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RAGNACAVALRY  作者: 奈月遥
1/4

満月の下で

 レイはその小学二年生という年齢に見合った小さい体をすっぽり覆う桜色のダッフルコートに、右手、左手と袖を通していく。

 それから白くて指も細い手が、たどたどしくクチバシみたいな茶色のボタンを輪っかに止めていく。それを四つ全部止める頃には、お母さんも晩ご飯の食器を洗い終わって、蛇口の取っ手を倒して水を止めた。

 お母さんがエプロンで手を拭きながら玄関に来ると、レイは下駄箱の上に置かれた鏡を見ながら、白いポンポンの付いたニット帽のちょうどいい位置を決めかねていた。

 どうにかいい感じになったのか、レイは帽子から手を離すと下駄箱に乗っていたオレンジのミトン手袋を手にはめる。ぐっぱ、ぐっぱとオレンジの手のひらを握って、左手の方だけ手首のとこをくわえて引っぱる。

 もう一度、左手をぐっぱして、レイはお母さんを見上げて笑った。

「お月様、見に行ってくるね」

「今日は晴れてて寒いから、マフラーもしていきなさい」

 にこにこしているレイの顔を隠すように、お母さんは黄緑のマフラーを手際よく巻きつけていく。

 口まで覆われて苦しくて、レイはマフラーにミトンを付けた小さな手をかけて、マフラーを押しのける。

「ぷはっ」

 やっと息を吸えるようになったレイは、むぅとほっぺを膨らませてお母さん見上げる。

 でも、お母さんは逆ににこにこしていて、ドアをそっと開けてくれた。

「さ、いってらっしゃい。あんまり遠くへは行かないでね?」

「ん。いってきます」

 レイは玄関のドアの半分よりちょっとだけ高い身長を、ドアを支えるお母さんの腕の下をくぐらせて、ひんやりとした外に出ていった。

 レイはニット帽からはみ出した亜麻色の髪を跳ねさせながら、マンションの階段を駆けていき、最後の一段をぴょんと抜かして、自動ドアが開くのも待ちきれずに足踏みする。

 三歩も踏まないうちに開き始めるガラス戸も待ちきれずに、体をすべり込ませて、外の踏みしめられた雪を両足で叩いた。

 そのまま、マンションを左に雪道を蹴っていく。弾んだ息は白く凍り付いて、レイに取り残されてしまっている。

 目的地はマンションの横にある小さな公園。すべり台もブランコもなくて、ベンチにも雪が積もっているようなところだ。

 そこに駆け込むと、レイはまだ誰も足を踏み入れてない、さらさらした雪に仰向けでダイブする。

 その場所は、冬限定の特等席で、本当は入ってはいけない芝生なのだけど、雪に覆われている今は怒られたりはしない。

 そしてこの時間のそこからは、マンションに切り取られた空の、ちょうど真ん中に、まんまるの満月がゆっくりすべってくる。

 急いできたレイは、まだ息を弾ませて、目を閉じていた。

 どきどきした心臓と、はぁはぁしている肺が落ち着いて、しん、と雪が音を吸い込むような感じになった頃が、お月様の見ごろなのだ。

 次第に、レイの白い息も霞んでいって、ほっぺの熱っぽさも治まってきた。

 夜に一滴の青を落としたレイの目がゆっくりと冷気にさらされていく。

 その瞳に一番に入ってきたのは、期待通り黄金の光をこぼす満月だった。

 それから宇宙を透き通らせたように暗い空に、月を囲んで微かに存在を瞬かせる星のいくらか。

 そしてそれを縁取るマンションの直線で、レイの視界は先を失う。

「きれい」

 レイのこぼした声は、やっぱり雪がしんと吸い込んで消えていく。

 月の光も凍りついた空気に吸い込まれて、すぅっと伸びている。

 その光の一筋が真白な雪を淡く染め上げながら、レイの亜麻色の髪で跳ねて煌めき、夜を映した瞳から差し込んできて、心まで沁み込んでいく。


 体が、砕け散って、いく。

 翼も千切れて、空は遠く、手を、伸ばしても、届かなく、なっていく。

 空が、遠い。

 翼は、千切れて、砕け散った。

 敗北、それは決定された破壊。

 墜ちるままに、伸ばされる杖が、牙を剥くのを、見つめる。


「シャボン玉?」

 月を眺めていたレイがそう呟くと、白く凍る息が月光を透かして、きらきらと揺らいだ。

 その視線の先で、色の揺らめく薄い膜が、ふるりと空から膨らんでくる。静かな色合いは、濃紺に淡い緑、夕焼けの風味をなびかせて、風のない夜空で、ふるふると寒さに耐えている。

 けれど、月の光はその薄い膜に触れても反射しないで、そのまま雪に沈んだ町まで降りてくる。

 静かな雪国の夜を破らないように、その膜は音もなく、光にも触れないで、震えていた。

「ぱちん」

 レイはなんでそんな言葉を投げかけたのか、自分でも分からなかった。

 ただ、弾けるシャボン玉が脳裏に浮かんで、小さな石鹸水の粒に散って、どこかへ跳んでいった。

「あ」

 そしてレイの眼差しの先で、空にたゆとっていた薄い膜も割れた。

 群青から翡翠、翡翠から黄昏、黄昏から紫煙へと移ろう膜は、空の端っこに手繰られたみたいに、するりと音もなく消えていってしまった。

「なに?」

 レイの夜の闇を映しこんだ瞳は、輝く月を突き切る影を捉える。

「天使?」

 よく目を凝らせば、全体的なシルエットはヒトに近いのだけど、その背中から六枚の翼が伸びている。

 翼が一枚、その何かから千切れた。

 ふあり、風に煽られて、その翼は何かが手を伸ばしても届かないところまで飛んでいく。

 レイはぼんやりとそれが月を隠していくのを見続けていた。

 そのうち、それは月の真ん中ではっきりと形が分かるようになって。

 細かいところまで見えるようになると、それは月を半分以上隠していて。

 それの体にはたくさんの皹が入っていて、翼も穴だらけで、体から細長いものが飛び出していたりもする。

「落ちてる」

 ぼそりと、レイがそのことをやっと理解した瞬間、それは公園の目の前の道路に衝突した。その衝撃で巻き上がった雪が、寝転んでいたレイの体に降りかかる。

「落ちた……」

 ふるふると頭を振って顔にかかった雪を落としたレイはまだ動けなくて、お月様は今の出来事なんか知らん顔で光をそこら中に注いでいる。

 レイは両手を体の後ろに回して、手のひらから肘までを支えにして上半身を起こした。その拍子に、さらさらと粉雪がレイの体から零れ落ちる。

「いる?」

 半信半疑でレイが首だけを回すと、道路に埋もれた巨大なそれと目があった。それの瞳は、桜色に光ってて、つるりとしていて、なんだか硝子にそっくりだった。


 目の前に、小さな何かがいる。

 ふんわりとした装備に身を包んでいて、夜空をそのまま吸い込んだような瞳が、わたしの体を映しこんでいる。

 酷い破損が目立つこの体の奥が、疼く。

 ――疼く、とはどういう現象なのか。検索する時間は、恐らく、ない。


 レイは体を沈めていた雪から立ち上がって、ニット帽から順番に、肩、おしりとミトン手袋で叩いて、体に付いた雪を払う。

 それから、ふらふらと道路の方に向き直る。

「ぼろぼろ……」

 雪みたいに白い羽が舞い降る中で、レイはマフラーを両手で立てて、口元まで埋めた。それから足を滑らせるようにして、よたよたと落ちてきた何かに向かって歩き出す。

 細くて浅い轍がレイの後にゆっくりと残されていく。

 その間もレイに向けられたままのつるりとした瞳は、光ったり、消えたり、揺らいだりしていた。

 レイはそれの近くまで辿り着くと、それだけで大人の何倍も大きい腕に入った皹を撫でた。その罅割れは、レイの小さな手は簡単に入るような隙間が空いている。

「いたい?」

 レイはそれの瞳を見上げて訊いた。

 それの瞳が、一度明滅する。

「わからないの? じんじんしない?」

 レイはむぅ、と一度呻いてから、また質問する。

 それの瞳は、今度は光を弱めて、けれど消えずにまたチカッと光る。

「……感じないの?」


 小さいもの、が、近づいて、きて、破損個所を、確か、める。

 思考、処理に、限界――。

 いたい、検索不可。

 熱エネルギー、に、よる損傷拡大、無し。

 ――感じる、不明。

 しか、し、理解、可能。

 わたし、は、目の前の、それに、手を、伸ば、す。

 ――わたしは、彼女を、求める。


 動かなかったそれが、体をよじる。

 その巨体から生えた翼が、雪を掘り返し、街路樹に触れて、どさりと雪を落とした。

 その胸の中心にはまった桜色の球体が、光を放つ。

 レイが眩しさに瞑った瞼を開けば、そこは道路の上ではなかった。暗くて、桜色から亜麻色に、そして新緑になびく光の帯がレイをくるんでいる。

 その帯の向こうに、外の景色が見える。

「ここは、あなたの中?」

 レイはきょろきょろと光の帯を見回す。

 光の帯は揺らぎながら、レイの頬に触れた。

「そうなんだ」

 レイは納得したように頷くと、また外を見た。外が見えるのが、前のようだ。

 光の帯がまたレイに擦り寄ってくる。

「あったかい? そっか。いっしょにいるもんね」

 レイは光の帯を手繰り寄せて、ぎゅっと胸で抱き締めた。

 体も竦めて、寝る時みたいに、あったかくなるように、光を抱える。

 光は一際強く、桜色を溢した。

「あなたのお名前は?」

 光の帯は、その一部をするするとレイの腕から解けて、外を映す画面をなぞる。

 そこに桜色から亜麻色、それから新緑に揺らぐ色合いで、丸を三つ並べた。真ん中の端っこ両方に一つずつ丸を繋いだ形だ。

「ゼロが三つ? さん、ぜろ……とらいぜろ?」

 レイはその文字を見て、この間大学生の従姉が、三をトライっていうんだと教えられたのを思い出した。トライアングルのトライだ。

「わたしも、レイっていうの。わたしは一個だけだけど」

 光の帯は、亜麻色の光を端っこから端っこまで滑らせて、レイの名前を飲み込んだ。

「え?」

 ふわり、とレイは急に体が浮かぶのを感じた。エレベータで降りる時みたいな感じだ。

 それから光の帯がきゅっと縮こまって、レイの腕の中に押し寄せた。

 それが眩しくて、レイはまた瞼をぎゅっと閉じた。

 一拍遅れて、レイの両足が雪を踏み締める感触を確かめる。

「あれ……とらいぜろ?」

 レイが目を開ければ、道路の真ん中に立っていて、あの大きな何かは綺麗さっぱり、羽の一枚も残さないで消えていた。

 けれど、雪はあの何かの形に凹んでいる。

 でも、やっぱりお月様は知らん顔で白い光を辺りに降り注いでいる。

 よく分からなくて、レイはきょとんとお月様を見つめて、それからぱちくりと目を瞬かせる。

「玲、玲じゃないか」

「あ、おとうさん」

 レイが呼ばれて振り向けば、仕事帰りでスーツをきっちり着込んだお父さんが歩道に立っていた。

「ああ、今日は満月か。でも、車道に出たら危ないじゃないか、こっちに来なさい」

 お父さんはちらりと空に浮かぶ丸い月を確認して、厳しい口調でレイを呼んだ。

 おずおずとレイが歩道に戻ると、お父さんはニット帽の上からレイの頭に手を置く。

「雪で道が分かりにくくなっているから、注意しなさい。いいね」

 真っ直ぐにレイの目を見るお父さんの声は、はっきりとしていて、レイには少し怖かった。

 でも、レイが黙って頷けば、お父さんは優しく頭を撫でてくれた。

「今日はもう帰ろうか」

「うん」

 レイはもう一度、空を見上げる。

 雲一つない空は、黒に一滴だけ青を垂らした暗さのまま黙っていて、冷え切った大気の中で、真白い月が綺麗な円を描いている。

 なんでもない、いつも満月の夜空だ。

「ところで玲、それなんだ? おもちゃか?」

 それと言われて、レイは始めて、自分が何かを抱えてるのに気付いた。お父さんから視線を外して落とせば、レイの両腕の中には月みたいに白くて丸いものが納まっている。

 撫でると、すべすべでふにゃりとした感触が返ってくる。

 撫でられて嬉しいのか、それはレイにほんわかとした温もりを伝えてくれる。

「ううん、たまごだよ」

 そう言って、レイはたまごを抱き直した。寒くないようにと、マフラーもその上に被せてあげる。

「そうか、おもちゃのたまごか」

「おもちゃじゃないよ」

「そうか、そうか。わかった、わかった。さ、一緒に帰ろうな」

 お父さんはレイの言葉をまともに聞いてくれないで、笑っている。それから、レイの右手を握って歩き出す。

 お父さんに手を引かれながら、言うことを聞いてくれないお父さんに、むぅとほっぺを膨らませていた。


 あたたかい。

 敵意のない熱は、始めてだった。

 もう少し眠ろう。この温もりが心地良いから。


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