びる髪。さらりとした金に近い栗色をしていた。
身長こそ俺より低いが、出るところはちゃんと出ている。
世に言うスレンダーってやつだな。
色々と状況が飲み込めない中でこちらも反撃に転ずる。
「人んちで勝手に何やってる。何で風呂入ってんだ。」
そう言っている最中にも、まるで気にしないかのように着替えを続けている。
ずぶとい…。
さすがに手を挙げるつもりは無いが、少し語気を荒く言ってやろう。
「 おい、本当に警… 」
途中で言葉が切れたの手を肩に置かれたからだ。
「あぁ、悪かった。奴ぁウチの連れでね。連れと言っても仕事上の相棒だがな。」
ゆっくり振り返ると、さっきの熊男だった。
「っ………!?」
空き巣仲間かと覚悟していたがさほど驚かない。
というより必死こいてクタクタで帰ってきて
変な娘がシャワー浴びてたら、大抵のことには驚かない。
というか驚きがマヒする。
言葉を発そうとしたが、それより先に熊男が低い声で続ける。
「ゆっくり説明してる暇は無ェから手短に言うが、アンタは命ねらわれてる。だから俺たちと逃げろ。」
手短すぎんだろ…
とツッコんでやりたかったが状況的にそれは許されないらしい。
理解できない。つか理解できる方が超人だな。
考えてもわからない問題に、必然的に口があく。
それに気づいたのか熊男が口を開いた。
「アンタを守れって依頼があった。俺たちは請負屋、どんな依頼にも金で動く、そういう輩だ。とにかく今は急がなきゃなんねぇ。」
先ほどの娘が着替え終わったのを一瞥すると、娘はこくりとうなずく。
どうやら本当にヤバいのかもしれない。
何もわからぬままケータイと財布を引っ張りだして車に乗りこんだ。
乗せられた という表現が正しいのだが…。