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かがやき

作者: 海野かもめ

 行方不明になっていた行宏ひろゆきから電話があったのは、じつに二年ぶりのことだった。

「もしもし、あの……拓也たくや?」

 携帯電話の向こうで懐かしい声がする。

 二十九歳の大人の男らしからぬ、どこか遠慮がちで頼りない口調。

 ご丁寧にも悲通知でかけてきている。

「……兄さん!」

 非通知の表示にもしやと思い、車内にも関わらず電話にでた。あたりだ。こんなこともあろうかと非通知ロックを外しておいて正解だった。

 ふー、っと安堵の息をつく気配が携帯電話の向こうから伝わってくる。

「ああ、よかった……つながって。八十万いますぐに必要なんだ。あの、貸して……くれないかな」

「は?」

 電波の状態が悪いのか、通話は途切れがちで聴き取りにくい。もう一度言い直してくれ、と言おうとしたら、行宏のほうからたたみかけるように繰り返してきた。

「八十万円貸してほしいんだ。いますぐ」

「八十万だって!」

 びっくりして声が大きくなる。

 馬鹿みたいにオウム返しに言ったちょうどそのとき、左脇で手すりに掴まっていたスーツ姿の男と目が合った。

 見知らぬ他人の、とがめるような視線がどうにもいたたまれなくて視線をそらす。

 総武快速の車内は金曜日の九時過ぎとあって通勤ラッシュのピークとまではいかないまでも、会社帰りのサラリーマンやOLでかなりの混雑だった。


「うん。八十万円……貸してくれる?」

 都合の悪いときは重なるもので、拓也が立っていたのはシルバーシートのまん前だった。

 そこだけ違う色のシート。

 目の前の窓ガラスには、携帯電話に×印が描かれたシールがでかでかと貼られている。

 いまさっき錦糸町の駅を出たばかりだから、次の停車駅まではまだ五分以上の時間があいている。

 電車内にもかかわらず平然と携帯電話で会話をする人間を非常識だと軽蔑の目でみていた拓也にとって、この状況は耐えがたく、非常に居心地が悪かった。いつ、誰かにとがめられないかと気が気ではなかった。

「八十万なんて大金、いったい何に使うんだよ。簡単に出せる金額じゃないだろ」

 開いている方の手で口元をおおい、声をひそめてみたものの、あまり効果は期待できそうにない。それどころか、かえって悪目立ちしている気すらしてきた。

「その、いろいろと」

 後ろめたいのか、帰ってきた答えはどうもはっきりしなかった。

 もっとも二年ぶりに連絡をしてきたと思ったらいきなり金の催促では、当然とも言えないこともなかったが。

「いろいろ、ってどういうことだよ」

「ええと、あの……ローンを組んだんだけど、いますぐ返さないとちょっとマズイことになりそうなんだ」

「ローンって、いったいどういうローンなんだよ」

「ええと……ごめん、やっぱり無理だよね」

「ちょっとまて! 切るなよ」

 電話の切れそうな気配に拓也は慌てて言葉をついだ。

「出せないわけじゃないよ。貸さないって言っているんじゃない。ただ心配しているだけだよ……わかるだろ?」

 増えつづける視線が痛かったが、ここで電話を切るわけにはいかなかった。

 行宏がどこにいるかわからない以上、こちらからは連絡のつけようがない。

 一度切れてしまったら、次はいつになるのか、はたして本当に次があるのかさえ分からない状況なのだ。

「いまどこにいるんだよ」

「言えない。拓也に迷惑がかかるから」

 ため息が出た。家族全員に心配をさせて、いまさら何を言っているんだ、と叫べたらどんなにスッキリするだろう。

「俺のことはいいから、教えてくれ。だいいち、どこにいるのか分からないと金を届けられないだろう」

「ごめん。やっぱりやめておくよ……」

「なんだよ、それ。いまさらそんなふうに言うなんて、そんなのないだろう。それとも最初からからかっていたとか? 冗談なの?」

「ちがうよ……でも、迷惑だろ? 心配かけてごめん。もう切るから……」

「待て! 切るなったら!」

 ふいに雑音が混ざった。携帯電話の向こうで、もみ合うような気配がして、聞いたことの無い男の声が「もしもし」と言った。


「冗談なんかじゃないですよ」

 ふざけているような、笑いを含んだ声。

 ドキリとして、なぜだか手が震えた。

「だれだ、おまえ」

「あんたのお兄さんに金を貸した者ですよ」

 見知らぬ男が答えた。 

 電話口の向こうで、兄が何かを必死に訴えているようだった。何を言っているかまではわからない。きれぎれに「やっぱり弟は」と言う言葉が届いてくる。

「貸したはいいが返ってこない。お兄さんにはこっちも迷惑しているんですよ。八十といえば確かに大金だけど、出せない額じゃないでしょう。ここはひとつ、弟さんにお願いしたいと思いましてね」

「ローンって、どういうローンなんだよ。ちゃんとした請求書はあるんだろうな」

「もちろんありますよ。でも、そうですねえ……指の一本でもお見せした方が納得していただくにはいいですかね」

「そんなこと」

 どうやら、まともな相手ではないらしい。

 あなた次第ですよ、と男が言った。


「うるさいぞ!」

 電話口の男が一括する。

「聞こえないだろう。少しのあいだなんだから、おまえらゴロゴロしてないで、そいつどうにかしろよ」

 部屋には他にも人間がいるらしく、別の声が応答した。

「悪い悪い、しょうがねえなあ……向こう行くか」

 悲鳴のような叫びが響いた。

 次いで、笑い声が起こる。

「おい、やめろ! 兄貴に手を出すな!」

 叫んだものの、どうなるものでもない。

 恐怖とも怒りともつかない感情に、目の前が真っ赤に染まる。息が荒くなり、声が擦れているのが自分でもわかったが、どうすることもできなかった。

「だいじょうぶ。指は無事です。いまのところはね。でも急いだほうがいいですよ」

 笑いを含んだ声。

「ところで、あんたもお兄さんと似ているのかね。だとしたら会うのが楽しみだな……二人並べたら、ビジュアル的には最高だと思うんだけど」

 電話の向こうで大爆笑が起こった。

 いったい部屋には何人いるのだろう。

「俺は兄貴とはぜんぜん似てないから」

「そりゃあ、残念。まあ、ああいう上玉はめったにお目にかかれないだろうけどな。おまえ、わかってる? ほとんど珍獣なみの希少価値だせ、あれは。……まぁ、弟じゃわからないかもしれないけどな」

 うるさいな。わかかってるよ、そんなこと。もう、ずっと以前から。心の中だけで、そうつぶやく。

 男の言葉には関心のないふうを装い、静かな声で拓也は尋ねた。

「どこへ行けばいい?」



   

 厳格な父とはそりが合わず、行宏が初めて家を飛び出したのが十五歳のときだった。

 最初の家出はすぐに見つかって連れ戻されたが、その後、家を出ては連れ戻されを幾度となく繰り返し、二十歳になるころにはほとんど家には寄り付かなくなっていた。

 音楽で食べて行きたい、というのが兄の夢だった。

 誕生日に買ってもらったクラシックギターがすべての始まりだったのかもしれない。あるいは、もともと要素があったのか。

 いつのまにかプレゼントのクラシックギターがエレキギターに変わり、その三ヶ月後には友人とバンドを始めていた。

 気がついたら兄の部屋にはアンプやらなにやら沢山の機材があふれ、ベッド以外のほとんどのスペースをそれらが占領していた。

 変わったのは部屋だけではない。

 兄の外見も変わった。

 校則に沿った、襟足につくかつかないかだった短髪が肩よりも長く伸び、黒から茶、金髪ついには銀へと変わっていった。

 一時期など、完全に眉毛を剃り落としているときすらあったほどだ。

 服装こそ普通のジーンズをはいていたが、自室には衣装と思われる黒や白の服があふれかえり、壁の半分を覆っていた。

 必要なものをそろえるためにアルバイトを始め、それは日を追うごとに数を増やしていった。

 アルバイトをいくつも掛け持ちするようになり、帰宅するのは真夜中になった。帰宅しない日が何日もつづいた。

 高校を休みがちになり、ついに兄は両親に秘密で退学届を提出したのだ。



 

 それは、父を知っている人間からすれば当然のなりゆきだった。

 ある夜、兄が帰宅すると、部屋の中はすっかり様変わりしていた。

 壁にかかった衣装が庭で焼かれ、ギターと機材は修復が不可能なほどに壊されていた。書きかけの楽譜も、なにもかもが破り捨てられて、紙くずに変わっていた。

 そのときの行宏の呆然とした表情を、拓也はいまでも鮮明に覚えている。

 怒るのでも叫ぶのでも、ましてや泣くのでもない。

 ただ静かに部屋の中心に長いこと立ちつくし、その惨状をぼんやり眺めていた。

「別の高校へ転入しろ」と父が命令した翌日、行宏は最初の家出を決行したのだ。




 あれから一時間ちかく。時刻はとうに十時をまわっていた。

 新小岩で総武快速を降り、各駅停車に乗り換えて、都心に向かう。と言っても指定された場所は飯田橋からすぐのところだった。

 飯田橋駅の改札口を出て、コンビニエンスストアのATMで男に言われたとおり八十万円の金額を下ろし、拓也は足早に指定されたマンションへ向かった。

 警察に通報することも考えたが、もしものことを考えて止めておいた。

 まだ事件になっているわけではなく警察がどこまでアテになるか分からなかったし、最悪の場合、行宏の身に危険が及ぶ可能性も否定できない。

 本当に指が送られてきたりしたら目も当てられないし、悪夢にうなされるに決まっている。なによりも行宏にもしものことがあったら後悔してもしきれなかった。


 目的のマンションは駅から五分ほどの場所にあった。

 オートロックのマンションの前で立ち止まる。スーツの内ポケットがやけに重かった。

 八十万円分の重さは、そのまま命の重さだ。行宏の指が八十万なら安いものだ。

 息を吐いて、携帯を鳴らす。2コールで相手が出た。

「いまマンションの前にいる。兄は無事なんだろうな?」

「ああ。大切な身体だ、もちろん丁寧に扱っているよ。言われたものは持ってきたか?」

「持ってきた」

「一人だろうな?」

「ああ」

「いま開ける。七階の『703』だ、上がってこい」

 ガラスの扉のロックが解除された。



 エレベーターを降りると目的の部屋はすぐに見つかった。正面の突き当たりだ。

 エレベーターと『703号室』は直線でつながっていて、身を隠せるところは皆無だった。

 拓也は一本道のコンクリートの廊下を歩き出した。靴音がやけに響いた。

「こっちだ」

『702号室』の前まで行ったところでドアが開いた。703でも702でもなく、エレベーター脇の『701号室』だ。

 ふりむくと、半分開いたドアの隙間をふさぐようにして男が立っていた。拓也を見ている。

 身長は百八十に少し足りないくらい。年齢は二十代の後半といったところだろうか。

 細身のブラックジーンズにTシャツという、ラフなスタイルだった。

 沈黙がつづいた。時間にしたらわずか数秒だったろうが、拓也には妙に長く感じられた。

 男は、唇にひっかけるようにしてぶら下げたタバコを、器用にも唇だけで上下に動かした。

「ひとりで来るとは関心じゃないか。それにしても、本当に似てないんだなぁ」

「似てなくて悪かったな」

「中途半端に似ているだけのまがい物よりよほどマシだ。こいよ」

 ドアを全開にして、顎をしゃくった。



 半畳ほどの広さの玄関には何足もの靴が並んでいた。

 スニーカーがほとんどだったが、革靴も混じっている。サラリーマンが会社に履いていくには派手な、デザイン物の黒いショートブーツだった。

 すべて男物でサイズもマチマチなところをみると、部屋にはやはり何人かの人間がいるのだろう。行宏は無事だろうか。

「とりあえず上がれや」

 うながされるままに靴を脱ぐ。 

 玄関を入ってすぐ四畳ほどのキッチンとユニットバスがあった。

 奥にはくもりガラスがはめ込まれたドアがある。きっとリビングか寝室になっているのだろう。

 奥の部屋のことを思うと、ドアを開けるのがためらわれた。

 ドアノブに手を伸ばしたところで、声がした。悲鳴とも抗議ともつかぬ、だがまぎれもなく聞き覚えのある声だ。

「やめろ」

 行宏だった。

「もう我慢の限界なんだよ!」

 激昂している。

「さっきからこっちに煙が来てるんだよ! 明日はライブなんだぞ。どういうライブか分かってるなら、少しは遠慮しろ! 声が出なくなるから俺のいるトコで吸うな、っていつも言ってるだろ。俺だって吸いたいのをずっとガマンしてるんだ。ちくちょう! おまえら何度言われたら分かるんだよ!」

「あ、悪い」

 タバコを唇に貼り付かせたまま、男が頭を掻いた。


 


 奥の部屋には行宏の他に二人いた。

 それぞれがタバコをスパスパと吸いながら譜面を手直ししている。

 部屋中に真っ白な煙がたちこめている。

 行宏でなくとも文句のひとつも言いたくなるような惨状であるのはまちがいなかった。

「いったいどういうつもりなんだ」

「ごめん、冗談のつもりだったんだ。……本当に来るとは思わなかったから」

 行宏と連絡が途絶えて二年。

 実際には五年近く会っていない。

 また少し痩せたみたいだ。けれど、それ以外、行宏はあまり変わっていなかった。

 本人は百六十二と断言しているが、そんなにはないはずだ。

 でも百六十センチ以上はあると思う。コンプレックス以外の何物でもなかった、男としては華奢な身体つき。まだ気にしているのだろうか。

 こじんまりとした、小さな顔。

 眉毛は半分くらいしか残っていなかった!

 肩より少し短いくらいの、でも一般的な男性にしては長めの髪は、今日は金でも銀でもなくごく普通の茶色だったが、前髪ごと頭のてっぺんでパステルピンクのカチューシャで留められていて、それが妙に似合ってみえた。額が全開になっている。

 実際の年齢よりも若く見られる行宏。

 どっちが兄で弟だかわからない、と昔から周囲に言われつづけていた。女の子じゃないの? ともよく聞かれた。

「本当に来ると思わなかった、って。あんな芝居打っておいて、よくも言えるよな」

 なつかしい兄の姿に意識はくぎづけになっていたが、同時に怒りも頂点にたっしていた。

「皆でグルになって俺をからかっていたんだな。金が欲しいなら最初からそうと言えばいいだろう」

「ちがう! ……あれは」


「俺たち、メジャーデビューするんだよ」

 男が言った。信一というらしい。

 信一は唇に貼り付かせていたタバコをもみ消すと、拓也のほうに向き直る。

「まだ、ようやくスタートラインに立ったとこだけどな。それで……」

「もういいんだ。言わないで、信一」

「よくないだろう」

 行宏を制して、信一が口をひらく。

「ユキはずっと連絡を取りたくても取れないでいたんだ。おまえんとこの親父さんは断固認めてないんだろ……まあ、当たり前といえばそうなんだが。それで、ようやくデビューが決まって、ある程度の方向性が見えなくもない状態になって……けど、報告しようにも勘当されているようなものだし、ゆいいつ連絡を取り合っていた弟だって、じつは迷惑に思ってるかも知れない」

「来るかどうか俺を試したんだな」

「悪のりしたことは謝るよ。俺たちが悪かった。ただ、お祭り騒ぎにでもしないことには素直になれないこともあるだろう」

 行宏にこんな形で裏切られるなんて思いもよらなかった。試すにしても、こんなやり方は酷すぎる。

「だからって納得できるとでも思ってるのか? まったくお笑いだよ。自分の馬鹿さ加減に反吐が出そうだ!」 

 スーツの胸ポケットに手を入れて、八十万の入った封筒を出し、足元に叩きつける。

 封筒の口が開いて、札束がフローリングの床に散らばった。

「指が無事で何よりだよ、兄さん」

 酷く傷ついたような、悲しげな顔。

 まるで幼い子供みたいだ。

 こんな表情の行宏を前にすると、なにもかもがおかしな方向に行ってしまいそうになる。行宏なんて大嫌いだ。

「拓也!」

 一度だけ、行宏のライブを聴きにいったことがある。

 誰にも言わずに、たったひとり。

 行宏本人にすら秘密にしていた。

 赤坂にあるライブハウスの一番後ろ。

 壁を背にして全体を見渡しながら、たったひとりの姿にくぎづけになっていた。

 押し寄せるライブの熱気を肌で感じ、その声に、存在感に、圧倒され、奪い尽くされた。

 歌っているときの彼はまったくの別人だった。

 兄弟でなかったら、ただのファンのひとりであったなら、どんなにか幸せだったろう。

 いつか。そう、いつの日か、彼が表舞台に立つのはとうにわかっていた。

「拓也! ……チケット送る。送るから」

 いくつもの感情がどろどろに混ざり合って、腐臭を放ちそうになる。

 いま口を開けば何を言い出すか、自分でも想像がつかなかった。

 無言のまま拓也は背を向けると、足早に玄関に向かった。


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